指よ動け(2)
怪しい風が一陣吹いた。秋から冬の訪れを告げる風にしても、すごみのありすぎる音であった。魔女はその音を窓を通して聞き、火急を知る。
森の風紀を乱すようなことが、間近で起こっている。なんとなくそんな気がした。野放しにしておくには、少年が危ない。
応急処置用の道具を詰めた革袋をひっさげ、風上の方向へと、魔女は駆ける。少年の身に何かあれば――と考えてしまっている自分を、意識しないようにした。家畜に対する愛着と、同じようなものだ、そう言い聞かせた。もはや彼女にとって、少年は家畜でなく、生活をともにする存在となっていたのだが。
ともかく、現場にたどり着いたとき――少年が騒乱の渦中にあると知ったとき、魔女は黒のローブをなびく風にはだけさせていた。少年が高い声で泣いている。地面にむき出しになった大木の根に、彼の血がぼた、ぼたと落ちていった。少年は肩を押さえていた。――その左腕は、まるでぶら下げているだけであるかのようで、彼の激しい呼吸で動く胸にタイミングがあって揺れている。おびただしい血。狼はなおも、彼の様子を伺っている。
魔女は呪文を唱え始める。女性のものと思えないほど、重く響く声に、一瞬少年は息をのんで泣きやんだ。彼にとって未知の言葉を、魔女は紡いでいく。
『去れ』
狼の殺気は一瞬でそがれ、おとなしく森の奥へと帰っていく。その後を追ってさんざん悪態をつくことも考えたが、やめておく。この前少年に、
それよりも少年の傷の治療が先だ。狼の牙が食い込み引き裂いた皮膚からは、骨が覗いていた。彼の薬指はぶらぶらとして、引っ張れば簡単にちぎれてしまいそうなほどだった。顔をしかめ、必死に痛みを訴えて震える少年をまずは落ち着かせなければ、治療することもできなかった。
「もう大丈夫だ。安心しな」
ひとまず、少年に声を掛ける。泣き止まない。魔女の頭は次第に混乱してくる。
「大丈夫だから」
少年の頭を撫でる。苦悶の叫びは終わる様子がない……。魔女はいよいよ動揺した。しかしこれまでも、この程度の負傷者を相手にしたことならあったはずだ。それなのに、なぜ少年の傷に、こうも取り乱してしまうのだろうか。
魔女は少年を撫でる手はそのまま、もう片方の腕を少年の背中に回した。左腕の血でローブが濡れる。構っていられない。このまま下手をすると、彼は死んでしまう。少年をからだに引き寄せると、我を失って乱れた呼吸が、ほんの少しずつ深くなっていった。
「ゆっくりと、息を吸って――吐くんだ」
そうして魔女は、落ち着いてくる少年の傷口を詳しく見た。左腕はもはや使い物にならないだろう。右手の甲にも、牙が、かなり深くまで食い込んでいる。これでは――魔女は南の国の医学書を思い出していた――神経がやられていても、おかしくない。薬指、小指だけならいいが、親指や人差し指の神経まで死んでいたなら……こいつはもう、書き物などできない。
傷口に薬草をあてがった。
「痛みを取る。おとなしくしていろ」
呪文を唱え始めると、すーっとさわやかな感覚が傷口から入ってきて、痛みの感覚がなくなってくる。少年は失血により足元はおぼつかなく、いまや体重のほとんどを魔女に預けていた。まどろむように意識が飛びかけていた。
「お母さん、におい……」
「ん?」
「落ち着く」
こうやって寄り添うように抱きしめてやることが、子供にとって有効であることは、これまでの活動から分かっていた。しかし、なぜ少年にそう言われると、胸が高鳴るのだろうか。ゆったりと揺れる尻尾が心地よさを表しているかのようだった。少しずつ、薬草の止血作用が奏功してきた。
少年は魔女に体をもたせきって、魔女のローブのことを考えた。
――よごしちゃった。
少年はその血をかけられたことを魔女が毛ほども気にしていないとは思いもつかなかった。また、迷惑をかけてしまった。大きすぎる迷惑を。
――きらいに、なるかな。
少年とて、これまで文字を書く習練が、魔女の計画通り進んでいないことに気付かないほど愚鈍ではなかった。その会得が、自分に求められているとも分かった。
勉強をやめたいと思っていた。それは自分の甘えだ。
もう魔女の期待に応えられないかもしれないと考え、耳をしぼませる。心の痛みは傷から来るそれを呑みこんで、少年をうならせた。
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