指よ動け(4)
魔女はラファルの安らかな胸の上下を見るまで、一種の恐慌にも似た興奮状態にあった。今、少年の命が救われたと知って、鉄塊を両肩に乗せられたような疲労感にとらわれた。呪文の音数は、それを語る対象の数に比例する。少年の傷を癒す魔法だが、その呪詛はラファルを構成する体の『核』それぞれに向けられたものだった。それゆえ、呪文は長大となる。
長大な魔法に、疲労が伴うのは必定である。続けて、彼の指を動かすための呪文を唱えることができそうになかった。
疲れ果てており、魔女の目にラファルのもふもふした耳が魅力的に映る。寝台は二つあったが少年を抱くようにして添い寝するのは、今日が初めてだった。魔女は今や心からそうしたいと思う思いに、素直にしたがっていた。そうすると、彼の獣のにおい、柔らかな髪がいとおしく思えてきて、シーツにしみた少年の汗などを嗅ぐなどした。まずは一休みしたかった。少年のすべすべした指を、いたわるように触りながら、夢ともうつつともつかない心地に身を投じた。
――こいつが完全に健康を取り戻すまでだからな。
ラファルに情愛を注ぐ行動をとっているが、自分に言い訳をする魔女の癖は、やはり抜けなかった。
ラファルより先に起きた魔女は、すでに日の色が付き始めていることを自覚した。かなりの時間眠ってしまったが、呪文を唱えるだけの力は蓄えられた。
――さて、指が動くかどうかだ。
治癒の魔法をかけたにもかかわらず、夢の世界で指を動かすことすらしていない彼の様子を見て、最悪の状況を覚悟していた。
魔女が呪文で語り掛ける『核』の一つ――肉体の制御や感覚を司る『神経』そのものが、死に絶えてしまっていては、それに働きかけることは不可能。死んでしまったものを、元に戻すことはできないのだ。
――何かの役に立つだろうか。……こいつの尻尾は、そこらの高級な箒よりも沢山誇りを絡めとるだろう。耳がいいから、鹿のいる方向でも知らせてくれるだろうか。あるいは苦痛にあえぐ人々のかすかなうめき声。すこし考えれば、こいつを役に立てる方法はいくらでもある。
ラファルは起きだしてきて、伸びをしようとしたのだろう、胸をそらせる。それに合わせて、腕がうまく連動しなかったので、魔女の目にその動作がひどくぎこちなく映る。哀れみの感情が胸の内にたまっていく。
「起きたか」
つとめて微笑みながら、彼に言う。ラファルは不自由そうに起きだしてきて、
「おなか、すいた」
と言った。
「……リンゴをやろう」
革袋からリンゴを取り出して、ラファルに軽く投げる。それに反応して彼の腕が動いたが、指はやはり動かず、赤く熟したそれを取り落とした。拾い上げることもできない。
「全然動かないか?」
「ね、おかあさん。ぼく、だめ?」
ラファルは身震いした。今になって寒さに気づいたから、というだけではないだろう。
「わからない、ともかく治してみよう……手を出せ。左腕は、使い物にならない。痛みなく切り落としてもいいが」
幼い少年の顔に苦渋の色が混じる。魔女としても、片腕のない者を連れ歩くのは、彼が目立ちすぎて良いことではないだろうと思っていた。
「ぼく、なまえ、もらった」
ぽつり、ラファルがつぶやいた。小さな声だが、確かに魔女に向けられたものだった。
「かきたい。ぼく、なまえ、かきたい」
「そうか」
もうその一言だけで、魔女に取っては目の前の少年を助けてやるのに充分すぎるほどであった。魔女はラファルを寝台に再び寝転がらせると、呼吸を深く整え、再び呪詛を紡ぎ始める――。
『指よ動け。少年の、不器用な指よ――』
『神経』は、魔女の呼びかけに微細に答えた。赤子の毛が風に揺れる程度の生命感。やれる、という確信が持てるほどではなく、魔女は駄目かもしれない、と覚悟する。
それでも、救ってやりたい。この少年の書きたいように、書かせてやりたい。魔女はラファルの不安そうな、それでいてやる気に満ちた表情を、ふいに自分の幼少のころと重ね合わせて考えた。
――私もこいつと同じように、何も書けない人間で、書きたいと思って育ってきたから。
『指よ動け――』
「まじめに、がんばる。あそび、やめる。かきたい」
呪文からしばらくの間、全く動きがなかった指がピクリ、ピクリと痙攣する。ラファルはその感触が分かった。たまらず動かしてみる――薬指、小指以外は、確かに動く。宵闇に急に陽が差したような笑顔が、魔女の目に眩しい。
ラファルは自分の手で床に落ちたリンゴを拾い、近くの水場で洗ってきて、食べた。食べ終えると、
「せんせい、おしえてください」
かすかに緊張した声で言った。
「これからは、ゆっくりでいい。お前の調子で書くといいさ。その代わり、もうお前に期待もしない。好きに読み、好きに書くんだ」
魔女は額の汗をぬぐい、木椅子に落ち着いて腰を下ろしながら言った。言ったはいいが、あまりの疲れに、そのまま眠り込んでしまいそうだった。
「これがお前の名だ。練習してみな」
睡魔にとらわれる中かろうじてペンを執り、彼の名を革袋につづって渡す。
「おかあさん、ねて。ありがと、たすけてくれた。らふぁる、うれしい、です」
ラファルは魔女が微笑みのうちに夢の世界に旅立つのを見た。彼女の監視に置かれずとも、真面目に、正しく文字を取得するためにペンを動かしていく。
そして一週間かけて、ラファルは自分の名のつづりを、羊皮紙に書きつけた。
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