2話目


「え、風邪ひいたぁ?」

『ごめんねえ。休みだと思ったら気が抜けたのか、高熱出しました~』

「声へろへろだよ。大丈夫?」

『だーいじょぶ、だいじょぶ。で、今日行けなくなっちゃった~行きたかった~ぁぁぁ』

 後半が泣きべそみたいになっている由利。ああ泣くな泣くな、と私は電話越しに慰めた。

「また3月行こうよ。それまで特別展、やってるんでしょ?」

『うん~いこぉぉ』

「じゃあこの前売り券、どうする?」

『わたし、今度ちゃんとお金払うからぁ。詩織の分も』

「由利のはともかく、私のはいいって! どうせだから今日行ってくるよ。前売り券は期限あるからね」

『ごめんねぇ、ひとりにさせて。どうせなら誰か誘って行ってきなよ~。券がもったいない』

「じゃあ誰かに売りつけるかな。まあいいや、また連絡する。お大事にね。図鑑とか見てちゃダメだからね! 寝るのよ!」

『はーい。ごめんねぇ』

「もういいっていいって、じゃあね! お大事にね!」

『うん、ばいばーい』


 というわけで、一週間ある入試休み初日、いきなり予定が崩れた。

 もともとは由利が持ってきた話で。魚が好きな由利は、水族館で特別展が行われることを知って提案してきた。

『くらげ展、行かない?』

 都市でも有名な、海に隣接する水族館では今年、くらげを集めた特別展をするらしい。由利があまりにも楽しそうだし、私もそういうのを見るのが嫌いじゃないので、2人で行こうと予定を立てていた。

 で、その由利が風邪をひいたと。

 休みに入った途端風邪をひくなんて、お前はおっさんか、と思う。だって会社勤めの人って休みに入った途端寝込むんでしょ? うちの父がそうだ。

 風邪はしょうがないとして、とりあえず、ひとりになった、ということだ。

「どうしようかな……」

 ここから水族館は1時間かかる。今の時刻は朝の9時。思いつく友達は、私以上に水族館から遠い家に住む子ばかりで、今から誘っても迷惑だな、と考える。

 ひとりで行くかな。

 ぼんやりとそう思った。

 別に私は、ひとりでどこかへ出かけるのが嫌いじゃない。人と話さずゆったりと何かを見るのは好きだし、十分に楽しめる。

 考えればわくわくしてきた。よし、ひとりで行こう。



 一応持っている前売り券2枚(由利の代わりに買っておいたものだ)を財布に入れて、ICカードを持って、あとは適当に、いくらか。

 気軽な気持ちで最寄りの駅から電車に乗る。30分かけて乗り換え駅までたどり着いた。よし、これで乗り換えて5駅先で下りれば、目の前は水族館がある公園だ。

 と思ったんだけど。

「あれ?」

 4駅揺られてようやく気が付いた。間違えて反対行きの電車に乗ってしまった。

 たまにやらかす私のポカミスが、ここで出た。だから親にいつまでも馬鹿にされるんだよなぁ。

 自分に苦笑いをしながらその駅で降りた。何もない場所なのか、降りたのは私だけ。

 風が強く吹いて、思わず身体を縮ませた。砕いた氷が服の中に入ってきたみたい。

 水族館行きの電車、すぐ来るかな。無事たどり着ければいいんだけど。

 とりあえず待つか、と両手を擦りながら錆びたベンチに座ろうとする。そこには先客がひとり。私と同じくらいの年っぽい。

 と、そこで気が付いた。

「あれ、七瀬?」

 昨日教室で会った七瀬が、ベンチに座っていた。黒いコートにカーキのジーパン。手袋もせずスマホを握っている。偶に風は吹くし、吹かなくても今日結構寒いのに。

 声をかけると、反射的に、とでもいうような速さで七瀬が顔をあげた。あげて、あ、と固まる。微妙に隈が浮いているその目が、私を凝視した。

「……あのー、七瀬? だよね?」

「……俺だけど。また会った」

「ね。家、この近くなの?」

「ここが最寄り」

「そうなんだ。これからどっか行くの?」

 聞くと七瀬は目を逸らし、明らかにどもった。

「いや、えーっと、えーとね」

「い、言いたくないことなら別にいいから」

「いや、別に、うん、なんとなく、いただけ」

 にこ、と笑い七瀬がスマホを仕舞う。私は隣に座った。

「こんな寒い中、ただ駅にいるの? 変わってるなあ」

「そういう遠宮さんは?」

「私? 私は水族館に行こうとして、電車乗り間違えたの」

 馬鹿でしょ、と照れ笑いしたら、七瀬の顔が引きつった。

「水族館」

 どうしてこんな反応されてんだろ。首を捻りそうになった。

「友達が行けなくなってね。でも特別展のチケット、使わないともったいないし。ひとりだけど行くことにしたの」

「……」

「七瀬?」

 あまりに動かないから、私は七瀬の前で手を振った。はっと我に返った七瀬は、眠い時の人がやるように、頭を振る。

「ごめん、なんでもない。へえ、水族館ね」

「七瀬は水族館とか、行く?」

「いや、最近は、全然……」

「ふぅん……」

 あ、待てよ?

 七瀬を誘うってのも、アリじゃない?

 確かに今までは接点なかったけど、ナナハルが彼だと知って、もっと話してみたいって思うし。七瀬、普通に話してても穏やかだから楽しいし。別に気まずくはならないでしょ。

「ねえ、七瀬が良かったらなんだけど、一緒に水族館行かない?」

「え?」

 言った途端、七瀬は困惑というより、恐ろしいものでも見たような表情をした。あまりの表情の変わりように驚いて、私も言葉が止まる。

「え、水族館嫌い?」

「そ、そうじゃないけど」

「友達が行けなくなったって言ったでしょ? その子の分のチケットも持ってるのよ、私。このままじゃ、チケットただの紙切れになっちゃうから。暇ならどうかなって思ったんだけど……」

 途中から意図せず声が沈んでしまった。七瀬が地面を睨みつけているからだ。

 あの温厚な七瀬からは想像がつかないくらい、厳しい表情。思わず私も黙ってしまった。魚、嫌いなのかな。でも、そうじゃないとは、さっき否定してたけど……。

「止めとく?」

 遠慮がちに声をかけると、七瀬がぼそりと、

「……いか、これも」

「え、なに?」

「なんでもない。行くよ、お邪魔します」

 何を言ったのかは聞き取れなかったけど、七瀬が顔をあげて笑った。


 しんどそうな、笑みをしていた。



 緩く吹く北風に乗って、磯の香りがする。空は冬独特の、灰を撒いたような白さだ。

 さすがに平日だからか、私と七瀬以外、水族館へまっすぐ続くこの道を歩いている人はいない。私は思いっきり息を吸って、塩っぽいにおいに笑った。

「ここまで海に近づくと磯のにおいがすごいね。懐かしい気持ちになる」

「海の近くに住んでたの?」

「昔ね。小学校の途中まで、太平洋沿いの町に住んでたんだ。お父さんの仕事の関係で引っ越したんだけど」

「へえ。じゃあ、今でも海の近くは好き?」

「好きだなぁ。昔の事思い出して、ちょっと落ち着くの」

「いいね。俺はずっと住む場所変わってないから」

「でも引っ越しは嫌だよ。新しい場所って疲れるもの」

 そういうものか、と七瀬が首を捻った。引っ越したことがないらしい。羨ましいな、とちょっと思う。

 会話が途切れたところで、七瀬の顔を盗み見る。さっきから顔が青い気がするんだよね。気のせいかな、空がこんな色をしているからそう感じるだけかな。

 そうならいいけど。七瀬の体調をちょっとは気にかけるようにしよう。

「そうだ七瀬。はい、これ。渡しとくね」

 渡し忘れていた特別展のチケットを財布から出し、渡す。受け取った七瀬はそれをじっと見た。

「……くらげの特別展、なんだ」

「そう。くらげ、嫌い?」

「ううん。むしろ好きだよ。そうか、くらげか」

 七瀬はチケットから目を離し、前の方を見た。何かを思い出すかのような顔。

 水族館で、何か特別な思い出があるんだろうか。

 少し悲しそうな顔を見なかったふりをして、私は足を進めた。


 波の音に囲まれた水族館の中へ入り、階段を下りる。薄暗い館内で最初に現れたのは、サメが悠々と泳ぐ大水槽だった。

 ちょっと濁っている様に見えるのが残念だけど、魚の姿は十分に見える。

「不思議だよね。どうしてサメは他の魚を食べないんだろう」

 巨大水槽のガラスの前で見上げていれば、隣に立つ七瀬が答えてくれた。

「あいつらはね、常に餌をもらって腹が空かない状態にしてるんだ。だから食べないんだよ」

「へー。じゃあお腹空いた状態にさせたら、一瞬で水槽が空っぽになるね」

「そうかもね」

 微かに七瀬が笑う。ちらりと見ると、少し疲れたような顔をして水槽を見ていた。


 世界の海ごとに分かれた水槽の展示を抜けて、そのまま外の回廊へ。いきなり風が強く吹いたから、思わず首元のマフラーを巻き直す。

「やっぱり外は寒いね。聞きたかったんだけどさ、寒くない?」

「俺?」

「マフラーも手袋もしてないから」

 七瀬はだいぶ薄着だった。コートは羽織っているけど、手袋もマフラーもニット帽もしていない。コートだって少し短いから、手首のブレスレットが覗いている。見ているこっちが寒くなる。

 けれど七瀬はにっこり笑って「そうでもないよ」と言った。

「昔から、寒さには弱くはないから」

「ならいいんだけど。すごい青ざめた顔してるからさ」

「え」

 水族館の奥へ進めば進むほど、さっきから七瀬の顔は青ざめて硬直してる気がする。さっき笑ってくれたけど、その表情すら硬く感じてしまう。

「大丈夫?」

 七瀬が顔を逸らし、俯く。何か聞こえた気がするけど、ため息だろうか。

「……ここに来るの、誘わないほうが良かった?」

 七瀬、辛そうだし。悪いことしたな、とこちらもため息をつくと、慌てた様子で彼は首を振った。

「いやいや、誘ってくれたのはありがたいんだ。ただ、ちょっとね。色々思い出しちゃって」

「なにを?」

「……俺の兄ちゃん、昔死んでさ。最後の思い出なんだよね、ここ」

 ああ、と何も言えなくなってしまった。

 だから、ずっと顔が暗かったんだ。

「……そうとは知らず、軽々誘ってごめん」

「だからいいんだって。そろそろ行かなきゃとは思ってたから。ほら、ペンギン。見に行こうよ」

 大丈夫だと言うように笑う七瀬の顔は、やっぱり暗い。

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