足りないんじゃない?

「忙しそうだね」

 付き合い始めて約半年経つ彼氏がいる。小学校と中学校が一緒だった地元の人、晴人。私は実家から車で30分の専門学校、彼は県外の私立大学への進学と同時に1人暮らしを始めた。もとは男女間で成立していた親友という関係を長年続けていたのだが、一緒にいすぎて周りから勘違いされることが多く、どちらから言い出したのか今でもはっきりしないまま付き合っている。私の記憶が正しければ、県外に行った彼に会えなくなったのが寂しくて、物理的には会えずとも「彼氏と彼女」という関係さえあれば、心は満たされるのではないかという安易な考えのもと、私が提案したのかもしれない。

 晴人とは1週間に1度くらい電話をする。大抵は21時から22時の間に彼からSNSアプリを介して着信がくる。

 今日もいつもと変わらない、くだらない話をしていたのだが、数秒の沈黙の後、急に晴人の声のトーンが、どこか真剣味を帯びた。

 実習記録を書きながら、彼につられるように声を沈める。

「忙しいっていうか・・・、まあ実習中だしね」

「うん、まあ、知ってるけど」

 晴人が言いたいことは何となく分かっていた。最近、私は彼からの着信を無視することがあった。無視といっても、ただ電話に出ないというだけで、その後メッセージで『今、課題やってるから。ごめんね』と断りをいれている。

「ごめんね、最近電話に出られなくて」

 先回りするように話すと、話は思わぬ方向に進んでいく。

「課題ってさ、早く終わらせることはできないの?」

 私は困った。看護実習で書く記録というのは、看護学校に通っている人にしか理解できないものなのではないか、と思ったからだ。

 課題と言っても、ある程度の期間が与えられるわけではなく、毎日出されて翌日に提出というサイクルがあるし、1番問題なのは答えがないということ。患者の情報収集から始まって病気、治療を詳しく勉強。どんな問題が起きていて、何のケアが必要なのか。もちろん実習に行く前にある程度の勉強はしていくが、初めて会った患者の情報を整理するのは相当な体力が必要なのである。

「あー・・・、えっとね」

 言葉に詰まる。大変だ、と率直に言うことに抵抗があった。晴人の言葉をもう一度思い返すと、あながち自分の実力不足が原因なのかも、それを忙しいと変換して、私はまた自分の出来の悪さから逃げている、という思考が止まらない。日本中の看護学生ひとりひとりに聞いて回りたい。あなたは、1日の実習記録を終わらせるのに、どれくらいの時間を要しますか、と。

「正直さ、俺も大学のレポートとかあるし、明日も1限から講義だし。忙しいのって優輝だけじゃないよ。もっと俺との時間大事にしてほしいなって」

 自分が苛立っていくのがよく分かった。晴人に言い返したいことがたくさんある。

 大学の1限って何時からなの。専門学校はほぼ毎日1限から4限まであるし、実習中は日が昇る前に家を出て、日が沈んでから家に帰るよ。自分だけ忙しいなんて思ってない。晴人が頑張ってるの知ってるよ。晴人は、私が頑張ってること、どうして分かってくれないの・・・。

 それを全て言ってしまうのは、20歳の成人女性として情けないのではないだろうか。そういう変なプライドが、私たちの関係を少しずつ崩していく。

 「人」という漢字のように、同じ強さで支えあっていた2つの気持ちは、いつしか片方に傾いて、両方倒れていくんだ。私だけ倒れればいい、なんてお人好しなことは言えなかった。だけど、晴人だけ辛い思いをすればいいというずるい考えもすぐにやめた。

「何か喋ってよ・・・」

 晴人の苦笑いが目に浮かぶ。いつの間にか数分の沈黙が流れていたらしい。はっと我に返り、言葉を紡ごうとするが、思うように声が出ない。言葉にできないなんて、いつかの曲の歌詞のようだ。

「ごめん」

 3文字がそれぞれ独立しているかのように、自分の発した言葉の意味をうまく理解できなかった。私は今、どうして謝ったのだろう。

 ただ、自分の頑張りを、晴人に認めてほしかった。

「優輝はさ、努力が足りないよ」

 私の承認欲求を満たしてくれるのは、この人ではないんだと、また現実への諦めが1つ増えた通話だった。

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