桜の木の下には
キジノメ
桜の木の下には
教室の窓から吹き込む風は、何かを思い出させるような暖かさをしていた。
思わず僕は窓に目を向ける。校庭の片隅では、満開になった桜が、気持ちよさそうにその枝を揺らしていた。
「……」
今は昼休み。教室は部活に行った人が多いせいか、静かなものだった。そりゃそうか。今日は新入生歓迎会が終わった次の日。仮入部期間に入ったから、勧誘やらなんやらで、忙しいに違いない。
かく言う僕も部活には入っているが、とある事情で今は行く気になれない。
突然、桜をじっくりと眺めたくなった。
「……五時間目、サボろうかな」
口に出すと、なんだか、よりそうしていたくなった。怒られた時は怒られた時でいいや。午後は桜を見てのんびり過ごそう。
僕は席を立ちあがって教室を出た。
校庭の端を通って、桜の木へと向かう。途中吹く風は思った以上に強く、何度か立ち止まりそうになった。グラウンドも、砂嵐が起きている。今日は野球部やサッカー部は大変だろうな……。
春の日差しは、空気が冬のように澄んでいないせいか、真っ直ぐに届かない。どこか暖かさがある。それが好きでもあり、温情を掛けられているようで嫌な時もあった。
とぼとぼと歩いているうちに、桜の木の根元まで来た。
学校の中で一番立派な木は、多分これだ。木には詳しくないから、樹齢何年とか、そんなことは分からない。ただ天に向かって大きく広げるその枝ぶり。自分一人、いや三人でも抱けないほどの威厳のある幹。淡く桃色に染まった満開の花びら。どれをとっても見惚れる。
桜の木の根っこを踏みながら、幹に近づく。ひたりと手を置くと、ざらついた手触りと共に、ほんのりと暖かい温度が伝わってきた。桜の枝が風に揺れて、木漏れ日をつくる。それが丁度頭の所にあるのか、じんわりと髪が熱くなっていく。
ちょっと上を向いた。花びらは止むことのない気まぐれな風に合わせて、少しずつその命を終わらせている。切ない状況のはずなのに、僕には花びらが風に乗る瞬間、生き生きしているように見えて仕方がなかった。
ため息をついて、根元に腰を下ろす。そして校庭の方を見ると、丁度ひとりの男子生徒がこちらに向かってきている途中だった。誰だろう。
「やあ、雪乃」
「……、お前、鳥越?」
僕の名字を呼んだのは、紛れもなく鳥越だった。ザンバラに切った黒髪に、おどけたような垂れ目。泣きぼくろがトレードマーク。
僕はちょっとの間黙り込んで、彼に手を振った。
「なんで、ここに?」
こっちまで来て隣に座り込んだ彼にそう聞くと、鳥越は照れ臭そうにちょっと笑った。
「いや、窓から校庭を見たら、お前がここにいるのが見えて。気持ちよさそうだなーって思って」
「お前もサボる気?」
「君に文句は言われたくないよ」
呆れる僕に対して、鳥越は先に言葉を遮った。流石だ。僕が何を言うか分かっている。
なんだか、おかしい。春の陽気がそうさせるのか。
「何笑ってんだよ、雪乃」
「別に。おかしいなって思っただけさ」
「何が?」
「……何でもないよ」
ちょっと俯く。小さく震える自分の手が目に入った。寒いのだろうか。
二人で黙り込んでいると、不意にチャイムの音が鳴った。あーあ、と言って、鳥越はけらけら笑う。
「これでもう、サボり決定だな。次の先生誰だよ」
「久知野先生」
「まった面倒な先生じゃん。戻んなくていいの?」
「別にいいや。ここにいたい」
「……眠たくなるくらいいい場所だもんな。ここ」
「うん。そうだね」
それだけではないけれど、それを抜いても、本当に、良い場所だ。
上を向いて桜の花びらをただ見ていると、鳥越は何か思いついたのか、急に立ち上がった。
「あ? 鳥越、急に何……」
彼は桜の舞う中こちらを向いて、びっと指を空に向ける。
「『桜の樹の下には、死体が埋まっている!』」
いきなりそう叫ぶもんだから、ちょっと驚いて身を引いた。彼は僕の方を向いたまま、ニヤニヤと笑っている。……ああ、それか。
僕は次第ににやけそうになる顔を抑えながら、その言葉に答える。
「『これは信じていいことなんだよ。なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか』」
「『俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には死体が埋まっている。これは信じていいことだ』!」
そこで言葉を切って、鳥越は僕を見て笑った。
「暗唱完璧じゃん。最近読んだの? 梶井基次郎」
「『桜の樹の下には』だろ。お前好きだよな」
「梶井が好きなんだよ。ロマンチックじゃん」
「どこがロマンチック?」
「現実ではありえないような想像をするところ」
鳥越はすぐにそう言った。僕はそれに首を捻る。
「それなら所詮、現実じゃないじゃん。僕は、梶井基次郎が空想好きの少年みたいに見えて嫌いだね」
「お前、考えたことないの? 現実ではあり得ないようなこと」
「……否定しないけどさ。結局はあり得ないことだから、考えても無駄じゃん」
僕は彼から目を背けて、そう呟いた。雰囲気で鳥越が頬を膨らませたのが分かる。
「はっ、この現実主義者。そんまんまだと夢も見れなくなるぞ?つまんねー人間」
「うるさいな。個人の勝手だろ」
「へーへー、そうですね。勝手デスネ」
「なんだよ、不満げに」
鳥越の方をちらりと見ると、彼は僕を見ず、花びらが広がった地面に、目を落としていた。
そしていきなり、
「この桜、きれいだよな」
ぽつりと言う。えらい話が変わったが、否定する意味もないので、僕は相槌を打つ。
その相槌に、彼の目が輝いた。
「それじゃあ、この木の下には死体があんじゃねえの?」
「……」
呆れてものも言えない。
「……あのなあ。この現代に、人の死体なんて埋められるわけないだろ。一部ならともかく」
「それじゃあ、大昔のなら」
「とっくに分解されて、跡形もないよ」
「……お前なあ」
鳥越にため息をつかれた。
「つまんない人生送ってんな」
「正しいつもりだよ」
「そんな正しさの何が楽しいんだよ! つまんないつまんないつまんない! もういい。掘ろう」
「えっ。マジかよ」
いきなりの断言にちょっと慌てる。鳥越は本当に腕まくりをして、素手で掘ろうとしている気満々だった。
ここの地面、固いし。素手って。それにもし掘って死体やら何やらが出てきたらどうすんだよ。
僕は慌てて彼を止めた。
「分かった、分かったから! 素手は止めよう。僕が掘るから」
……何で手伝う方向で話しているんだろう、僕。
「分かればいいんだよ」
思い通りにいった、とでも言いたげな顔。確かにそうだけど、ちょっとだけムカついた。
体育倉庫から奥に眠っていたスコップを取り出して、例の桜の傍へ向かう。鳥越は暇そうに、ぶらぶらと木の周りを歩いていた。
「お待たせ」
「遅い」
「奥にあったんだよ」
埃被って探してきたんだから感謝しろ、と睨むと、悪い悪い、と別に悪びれもせず鳥越は手を合わせる。僕はため息をついて、スコップを地面に突き立てた。
思った以上に土が柔らかい。これならある程度の深さまで、すぐ掘れそうだ。
僕が掘って横に投げた土を、鳥越はしげしげと確認している。段々と土が固くなって止めようとした時、鳥越が僕に声をかけた。
「なんか出てきたぞ」
「死体じゃないよな……」
スコップを肩に担いで、座り込んでいる鳥越の隣に僕も座った。彼が僕を見ながら土の中を指差す。
そこには、銀色に光る小さい何かが埋まっていた。
「なんだこれ……?」
手を伸ばして、その銀色の物を掴み上げる。土を丁寧に払うと、形が丸だということが分かった。
銀色、円状。
指輪だ。
「土の中に指輪か」
覗き込んだ鳥越はそう言った。僕はまだ何も言わず、その指輪を太陽にかざしたりして、全体をじっくりと見る。少し傷は多いが、まだまだ綺麗だ。磨けば使えるだろう。デザインは至ってシンプルで、装飾が何もない。ダイヤが付いているわけでもなかった。
そして、その円の内側にはイニシャルが彫ってあった。
「……、K・H?」
「イニシャルがあんの?」
「ああ。ほら、内側に」
「へえ……誰だろうな」
こんなイニシャルだけじゃ、該当者はごまんといる。特定は無理だろう。しかし、桜の木の下から死体ではなく、意味ありげな指輪。人生いろいろあるもんだ。そう僕は納得しているのに、隣でちらちらと僕を見てくる鳥越がうっとしい。自分のおかげで発見出来たと誇りたいのか、はたまたこの続きを所望するというのか。
好奇心旺盛な彼は、当然後者だった。
「なあなあ、雪乃。これ誰か特定しようぜ」
「嫌だよ、めんどくさい。K・Hなんて、どこにでもいるぞ」
「そう言い切るなよ」
土を戻そうと立ち上がった僕を、座ったまま下から見上げる鳥越。
「この桜の木は、学校の中でも校門から遠い位置にある。ってことは、この指輪を埋めたのは学校関係者。うちの学校はアクセサリーは禁止。よってこれは先生の物か、特別に許可をもらった数人の物。また指輪ってことは、付き合ってたのか。でもこれはエンゲージリングとは思えない。あまりにも飾りが無さすぎる。まあここからは予想だけど、この指輪。そういう恋愛とは無関係に人から送られた、重要なものなんじゃないかな? なあ、ここまで来たら特定できそうじゃない?」
「……」
素直に、惜しい人材だ、と思う。状況分析の力は素晴らしくある彼。ただ自分で自覚していないせいで、上手く使いこなせていなかった。
でも今回の考え方は、中々いいんじゃない?
「鳥越、頭良いよなあ」
そう言うと、彼はきょとんと、本当にきょとんと僕を見てきた。
「どこが? お前の方が学年順位上じゃん」
「うん。まあね……」
そいうことじゃ、ないんだけどなあ。
僕は苦笑いして、スコップを掴みなおす。雑に土を戻して、地面を均した。
「それじゃあ、探してみっか」
「よっしゃ! やろう!」
僕の諦めたような声に、鳥越はガッツポーズして喜ぶ。
……本当に。
本当に、楽しそうな奴だ。
と、
「雪乃君」
急に声を掛けられてそちらを向くと、頭を抱えた久知野先生が立っていた。
「あ、先生」
鳥越は冷や水を浴びたかのように、急に静かになる。僕は彼をほっておいて、先生の方へ近づいた。
「すみません」
まず頭を下げて謝ると、はあ、とため息が降ってきた。
「お前なあ。いい加減、無断で教室からいなくならないでくれ」
「……サボる、と正直に言ったら許してくれますか?」
「誰が許すと思っているんだ」
そりゃそうだ。僕も誰も許さないと思う。
俯く僕を数秒見た後、先生はもう一度ため息をついた。
「……今回は別にいが、今度からは、保健室に行くとでも言ってサボれ」
「分かりました」
「そこは、頷くところじゃないだろ」
久知野先生ではなく、鳥越にぼそっと言われた。きっと睨むと、慌てて黙り込む。全く……。
先生はそんな行動をきょとんと見た後、僕の右手に持つ指輪に目を止めた。
「おい、この学校、アクセサリー禁止だぞ」
「あ、いえ、木の下から出てきたんです」
「……掘ったな?」
「すみません」
先生は僕の手から指輪を取り上げる。そして一目見た瞬間、顔色が変わった。
不意打ちを打たれたような。そしてすぐ後には、思い出すかのように切ない顔をしていた。こう言うのは嫌だが、自分にも覚えのある表情をしていた。
この顔は。この悲しい顔は。
「……先生?」
小さく声をかけると、今初めて僕に気が付いたかのように、先生は飛び跳ねた。後ろで鳥越がクツクツ笑う。お前は黙っとれ。
「先生、大丈夫ですか?」
先生は幾度か目を瞬いて、僕に指輪を返す。
「……埋めなおしといてくれ」
かすれた声で呟いて、先生は僕らの元から去った。
「ありゃ、絶対何かあるぞ」
放課後。僕と鳥越は図書室に向かっていた。鳥越の指示だ。隣を歩く鳥越は、僕に向かって指を立てる。
「ただの指輪を見てあんな顔をするか? いや、しないね。絶対先生に関係あるんだよ、あの指輪。それにお前から奪わなかったってことは、自分のではなく、知り合いの指輪か」
「そうだろうね」
「というわけで、図書室で先生が受け持っていたクラスの卒業アルバムを見よう。怪しいのはまず生徒だろ。あの先生、生徒好きだし」
「そこからイニシャルか? 何人いると思って……」
「それでも数人さ。そこからいわくのありそうな人を探す」
「いわくって」
苦笑すると、彼は大真面目で頷いた。
「先生と関係の少ない人の指輪を、先生が受け取るとは思えない。それならある程度は関わり合いがあるはずだ。だから先生が担当していたクラスを調べる。それはいいだろ?」
「ああ」
「んで、だ。普通の人が売り物になりそうなものを校庭に埋めるとは思えない」
「あり得るだろ」
「確率は低い。確率が高いのは、それよりも、持ち主に何かあって埋めた、だろ」
「まあな……」
よくもまあ、次々に考えるもんだ。最初はイニシャルで特定は無理だと思ってたが、これなら出来そうだ。
二階の図書室に着く。ドアを開けて二人で中に入ると、カウンターに一人の女性が座っているのが見えた。遠野さん。図書ボランティアの人だ。あの人に聞いたら、アルバムを貸してくれるだろう。
「すみません」
声をかけると、下を向いて本を読んでいた遠野さんが、ゆっくりとこちらを向いた。
「あら、雪乃くん」
「こんにちは」
何を読んでいたのかとカウンターを覗き込むと、見知ったカバーの本だった。
「……檸檬、ですか」
梶井基次郎の「檸檬」。新潮文庫のやつだ。僕も同じものを持っている。
遠野さんは、寂しそうに笑いながらカバーを手で撫でた。
「読み直したくなって、ね」
「……そうですね」
その気持ちは分かる。僕だって、嫌いでも読み返したのだから。いや、今はそんなことを考えるのではなく。
「卒業アルバム見たいんですけど、いいですか?」
「あら、珍しい。本を借りに来たのではないのね?」
「ちょっと用がありましてね」
曖昧にそう言うと、遠野さんは深く聞くことはせず、席を立った。
「アルバムは、書庫に保管されているの。ついて来てちょうだい」
遠野さんから、ここ五年分(久知野先生がここに来たのが五年前だから)を借りて、図書室の一角に座る。その隣に、鳥越はふらりと立った。
「お前、さっきから喋んねーな」
「……図書室だからね。君も黙れよ」
「へいへい」
こういうところは素直だなあ。本当に黙り込んで、僕がページをめくるのを覗き込んでくる。
まずは最近のアルバムから。名前順になっているのでとても見やすい。K・Hだから、名字がハ行だな。
……意外にも、その年には該当者はいなかった。
「いないもんだね」
「俺もびっくりだ」
二人でそんな感想を言ってから、二冊目に入る。
……次も、いなかった。
「原田恵子、とか、藤原圭、とか、いないの?」
「いないね……」
三冊目。やっと一人、該当者が出た。堀川圭太。男性だ。ただ正直言うと、野球部にでもいそうな強面なので、指輪を持っているとは想像できない。
「直感で、この人は違うと思うんだけど」
「いや、この人かもしれないぜ?」
そう言う鳥越は、吹き出しそうになるのを堪えて、真っ赤になっている。絶対この人とは思ってないだろう……。
四冊目。該当者なし。
五冊目。また一人だけの該当者。
「……平川、香?」
長い髪を垂らしている、肌が真っ白な美しい人だった。集合写真では、休んでいたのか、丸縁にその顔を収めて写っている。
これで、五冊分終了。
「……たった二人?」
僕は首を捻りながら呟いた。たまたまなんだろうけど、こんなにもいないもんなのか。不思議に思うけれど、鳥越はただラッキーと思ったらしい。振り返ると、楽しそうに笑っていた。
「これで特定出来るな。案外早くに突きとめられそうだ」
「それだよ、鳥越。ちょっとアルバム返してくるから待ってろ」
鳥越を置いて、アルバムを遠野さんに返しに行く。カウンターで受け取った遠野さんは、しばらく僕を見つめていた。
「……なにか、僕、変ですか?」
そう言うと、遠野さんは照れもせず、静かに微笑んだ。
「いいえ。雪乃くんが元気そうで良かったと思って」
「……そう見えます?」
「ええ」
「……そうですか」
それは多分、今だけ。そうは思っても元気にしている自分が少し恨めしい。
そう思って僕は苦い顔になったが、遠野さんは対照的に首を振った。
「良いことだよ」
「……」
「元気になるのは、良いことだよ」
「……はい」
僕はぺこりと頭を下げて、カウンターから離れた。
戻ると、不思議そうな顔をして、鳥越は待っていた。
「何話してたの?」
ちょっと悩んで、嘘をつく。
「別に。梶井基次郎についてだよ」
鳥越は顔を綻ばせた。あ、しまった。
「遂に分かってくれたのか? 梶井さんの魅力を! まさか雪乃、あんなに嫌いだったのに」
「別に好きになってないから。舞い上がんないで」
「なあんだ……」
一気につまらなさそうになった。嘘でも好きって言えばよかった。ちょっと後悔したが、頭を振って、話を切り替える。
「で? お前、さっき特定するって言ったけど。何で特定するつもり?」
「は?」
「いや、は? じゃなくて。直接久知野先生に聞くつもりか?」
「もちろん」
「……」
頭を抱えた。
「先生の嫌な事だったらどうすんだよ。怒らせてでもみろ。めんどくさいぞ」
「いいじゃん。知りたいんだから」
「……」
人の気持ちをなんだと思っている。
「あのなあ」
「別に聞いても大丈夫だろ。怒んねーと思うよ。てか、それ以外に特定する方法あるか?」
「……ないけど」
「じゃあ行こうぜ」
立ち上がって、鳥越は早くもドアの前に立つ。僕はため息をついてドアを開けた。
廊下に、足音が一人分虚しく響く。不思議なくらい鳥越の足音はしなかった。
二人して歩いていても、話すことがない。気まずいくらい黙り込む。僕はしょうがなく窓から外を見た。丁度、あの一番の桜の木ではないが、まだ若木の桜の木が見える。こちらも負けず劣らず満開で、その命を散らせようとしている。人間は儚いものに魅力を持つ。でもそれは花の場合だ。
目を前に向けると、こちらに歩いてきた先生と目が合った。
「あれ、油井先生」
鳥越が言う通り、その先生は油井先生だった。年配の女性の方で、とてもおっとりしている。去年度まで、保健室の先生だった。
「油井先生、定年退職したのにな」
僕がそう言うと、鳥越が驚いたように僕を見た。
「退職したの? あの先生」
「あ、ああ。そうだよ」
そう言ったところで、先生がわざわざ立ち止まって、僕にお辞儀をしてきた。
「こんにちは」
僕なんて知らないはずなのに、なんて丁寧な。
「こ、こんにちは」
僕も慌てて礼をする。横で鳥越は知らんぷりしている。はあ。
「今日はね、忘れ物を取りに来たのよ」
「はあ、それで」
って、そうだ。
「先生、いきなりの質問すみません。この学校は、何年務めていたんですか?」
聞くと、指を折りながら先生は数える。
「ひい、ふう……」
素でそう数える人、初めて見た。
「十年、かしらね」
「十年、ですか」
それなら、さっきの平川さん、または堀川さんを知っているかもしれない。僕は何の知識もなしに久知野先生の所へ行く勇気はない。指輪に関係する人がどんな人物か知っておこう。
「えっと、二人ほど、聞きたいんですが、まず堀川さんという方、知っていますか? 男性の、数年前に卒業した」
言うと、先生はけらけらと笑った。
「堀川くんね。いつも怪我をしていた」
「……」
思った通りそういうタイプか。明らかに指輪とは関係なさそうだ。
「それじゃあ、もう一人。平川さんという方、知ってます? 色が白くて、髪が長い人なんですけど」
油井先生は、ちょっとの間、黙り込んだ。それは思い出しているというより、懐かしんでいるという顔。
「平川、香さんよね」
いきなり名前を当てられて、少し驚いた。
「ご存じなんですか?」
僕の食いつきそうな勢いの質問に、油井先生はただただ寂しそうに笑う。
「とても、病弱な子だったわ」
「……」
この言葉で、先が見えてしまった。
「平川さんね、卒業する間近に、病気で亡くなったの」
先生と別れて、僕と鳥越は職員室へ向かっていた。このずっと持っている指輪を、先生へ届けに行くために。
「その指輪、平川さんのだったんだろうな」
鳥越は、問題が解けたようなハイテンションではなく、むしろ落ち込んだように言った。教室からは吹奏楽の音色が響いてくる。それでも廊下は、時が止まったように静まっていた。
「久知野先生は、その人に慕われていたんだろうな。形見でもらったのかな」
「……そうかもね」
「それで、埋めた。なんでだろうな」
「そうだな……」。
学校を卒業出来ず死んでしまった、生徒の形見。
先生は、どんな気持ちで埋めたのか。
あいも変わらず、廊下は静かだ。遠く感じた廊下を歩き終えて、やっと職員室に着いた。多分先生はいるだろう。深く考えずに僕はドアをノックし、ドアを開けた。
「久知野センセ―、いらっしゃいます、か……」
久知野先生の席は、ドアからかなり近い。
そのせいで、古い卒業アルバムを引っ張り出して目が真っ赤になっている先生と、目が合ってしまった。
「……ああ、雪乃君」
掠れた声で、先生は僕の名前を呼ぶ。そして目を強くこすった。その後に見る先は、僕の握りこんだ右拳。
「その様子じゃ、指輪の持ち主を特定したんだな」
「……はい」
人の泣く姿を見るなら、鳥越をねじ伏せてでも調べなきゃよかった。
僕は今更ながら後悔した。
先生は、職員室から出てきてくれた。僕と鳥越の前で、壁に寄りかかりながら立つ。
「それで? 雪乃君の調べなら、その指輪は誰のものだ?」
僕はチラリと鳥越を見た。彼は心ここにあらずという感じだったので、代わりに僕が喋ろう。
「五年前の卒業生で、病気で亡くなった、平川香さんのですよね」
「そうだよ」
先生はそう言って、思い出すかのように目を瞑った。
「彼女は、私を慕ってくれてね。病気がちでも頑張って学校に来ていたんだ。でも、三年に上がった時、がんが発覚した」
……がん。
高校生の日常からは、かけ離れていた言葉だった。
鳥越は、変わらずに遠い目をしている。
「余命を宣告されたんだよ。ただ、平川さんは懸命に、本当に懸命に、生きてね。三月までもった」
懸命に。強く。当たり前に生きられない人が、懸命に生きる。
どれだけ尊くて、どれだけつらいことで。
「治療にも耐えて、つらいことにも耐えて。段々と思い通りに行かなくなる身体にも耐えた。……そして、三月を迎えて卒業したいと言ったんだ」
「……」
出席日数や成績から考えれば、普通は留年だろう。でもこんなレアケース。生きていたら、彼女は卒業していたのだろう。卒業式に出て、卒業証書をもらっていたのだろう。
しかし彼女は。
「……三月の、卒業式一週間前に亡くなったんだ」
「……あと」
あと、七日で。だらだらと過ごしていれば一瞬で終わってしまう時間。彼女は生きようとして生きられなかったんだ。
先生は、少し声を詰まらせた。
「あんなにも生きたい、学校に行きたいと言っていたから、学校を見守ってもらおうと思ってね。いや、学校にいてもらおうと思ったからかな。ちょっとでも楽しんでもらえたらなって。だから一番立派な桜の木の下に、指輪を埋めた。指輪は死ぬ直前に彼女から頂いたもので、祖母の形見だったそうだ」
急に、手の中の指輪が重くなった。そんな強い想いが籠った、指輪だったのか。
生きたい、行きたいという願いが込められた、神聖な指輪だったのか。
「あそこの桜の木は、学校全体が見渡せるからね」
「……ええ」
その通り、あそこは校庭の隅だから、校舎もグラウンドも見渡せる。あの桜の木は学校一の木ということだけでなく、見守ってくれている木でもあるのだ。
だから、僕も。
「君も、私が指輪を埋めた気持ちがなんとなく分かるだろう」
「……はい」
もちろん分かる。先生の気持ちは、同じもの同士、分かってしまう。
鳥越を見る。またどこかそっぽを向いていると思ったら、次は僕を見ていた。
そんな顔で笑われても困る。
だって。
だって、彼は。
「雪乃くんも、埋めたんだろう? 鳥越くんの遺骨の一部」
途端、鳥越がにっこりと笑った。今までに、生前にも見たこともないくらい、にっこりと。
満足だというように、にっこりと。
強く吹いた風が、大きく窓ガラスを鳴らす。その音にびっくりして目を瞑る。
目を開いた時には、隣から鳥越の姿は消えていた。
「……埋めました」
鳥越は、二月の下旬に亡くなった。交通事故だった。子供を救おうとして、トラックに轢かれたらしい。聞いた時は「どこの漫画の主人公だよ」と笑いそうになった。
漫画と違ったのは、本人が重傷だったこと。
僕が病院へ行った時には、既に虫の息だったらしい。集中治療室へ入っていて、面会は遮断されていた。それでも漏れ聞こえてくる声で、状況は分かった。
出血が止まらないこと。
反応がないこと。
足の切断はやむをえないこと。
心拍数が低下していること。
どんなに、どんなに控えめにそのことを聞いても、彼は死ぬんだろうなと思った。
笑えなかった。
あんなに才能豊かな、楽しげな、人生を謳歌していた、学校だって楽しんでいた彼が。死ぬとは思わなかった。
よく「神様、なぜ彼を死なせたのですか?」というセリフがある。僕はそれすら思いつかなかった。ただ、信じられなかった。
なぜ死なせたのですか? というより、本当に死ぬんですか? と聞きたかった。
夢だと思ったほどだったのだから。
しかし彼は、二日後に死んだ。二日生きただけでもすごい事だったらしい。医者の人たちは、即死していないのが不思議だと言っていた。
それだけ、生きたかったのだろう。
抗おうとしたのだろう。
それでも死神は、彼から目を離そうとしてくれなかった。
それから、僕は。
僕までも、死んだようになっていた。
かなりの期間、一緒にいた相手が死んだのだ。それは寂しいとか悲しいというよりも、違和感だった。
どうして僕の隣にあいつはいないのか。
どうして僕はあいつの隣にいないのか。
本当に、そう思ったのだ。
死んだことが、実感出来ない。
いないということが、受け止められない。
そのまま僕は部活にも出なくなり、学校をサボりがちになった。
これだと、鳥越に怒られるんだろうなあ、とか思っても、行く気にはなれなかった。
今なら分かるが、僕は思いっきりショックを受けていたのだろう。何も考えない、考えられないレベルまで。事故に遭いそうになったのも一度や二度ではない。それはなにも後追い自殺ではなく、考えなしになっていたからだ。
そして進級して、四月。今日。
まだ夢見心地の僕の目の前に現れたのは、死んだはずの鳥越だった。
見た時は、一瞬絶句した。そして、本当に死んだのは夢だったのかと思った。
まあ、もちろん、違ったが。
「……僕があそこに遺骨を埋めたのも、先生と似たような理由ですよ」
学校に遺骨の一部を埋めることになったのは、家族の意向だった。学校が好きだった彼に、けれど学校を卒業出来なかった彼に、学校に少しだけいてもらおう、と鳥越の家族は考えたらしい。それは僕としても賛成だったし、実際頼まれた時は、喜んで承った。
どこに埋めるかは、僕が考えた。
どうせなら、学校を見渡せる位置にいて欲しかったし、もうひとつは梶井基次郎の一説を思い出したからだ。
『桜の樹の下には死体が埋まっている!』。だから、桜は綺麗なんだと。
彼は梶井基次郎が好きだった。そんな彼なら、桜の木の下に埋めても怒らないだろうと思って埋めた。
そのおかげか。
今年の桜は、見事だった。
誇らしげなほどだった。
そうだ。
彼は死んだんだ。もう、もういないんだ。
「……先生」
「なんですか」
「……今年の桜、綺麗ですよね」
嗚咽が混じる。身体が痙攣する。
「……そうだな」
先生の優しげな声に、ようやく涙が溢れ出た。
鳥越が死んでから、僕は初めて泣いた。
桜の木の下。満開の花びらが舞う。
僕は、土の地面をトントンと素手で叩いた。
「……お前のおかげで、桜が綺麗だよ」
いくら綺麗でも、散っていく。命は枯れる。
僕も、それを見送れるようにならないとなあ。なあ、鳥越。
「……ようやく、夢から覚めた気分だよ」
鳥越は、僕にしか見えていなかったようだ。会った人全員が鳥越を無視していたのだから。もしかしから、あの鳥越は僕の妄想だったのかもしれない。それとも幽霊の類だったのか。
どちらにせよ、僕に一歩進むきっかけをくれた。
僕は、地面を叩く。
「……なんで死んだんだよ」
こう思えるのだって、今回、鳥越と話せたからだ。
ありがとう。
「……早すぎるよなあ」
なあ、鳥越。知ってるか? 桜は別名、夢見草というそうだ。
名の通り、僕も夢を見たよ。
桜の下に埋まっている、お前のおかげか?
「……ありがとう」
本当にありがとう。
桜が、爽やかな風に揺れる。
花びらが、楽しげに踊る。
僕は黙ってそれを眺めていた。
FIN
桜の木の下には キジノメ @kizinome
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