第壹章:心謎解色絲鬭
壹滴:猛毒の接吻 - Le Baiser -
――――――― 1 ―――――――
港の海の色は、
――千葉市。
帝都から凡そ30km。
東京の衛星都市ではなく、
今や、世界中が注目する最もホットでクールでアメイジングでクレイジーな都市である。
此処で叶わない事等、一つとして無い。
人を生き返らせる事だって出来る、少なくともそう聞いている。
願いは何だって叶う、希望の都市。
そう、何だって叶うさ、
――絶望。
港を歩む足取りは重い。
あの
手術代は特別に
だが、肝心の人工心臓が高過ぎて手に入らない。
最安値で
高校生の俺が
日に日に妹の容態は悪くなる。
入院もさせたい。
でも、生活費を稼ぎ出すだけで一杯一杯。
此の
鼻が曲がる程の悪臭を放つ東京
助けて欲しい――誰でもいい!
天使でも
遺伝子組換プランクトンに因る毒々しい赤潮が押し寄せる防波堤に置かれた
疑問――
なんだろう、アレは。
棺桶と呼ぶには
――はっ!!
近くに見付けた防波堤に添え着けられた錆び付いた鉄
――何をしてるんだ、俺は?
気になった、だけ?
否、本当に“それだけ”なのか?
好奇心?
……違う。
色気――
理性的、では居られない。
それ程に、その豪奢な木棺には、得も言われぬ魅力的な様が
窃盗犯の“それ”に近い、ドス黒い欲望が体中を支配する。
「ダメ、だ!」
思わず、声に出す。
“そう”声に出して、己の耳に客観的に言い聞かせないと、俺は
“そんな”気がする、否、した。
さっさと梯子を登ろう。
妙な気分に踊らされている場合じゃない。
現実を、直視しなければ。
「…………テ」
――えっ!?
波の音、か?
「………ケテ」
――ハッ!!
何か、聞こえた。
そんな気がする。
「……スケテ」
声!
声がする。
聞こえた、
「…タ…スケテ」
確信――聞こえた。
呼んでいる、助けを。
中から、箱の中から声が漏れている、多分、“そう”だ。
それは、助けを求める、微かな吐息にも似た、救いを
こんな
筈もないのに、歩み寄る、その箱に、近くに。
どうやって解錠するんだ。
引き手?
箱の脇、長辺の中央に窪んだ引き手が備え付けてある。
指を入れ、
ン?――
ビクともしない。
――
何だ!?
引き手の中に
指先から血が
――ガジャリッ!
金属の歯車が噛み合った
ボンッ!!――
木箱の、その蓋が勢い良く上部に開く。
見るも無惨な姿の少女が横たわっている。
体中の関節という関節に、十字を模した
革製の目隠しに、犬釘で頰を串刺し、鉄条網で体中至る処を縛り付けられ、皮膚は大きく裂かれ、生々しく裏返しに引き
胸から腹にかけてナイフか何かによる裂傷、白過ぎる肌には文字が刻まれ、その周辺にはエンボス状に火傷。
其の血が
『Exorcizamus te, Omnis immundus diabolica potestas. Adjuramus te! Cessa decipere humanas creaturas, eisque aeternae perditionis venenum propinare. Ad nocendum potentes sumus. Memento mori! Contremisce et effuge, Vade satanica vampyrus!
(
――なっ、何なんだ、一体…
病的に痩せ細った
とても、正気の人間がするようなものじゃない。
異常。
横たわる少女の力無く握られた手に触れ、声を掛ける。
「大丈夫かい!俺の声が聞こえるかい?」
カサカサに乾いた唇を微かに開く少女。
何かを求め訴えている、其れは分かる。
だが、衰弱
それにしても、何て冷たい手なんだ。
出血で体温が下がっているから、ってそんなレベルじゃない。
高原の湧き水、山奥の渓流にでも手を浸けているかの様な、其れ程の冷たさ、其れが伝わってくる。
併し、氷程ではない。
僅かに
(――スケテ…)
――あっ!
(――タ……スケテ…)
聞こえる。
否、音として聞こえている訳じゃない。
鼓膜への振動じゃない。
手。
握った彼女のか細い其の手から、伝わってくる。
彼女の“意思”が。
――どうすればいいんだ!
こんな酷い仕打ち、とても手当なんて出来ない。
病院に運ぶ?
どうやって?
軽くパニック。
「どうすれば、どうすればいいんだい?」
否、何を聞いてるんだ、俺は。
瀕死の少女に、声を出す事さえ
無力にも程がある。
俺はいつも無力。
どうして、こんなにも無力なんだ!
(――ヅケ…ヲ…)
聞こえる、やはり。
気のせいじゃない。
でも、微か、だ。
「どうしたらいいんだい?俺に出来る事なら、“何でもする”よ!」
(――ク……チヅケ、ヲ…)
「え?」
クチヅケ?
くちづけって、口付けの事なのか!?
口付け――キス?
何故、此処でキス??
「口付けって…キスの事なのかい!?」
(――ウ……ン…)
――意味が分からない…
何故、キスなのか、そんな事を考え、理解しようたって
なら、すべき事は一つ。
その少女の願いを聞き届ける迄。
狂ってる――
――分かっているさ。
少女をこんなにも惨たらしい姿にした者。
帝國と世界情勢、それを裏から
そして何より、汚染された海辺に打ち上げられた柩の中で拷問
何もかもが正常為らざる狂想の果てに行き着く
邪教か異端の宗教儀式にも似た背徳の様。
なのに、何故か“
狂い切っている。
俺は凡そ、
少女の唇は――
まるで彫像か陶器にでも口付けをしているかの様。
乾いている
無論、死人とキス
――
少女の鋭い
「な、なにをッ!?」
――動かない。
上体を反らし、頭を引いて唇を離す
動こうと思えば思う程、動けない、そんなイメージ。
妙。
触れ合っている唇に熱を帯びる。
咬まれて出血したから?
否、其れだけじゃない。
伝わってくる、少女の唇から、体温が。
其れでも冷たい事には変わりない。
併し、ごく僅かだが上昇している、彼女の体温が。
――舌!?
俺の上唇と下唇の間、口の中に舌先が入ってくる。
小さく、ひんやりとしたその舌先が俺の舌に触れる。
鉄の味。
是は俺の唇から出血している血液の味か?
何なんだ、此の感覚は?
意識が
保てない、正気を。
(――メン…ネ…)
絡み合う舌が、自分の意思とは無関係に釣られて動く。
理性が利かない。
衝動が、本能が、或るが儘、舌先をダンスに
不意に口腔から引き抜かれそうになった少女の舌先を追う。
追い
(――ゴメン…ネ…)
少女の口腔は、何たる
腐敗臭の
何よりも、甘い。
にも関わらず、
(――ゴメン、ネ……キミノ…)
なんだ!?
聲が、聲が聞こえる。
否、舌先から伝わる、聴覚ではなく味覚から、触覚から、直接、脳内に。
違う、心に!
(――御免ネ……君ノ命ヲ貰ウヨ…)
――ザグッ!
俺の舌に少女の八重歯、寧ろ、牙が突き立てられた。
舌を咬まれ、言葉に成らず、叫び声さえ上げられない。
血の気が失せる。
蚊に刺されても気付きはしない。
注射器で採血されても軽い痛みのみ。
併し、是はまるで違う。
体中の血という血が舌先に集まる感じ。
手足が冷たくなる。
末端の毛細血管から血が失せているのを感じる。
心臓の鼓動による正常な然るべき血流が、体の全機能を無視するかの様に逆流、喉に、頸に、頭に、舌に集まり、奪われる。
閉じていた
真っ白い瞳。
硝子玉の様に無機質。
僅かに金属質な白銀の様な色彩変化が見られるが故、それを瞳と認知出来る。
瞳孔は
怖い程、飲み込まれる程、吸い込まれる程に魅惑的。
理解は出来ない。
理屈も分からない。
だが、是だけは分かる。
吸血行為。
彼女は俺の舌に突き立てた牙から俺の血を吸い上げているんだ。
意識が薄れ、
少女の薄い白銀の瞳はチカチカと明滅し、桜色から桃色、朱から紅へと変わって行く。
白磁の陶器で作られた人形の様な其の真っ白な肌が、仄か紅潮して行く。
グレースケールからフルカラーへの変調、鉛筆描きから淡い水彩画への変化、幻想から現実への回帰。
白髪とも銀髪ともつかぬ其の髪色が、
毛細管現象にも似た印象。
神秘的、だ。
駄目、だ。
もう、十分に考える事が出来ない。
何が起きたのか、何が起きようとしているのか、其れ
俺は妹を救うんじゃなかったのか?
お前は其の為に此の超脳都市に迄来たんじゃなかったのか?
其れが、なんて
偶発。
偶然も偶然、
是程迄、お前の意気は薄弱なのか?
妹を救い、お袋を捨てた親父への怒りは、其の程度だったのか?
お前の“覚悟”は、此の程度なのか!
(悪いな、少女!俺は死ぬ訳にはいかない。命をやる訳にはいかないんだ!!)
――ガブッ!
舌を噛み切る。
なんて固いんだ。
舌がこんなにも固いなんて、初めて知った。
何度も何度も噛み続け、引き千切る様にして切断。
少女の牙が食い込んだ舌先を切り離した事で体の自由が戻る。
舌を噛み切って死ぬ事等有りはしない。
都市伝説の類。
あるとしたら大量出血による血液凝固に伴う窒息死。
確かに、夥しい出血。
口内を大量の血が満たし、湧き出てくる。
こんなモノ、欲しがってんなら、くれてヤレ!
――ブゥーッ!!!
少女の其の美しい顔に、口いっぱいに拡がる有りっ
無表情だった少女の顔色に微妙な変化。
併し、そんな事、気にしてる暇はない。
(返して貰うぞ、俺の血を!)
一度離れた唇を、再び少女に向ける。
キス?
否、違う。
噛み付く!
俺に牙なんてものはない。
だが、噛み付く事くらい出来る。
少女の唇とほぼ直角に唇を重ねる様に合わせ、噛み付く。
噛み付く事で少女の口は
深呼吸を遙かに超える程、勢い良く、吸い上げる。
俺の血を、
無論、分かっている。
全く無意味な行為である事を。
口から血を飲み込んだ処で胃に行くだけ。
奪われた血液を取り戻す事なんて出来やしない。
だが、無性に腹が立つ。
彼女に?
否、俺自身に、だ!
(――ダ…メ……)
(何がダメだ!
(――チ…違ウ……)
(返して貰うぞ、俺の血を!!)
(――ソレ以上、吸ッテは駄目…君ガ君デハ
少女の手が胸元に伸びる。
うぉっ!――
一瞬、息が出来なくなる程、丸太にでも殴られたかの様な衝撃が胸部を襲う。
爆発的な圧が掛かり、重力の其れを凌ぎ、空に向かって推力が働く。
気付いた時には俺は宙を舞い、防波堤の上に迄弾き飛ばされていた。
地に叩き付けられる
背中から腰、
テトラポッドから此処迄、優に8
なんという衝撃、なんという
何処かを痛めたのかも知れない。
下半身が麻痺しているかの様。
ペッ!――
口から血を吐き出す。
思い出したかの様に痛みが舌先から走る。
舌を引き千切ったのだから当然。
上体だけで体を
両肘を立て、這う様に移動。
其れも其の筈、足が痺れて動かないのだから。
影――
不意な
ちらり、と目線を上にやると、其処に
俺に影を落とす正体。
――
今在る少女の体には、柩の中で見た生々しい
彼女は
交錯する視線に僅かな沈黙。
「ダイジョウブ、混ジッテハイルケド、マダ君ハ君ノ儘」
(――………)
獣の様にうーうーと唸る事しか出来ない。
「コレ、ネ。返スヨ」
其の小さな口を開くと、自身で噛み千切った俺の舌を少女は翫ぶかの様に舌上でコロコロと転がす。
三度目のキス――
彼女の舌が口内に滑り込む。
ナニかを押し込む様に、ねじ込む様に。
俺の舌先?
舌を、返す、と?
間もなく彼女は自ら口付けを止め、唇を遠ざける。
糸引く唾液は、血で赤い。
少女は口許を拭い、視線を俺に落とす。
「返シタ、ヨ」
「なっ、何をしたんだ!!」
――あっ!?
喋れる。
声に成っている。
舌が、戻っている。
その感触を確かめる。
疵も無い。
一体、何が起こったんだ?
「モウ、立テル筈ダヨ」
「き、君は何者なんだ!?一体、何故あんな事をっ!」
ん?――
痛みが、無い。
痺れも無い。
動ける。
足が動く。
片膝を立て、起き上がる。
「
命ヲ貰ウトハ云ッタケド、奪ウト迄ハ云ッテ無イ。尤モ、口ニ出シテイナイノダカラ本当ハ何も云ッテハイナイノダケド。君ガ驚イタノハ無理モ無イヨ。驚イテイルノハ、ボクモ同ジダヨ」
「…どうして俺を
立ち上がってみて、ギョッとする。
少女の何たる小さい事か。
胸程にも満たない身長。
想像以上に小さい娘。
何処にあれ程の力が?
其れに、
此の短時間で治ったとでも云うのか?
混乱。
整理する時間が欲しい。
「ボクガ誘ッタンジャナイヨ。
「…君は誰なんだ?一体何故、あんな処に?」
「――…」
「…俺は
「…クローディア、ト呼バレテイル」
「クローディア?クローディアって云うんだね?」
「――高イ、ヨ」
「え?」
「頭ガ高イ、ヨ」
少女が軽やかにステップを踏む。
――シュッ!
風を切る様な音に乗せて少女が
彼女の
ぐぁっ!――
防波堤に崩れ落ちた俺が左膝を抱え悶えていると、少女はその華奢な足で顔を踏み付けてくる。
「
苦痛に顔を歪めつつ、
「…な、何をするんだッ!!」
「身ノ程ヲ
「なっ!!?」
踏み付けていた足を
「但シ、感謝ハシテイルシ、借リヲ作ルノハ
ダカラ、今度ハボクガ君ヲ
「…助けるだって?一体、俺の何を助けるって云うんだ!」
「
「!?聞こえていたのか…」
「ダカラ、扶ケテアゲルヨ。ソノ代ワリ、ボクニ
「……何を馬鹿な事をっ!」
少女のか細い手が顔近くに伸びる。
突き出された彼女の手の甲は、氷の彫刻宛ら、
其の天使の様な悪戯な笑顔が自棄に眩しい。
何もかもがおかしい。
訳が分からない。
何が起こり、何が起きて、何故こうなり、今に至るのか、最早、証明出来ない。
経緯ではない。
まるで意味が分からない。
――だと云うのに…
「永遠ノ忠誠ヲ!」
痛みを忘れさせる心地良い声に耳を
鼓動が早い。
僅かな発汗。
首筋が冷たい。
口の中が乾く。
視界が狭い。
体の変調に、精神の滞留が、俺の思考は停止する。
今という時は
程なく
彼女の手にキスをしている自分に。
彼女への心酔を。
禁断の園へ足を踏み入れたのだ。
俺は、彼女に、其の得体の知れない少女に、
心からの忠誠を誓っていた――
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