指よ動け(3)
少年を家まで抱き抱えて運んだ。ほとんど意識はないに等しく、何かうわごとを言っている。迅速な治療に生き死にがかかっている。
寝台に転がった少年のゆるんだ頬には、苦しみの色が浮かぶというよりもはや、死への羨み――このまま楽園へ旅立つことへの憧憬が兆していた。
――いよいよこいつを、食べるときが来たかもしれないな。
左腕、それに右手の一部を使えないとなると、この先森で暮らしていくにあたってはかなり厳しい。魔女とて忙しい時期がある。これからの冬の季節など、栄養失調で倒れていく人々が続出するだろう。あまつさえ不作なのだ、仕事が増えることは必定だった。その間家に放っておくわけにもいかない。独りでろくすっぽ食事もとれなくなるだろう少年を、置いていくのは不憫だ。
魔女は、もはやそんな自分への、ごく生活的な言い訳が腹立たしくなっていた。
少年が、寝返りをうつ。苦しそうに悶え、息は深すぎるほど深くなって、もうじきにでも眠り込んでしまいそうだ。
その時だ。少年が、やや息を吹き返して言ったのは。
「ぼく、さいご」
観念した。蓋をしていた想いを明らかに自覚して、溢れるままにして浴びるように感じる。冷たい毒のように、それは背筋を走り突き抜けていく。
だからこそ、もうここで安らかに眠らせてしまえばいい。少年を想っているからこそ、魔女は同情の気持ちを捨てる。
――煮て食おう。きっといい出汁がとれる。
そこでついに魔女は感極まる自分の感情が結晶となって頬に流れ落ちているのを知った。すでに床には何滴も、それが落ちていた。気づかなかったのである。
「そんなことはない」
自らの悲痛な感情を押し殺しながら、最大限努めて冷静に言った。刺激をすることも控えたかったので、当たり障りなく魔女は応じる。少年も少年で、このままいくと自らの命が尽きるのを心に悟っていた。
「なまえ、よんで」
「お前に名前はない」
「つけて、さいご、だから」
それから時間が経った。魔女の脳裏に思い浮かぶ、水を与えて安らかな表情のまま逝った貧民街の幼子の姿。死に際の人に望むものを与えると、幸せそうに楽園へ旅たっていく人々を山と見てきた。
「最期じゃない」
優しい言葉に魔女の厳しさが現れていた。この先もずっと、かれを癒し続けてやる。死の淵から救ってみせる。何度も。
――何をぐずぐずしていた。
魔女は呪文を紡いでいく。少年に語り掛けるように。
『傷よ癒えよ。傷よ癒えよ。我、祈りを捨つる者なり。活ありて、此の狐憑きの死を覆さん。我あるじに旗翻す者なり。魔を以て、とこしえの理に抗わん。あるじよ我を見捨てよ。うつしみは逍遥として過ぎ去るのみ。定めよ我を唾棄せよ。ものごとは繁雑として散りゆくのみ。ただ彼を思う念ありて、なにごとにも則らざるなり。其れ故通じる。傷よ癒えよ。傷よ癒えよ』
――生命は死を通してしか、情熱をもって生きることとはどういうことか、知ることはできないのだな。私も人の理を外れた存在といえ、例外ではないのだ。
何十年も魔女としてやって来た。決して老いず、死はもっと先――人間の世代が十代変わるよりも先の話だ。魔女の師はとうに死んだ。その死に目に、ついぞ会ってはいなかった――。それを悔やみ嘆いたことが、人々への施しを与える感情の、淵源ではなかったか。
――この子を殺してはいけない。必ず助ける。目の前の――自分が愛してしまった少年を救わずして、なぜ私は人を救うのか。
少年は驚くほど血色がよくなってきた。名前を与えていいと思った。
「ラファル」
異国の言葉だが、疾風の名がふさわしいと思った。風に救われた命だ。風のように、魔女の心をかき乱した存在だ。
なじみのない言葉が少年の耳に入って、彼はきょとんとした。が、自分を指す言葉だと言う実感が、柔らかく暖かく胸に染みて、それまで死んでいたかのような尻尾を猛烈に振り出すのだった。
「だいすき! らふぁる、だいすき! だいすき! おかあさん、だいすき!」
「おとなしくしていろ」
魔女は泣きながら笑っていた。ラファルが疲れて安らかな寝息を立てるまで。
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