3話目

 次第にどうしても暗くなっていく七瀬が心配で、私は少し出口に急いでいた。そして出口手前で、右手に折れると特別展の「くらげ展」。

「どうする、七瀬。このまま出る?」

 言外に「辛かったらこのまま帰ろう」という意味を込めたつもりだったけど、いいや、と七瀬は首を振った。

「特別展のチケットを無駄にしないために来たんでしょ。行かないと意味ないよ」

「でも七瀬……」

「大丈夫だって。ごめんね、こんなに心配させて。楽しめないでしょ」

「いやいや私が誘ったんだから、別にそれはいいって」

 後半は言葉少なになってしまったし、七瀬は辛そうだし、本音を言えば、本当にちょっとだけ、私も気が滅入ったけど。

 でもそれを言ったら、七瀬がもっと滅入るでしょ。それに文句を言うほどじゃないし。七瀬が話してくれる魚の雑学は面白かった。

「じゃあ、入るよ? 辛くなったら本当に出てね」

「ありがと。でも俺、ちゃんと水族館は回らないといけないんだよ。兄ちゃんが死んでから一回も行けてなかったんだ。だから、本当は明日までに、一度」

 後半は独り言だったみたいで、あまり聞き取れなかった。明日までに一度? 明日、お兄さんに関係する何かがあるのだろうか。

 とりあえず私たちは、くらげ展の中に入った。


 半ドーム式になっているその中は、薄暗い照明で、青く暗かった。真ん中の柱に透明な水槽が組み込まれていて、それを囲む円形の水槽が6個。触手(さっき他の場所で見た時、くらげを指差して「足だ」と言ったら七瀬に「触手だよ」と苦笑いされた)を長く伸ばしたくらげが、それぞれの水槽で泳いでいる。普段の生活からは想像しないような、不思議な空間だった。

「綺麗だね」

 私たち以外に誰もいない。けれど普通の大きさの声も憚られて、私は小声で七瀬に言った。こくん、と彼は小さく頷く。

 足音も忍ばせて、ゆっくりと真ん中の水槽に歩み寄る。床も暗く、目の前のくらげも、おぼろげに見える。

 そこにいたくらげは、分厚いドーム型の傘を持っていた。触手はタコのそれが折りたたまれたようで、太くて短かった。

「くらげって、全部が全部、長細い触手を持っているわけじゃないんだね」

「これはブルージェリーっていうくらげ。日本ではタコクラゲって言うくらいだからね。タコみたいだろ」

「そう思ってた」

 小さく私は微笑んだ。でも七瀬はさっき以上に顔が硬くて、私の笑みを見ても口が引きつっている。見ていても心配することしか出来ないから、私は顔を逸らした。

「こっちは幻想的だね」

 真ん中の水槽から離れて、右側の円形の水槽を覗き込む。傘にクローバーみたいな4つの四角の模様がある。触手は短いけれど、細く何十本と伸びていた。青い照明のせいか透明な傘は青色に染まって、銀河でも泳いでいるような美しさで光っている。

「それはミズクラゲ。一番、一般的かな。店でも売ってたりするんだって。……」

「へぇ。……思ってたんだけど、七瀬って物知りだね。くらげだけじゃなくてさ、今まで色々案内してくれたし」

 最初のサメもそうだし、ウミガラスのところでも、ペンギンのところでも解説をしてくれた。さっきも言ったけれど、それがとても気を引くものばかりで面白い。

 魚好きなの? と聞こうと隣の七瀬の方を向いて、

 私は唖然とした。

 七瀬が、ゆっくりと目から涙を流していたからだ。

「……ごめん、兄ちゃん、ごめん」

「七瀬?」

「ごめん、ごめん、ごめん……!」

 くしゃりと顔が歪む。耐えきれなくなったのか、七瀬は膝から崩れ落ちて、肩を震わせた。

 嗚咽が止まらず、涙がぼろぼろと零れている。

 静かなこの空間で、その姿はまるで懺悔に見えた。



 とりあえず出よ? と泣き続ける七瀬を引っ張り出して、近くのカフェに入った。泣く男子を引っ張ってる女子、という異様な光景に店員さんは驚きもせず、2名様ですね、と窓際の席に案内してくれた。

「えっと、さ。とりあえず何か飲まない? 落ち着くと思う」

 ずっと肩を震わせている彼。やっぱり水族館には誘わない方が良かったなぁ、と私は後悔した。こんなに辛い場所だとは思っていなかった。

 彼はまだ涙を流す目でメニュー表を見ていた。……大丈夫かな。見えるかな。

 ほどなくして、「ミルクティーにするよ」と七瀬がかすれた声で言う。私は頷いて、店員さんを呼んだ。

「ミルクティーと、カフェラテください」

「どちらもホットで構いませんか?」

 七瀬が頷いたので、それでお願いします、と注文した。

 で、だ。

「あの、まず七瀬。何度も繰り返して悪いけど、本当にごめん、水族館誘っちゃって。そんなに辛い場所とは思ってなかったから……」

「いや、俺、も断らないの、悪いから。逆に、ごめん。め、迷惑かけた」

 まずは頭を下げあった。謝罪はもうこれくらいで、お互い良いでしょ。

 どうしてこんなに泣いているのか知りたいけれど、多分、七瀬にとって辛い記憶なんだろう。それを思うと無理に聞けなくて、黙ってしまう。やってきたカフェラテに口をつける。温かくて美味しかった。

 ……でも、七瀬も何も言う気が無いらしい。黙ってミルクティーを飲んでいる。

 申し訳ないけれど、我慢できなくなってしまった。

「……あのさ、嫌じゃなければでいいんだけど、何があったか教えてくれない? 本当に、嫌だったらいいからさ」

 聞いちゃう私、本当にどうよ……。

 七瀬は赤い目を擦りながら、苦笑いした。

「聞くん、だね」

「ごめん、忘れて、話さなくていいから」

 苦笑いは怒りを隠しているからだろう、と私は頭を下げた。けれど、七瀬は小さくかぶりを振る。

「……いいよ。どうせなら、話させて」

 七瀬はもう一口ミルクティーを飲み、ため息をついた。

「……俺には、3歳年上の兄がいたんだ。スポーツも勉強も得意で、音楽だけ苦手で。でも誰にも優しくて、俺が大好きだった兄」

 落ち着いたみたいで七瀬の口調からどもりが消えている。涙も浮かんでいない。

「今みたいな時期にね、水族館が好きだった兄ちゃんが、誘ってくれて。俺の知識は全部兄ちゃんから聞いたやつなんだ。その時、兄ちゃんが17だったから、俺が中2の14か。それで行った帰り道で、さ」

 カップを握っていた七瀬の手が、だらりと垂れた。少し俯いて、声が小さくなる。

「電車に乗ろうとしてた時だったんだけど、ホームで俺、いきなり兄ちゃんに押されそうになって」

「え……?」

 思わず声をあげてしまった。だって今までの話じゃ、仲の良さそうな兄弟じゃない。

「なんでか俺も知らない。俺が兄ちゃんを知らないうちに怒らせてたのかもしれないし、なんかむしゃくしゃしてたのかも」

「でも、七瀬は……」

 死んでないじゃない、と続けようとしたら、七瀬が頷いた。

「俺、たまたま押そうとした手を避けちゃったみたいでさ。そのせいで勢い止まらず、兄ちゃんが落ちたんだよね」

 え、と次は声も出せなかった。周りから音も消えてしまったようだ。七瀬は手首に巻かれたブレスレットをさすりながら、小声で続ける。

「慌てて手を掴もうとしたんだけどさ……ブレスレットしか掴めなくて。千切れて兄ちゃん落ちて。そこに電車が来て」

「そんな」

「だからさ、水族館、今まで来たくなかったんだ。色々思い出すから」

「そうなの……」

 軽い気持ちで誘った自分に怒りたくなった。こんな辛いことを思い出させるなら、誘わない方がずっと良かったのに。

 けれど、七瀬は私の心中を察したように、首を振った。

「でももう、そうも言ってられないし。良いタイミングだった」

「タイミングって、なんの」

「……最近、夢に死神が出てくるんだ。最初は遠かったのに、今はもう目の前。誰の顔してたと思う。兄ちゃんの顔だよ」

 思わず息を呑んだ。七瀬はようやく顔をあげて、力が抜けた笑みを浮かべる。

「ねえ、明日、立春の前の日だろ。


 春が来る前に、俺は死神に殺されるんだ」


「……そんな、こと」

 いきなりの言葉に、思考が追い付かなかった。目の前の七瀬は、諦めてどうでもよくなったような、そんな軽い笑顔だ。

「兄ちゃんが殺し損ねた俺のこと、殺そうとしてんだよ。明後日、俺は兄ちゃんの年齢を抜くから。それまでに殺そうとしてるんじゃない」

「……七瀬」

「なに?」

「なんで自分が死ぬっていうのに、笑ってるの?」

 信じられなかった。

 兄が殺す? 殺し損ねたからって?

 それにどうして、七瀬は朗らかに笑ってるの?

「……俺、兄ちゃんと比べて出来が悪いんだ。だからじゃない? お前なんて生きてても意味ないって、殺そうとしてるんだよ」

「そんなのおかしいわよ。死なないといけない人なんて誰もいない。それに死んだ人が生きている人を殺すなんて、ありえない」

「でも俺は、死神と明日、心中しないといけないんだよ」

 断固として言い切る七瀬。

 ずっと前からしてるカウントダウンって、これ?

 自分の死を、毎日カウントしていたっていうの?

 ミルクティーを飲み、ゆるい表情をする七瀬。あまりにも当たり前な風景が目の前に合って、思わず言葉が零れ出た。

「……じゃあ明日、ずっと私といなさいよ」

「え?」

「それだったら殺されないでしょ? 七瀬が死ぬなんて、私、嫌だよ。こんなに話したのは今日が初めてだし、七瀬は辛そうでちょっと気まずかったけど、それでも今日、楽しかったもの」

「遠宮さん……」

「なんで兄が弟を殺そうとするのよ。そんなのおかしい、だって水族館に行くくらい、仲が良かったんでしょ? それなのに、なんで」

「遠宮さん」

 腹が立った。殺しに来るという兄にも。まるで幻覚の様なことを信じ切って諦めてる七瀬にも。

「そんな何年も経って、なんで。おかしいわよ。殺しに来たら私がお兄さんを叱りつけるから。そんなのおかしいって」

「……遠宮さん」

 肩に手を置かれた。思わず言葉が止まる。

 そうしたら、七瀬が顔を近づけてきて。

 一瞬、互いに触れて。

 え。

「……遠宮さん」

 席に座り直した七瀬が、一度首を振って、私を見る。

 そうして、


「……嘘。ぜーんぶ、嘘だよ」


「……は?」

「兄ちゃんが死んだのは本当だけど、死に方とか、死神とか、全部嘘。本気にしないでよ」

「……は?」

 キスされたことも、頭を支配してた怒りも、一瞬で全て吹っ飛んだ。

「何言ってんの?」

「俺としては、なに本気にしてんの、だよ。こんな出来た話、あるわけないじゃん」

「……あなた、あんなに泣いてたのに」

「嘘泣きでーす。カウントだって、ただ引っ越すだけだよ」

 あはは、と七瀬が笑う。

 騙されてたのか。

 人が死んだ話を使って、騙されてたのか。

 そんな男といるのを楽しいと思い、そしてキスもされたのか。

 信じ込んでいた恥ずかしさも相まって、一瞬で目の前が真っ赤になった。


 パァンッ!


「っ……」

 私が七瀬を引っ叩いた音が店中に響く。

 店員さんが何事かと出てくる。関係無しに私は七瀬に怒鳴った。

「ふざけないでよ! 死を扱ってなんていう嘘ついているの!? あなた最低ね! そんな人だと思わなかったわ!」

 七瀬は何も言わない。ただ頬を抑えてるだけ。

 それも癇に障った。

 財布から千円取り出し、テーブルに叩きつける。

「悪いけど気分悪いから帰るね! そんな話、私以外にはしないのをお勧めするわ。きっと誰も引っかからないから!」

 出ようとしたら勢いが良すぎて、椅子が倒れてしまった。直して、さっさと店を出る。

 最悪な一日になってしまった。

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