街にて(1)

 それからの一か月というもの、ラファルの勉学への関心は凄まじいものがあった。以前あれほど苦労していた文字の区別をものの十日で終わらせてしまい、文法を学び始めた。


「ぼくはお母さんが好きです」


 魔女は悪趣味にもそういう例文を教えてみせ、彼に読ませてはにやにやとした。その意味を正しく理解しているがゆえ、赤面しながら発声するのが可笑しかったからだ。


「もう一度」

「お母さん、いじめないで」

「では私のことは嫌いか?」

「そうじゃないけどぉ」


 瞳を潤ませ始めたので、魔女は泣かれると困ると思いやめた。


「では次に進もう――と。この本は、これでおしまいだな。ご苦労さまだ」


 ラファルは、ふと目をつぶってこちらに頭を差し出してくる。一冊の本の学習を終えるごとに、彼は頭を撫でて欲しい、と珍しくおねだりをしていたのだった。魔女はやれやれと思いながら、その柔らかい髪をなでる。その時もはや心の温かさを感じずにはいられなかった。ラファルの、うっとりした笑顔。


「少し休むか」


 少年は首を振って、にこにこと次に学ぶ事項への期待で胸を膨らませながら、熱心に教官を見つめる。上機嫌に肩をすくめて、視線を向けられた主は次の本を探し始める。


 すでに三歳児と思えないほど、彼の言語能力は高くなっていた。何を成し遂げるにも目的、それが大事なのだと魔女は考えた。私もかつて魔女修業したとき、そうだったか。


「――ん、ここに仕舞っておいたはずなんだが」


 床の土埃で汚れないよう、幾重も藁を敷き詰めた上に、沢山の本が山と積まれている。魔女は本の背を上から下へと目で追っていくが、どこにもない。


「そうか、あれはアマンダのところに置いてきたな」


 間違いなかった。しばらく読まない本だろうと思い、宿屋の夫を持つアマンダのところで保管してもらっていたのだ。共に街の婦女会で学んだ仲。しわだらけになったアマンダの顔には、さらにしわが増えているだろうか。それとも、もう――


「ラファル」


 魔女は懐かしみとも不安ともとれる胸の高鳴りを覚えながら、少年へと声をかける。彼は首を傾げた。


「どうしたの?」

「街に行く気はあるか」


 街、と言われても、ラファルにはぴんと来ない。魔女から知識だけ授かっている分には、石造りの壁に囲まれた、高い建物がたくさん立ち並ぶところだということだった。が、少年はそこに行ったことが一度もない。ぼんやりした絵のようなイメージだけ、頭に浮かぶ。


「行ってみたいけど、どこにあるの」


 それで、ラファルは魔女の提案が、いずれ行きたいか、という希望を問うものだと思って言った。


「歩いて少ししたところだ……決まりだな、支度をしろ」

「えっ、えっ」


 今すぐに行くことになると思わなかったラファルは、うろたえる。少年は心に街の活発な様子に、確かに憧れを抱いていたのだ。長い間の森の生活に、やや飽きていたところでもある。魔女は佇立するラファルをよそに、革袋に荷物をまとめていく。


「ぼーっとしていると置いていくぞ。ものを取りに行くだけだ、私だけで事足りるのだからな」

「ぼ、ぼくも行きたい!」


 当たり前の話だが、少年は地理に疎い。彼の住んでいた世界に、近くに都市があるという認識はなかった。


「すぐそこだ。今から歩いて昼間には着く」


 ラファルが先ほどから驚いたり目を点にしたりしているのが可笑しくて、魔女はつい吹き出してしまう。ようやく、彼は支度をはじめた。


 魔女は例の腕を失いかけた事件で、とっておいた血塗られた黒のローブを持ち出した。少年の丈に合わせ、無造作に身ごろを引きちぎる。


「当たり前だが、異形のものは街で見つかったら極刑に処される。フードを目深にかぶれ」


 言われたとおり、少年は魔女のローブを着る。

「血がついていたほうが、私が拾った孤児の風が出る。街ではいつも、連れ歩いているから、ああいつもの物好きの魔女が、と思われるだけだからな」


 支度が整う。少年のいる村から反対の方向の、さらに深い森へと二人の足は向かった。

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