第四章:宿命の男

“年末は30日に帰ります”

 大量に人が降りる駅を過ぎてやっと席に座れたところで、スマホを出して母にLINEを送る。

“了解です”

 予想外に早く来た返事に驚きつつ、まだ夜の九時前だと思い直す。

 周囲の客もどこか余力を残した、完全には疲れに崩れていない気配で腰掛けている。

 車両全体にも、さっき大量に降りていったサラリーマンたちの整髪料じみた匂いがうっすら漂っていた。

 そういえば、今日はまだ月曜日だ。

 そう思い出すと、座席に沈めた体の疲れが二割増した心境になった。

 シートの下部から吹き付ける温風が脚用のサウナに思えてくる。

“こっちは今日、雪が降りました。東京はそこまでじゃないだろうけど、着るものは暖かくしてね”

 前世と同じく、私は雪深い地方に生まれて上京した。

 市川サダメとしては生家の口べらしの女中奉公、溝口ゆかりとしては大学進学での上京だから、大幅に恵まれてはいるけれど。

――生まれは香港で、本土に戻る年に家族でシンガポールに移ったんだ。

 李笙霖は戦後は共産化した上海から香港に渡って裏社会のドンとして名を馳せたが、ケニーは戦後の香港に生まれてより自由なシンガポールに移住した人たちの一人だ。

――出会った人との縁は、出来るだけ良いものにしようと大事にしてきたつもりだ。

 前世での私と李笙霖は悪縁だった。

 というより、彼とも、他のどの男とも、ろくな縁では関われなかった。

――君とはまた会うから、前向きに考えて欲しい。

「会いたい」ではなく「会う」と確定した言い方をケニーはした。

 今度も彼に惹かれて思い通りになると自信を持っているのだ。

 ゴーッとトンネルに入る音がして、車窓の向こうが暗闇に閉ざされた。

 でも、こちらは忘れていない。

 あの時、私の背中を撃ったのは、李笙霖なのだと。


 *****

「寒い」

 手袋を填めた両手に包んだホットのジャスミン茶のペットボトル。

 最寄り駅ホームの自販機で買った。

 これをホッカイロ代わりに手に持って帰って、部屋でほどよく醒めたお茶を飲むのが近頃のお気に入りだ。

 このメーカーのジャスミン茶は特に香りが良いので、飲むと何となく体の中が綺麗になる気がする。

 だが、今夜はいやに空気が冷えきっていて、手袋越しの温もりが頼りなく、ぎゅっと包んでいる傍から消え入ってしまいそうに思えた。

 何、大丈夫。

 この橋を渡って公園の脇を過ぎればすぐアパートだ。

 川縁の風の冷たさに小さなペットボトルを自ずと胸に抱く格好になる。

 橋の下を流れる川面は岸辺の家々の柔らかな灯りを映しつつ波打っている。

――死のう。

 あれも、こんな風に冷えきった年の瀬の晩だった。

――この橋を飛び降りて川に身を投げれば一切はケリがつく。

 上京した年の暮れ、市川サダメはまだ十七歳。

 着の身着のまま飛び出した我が身を抱き締めて、奉公先の近所を流れる川を眺めていた。

 夜の闇に浮かび上がる静かな波面は、三途の川そのものに見えた。

――今なら誰も見ていない。

 欄干に片足を掛けたところで叫ぶ声がした。

――おい!

 声と駆け寄ってくる足音と背後から抱き止められるのが一遍に起きた心地がした。

 男だ。

 しかも、若い、立端たっぱのある。

 そこまで察すると、抱き止められた体にぞわっと震えが走った。

――馬鹿な真似は止めろ。

 こちらを向き直らせた瞳は射抜くように真っ直ぐだった。

――馬鹿だからいいんです。

 頬を伝う冷たい感触で、自分がまだ涙を流していることに気付いた。

――あたし、もう、傷物なんです。

 体の奥の痛みがカッと屈辱そのもののように疼く。

――よくある話ですよね。

 女中奉公した先で、そこの坊ちゃまに手込めにされるなんて。

 ふっと嗤えたが、相手は笑わない。

――でも、それが自分の身の上だなんて耐えられない。

 両肩を掴む相手の手が無言のまま熱を帯びて締め付けてくる。

――生きてくれ。

 絞り出すような声で貴方は言ってくれた。

――君は傷物でも、汚れ物でもない。何なら俺が嫁に貰ってもいい。

 大きな瞳いっぱいに溢れた涙が凍てつくような夜の闇にも輝いて見えた。

――だから、どうか死なないでくれ。

 この真っ直ぐな目が見ている前で命を投げ出すことは出来ないと思った。

 橋を半ば以上過ぎた所で自ずと足が立ち止まる。

 今の私は何も失っていない。

 けれど、得てもいない。

 ペットボトルの蓋を開けて飲むと、一瞬だけ生ぬるい感触の後に冷え冷えとした花の香りが体の中を通り抜けた。

「おい!」


 *****

「あ……」

 声のした方角に立っていたのは、待ち焦がれていた貴方でもなければ、ケニーでもなかった。

 ひょろっと引き延ばした風に背の高い人影だ。

「中村さん」

 こいつには敢えて敬称で呼んで距離を置くことにしている。

「ゆかりん、早かったね」

 そんな気色悪い呼び名を許可した覚えはない。

 しかし、口の端に挑む風な笑いを浮かべた相手は構わず近付いてきた。

 飲み掛けのペットボトルを抱いたまま知らず知らず後ずさると、さっと追うようにミントの香りが鼻につく。

 中村が良く点けているオーデコロンだ。

 ミントは嫌いでないのに、この男から匂うと氷で撫でられたように背筋が寒くなる。

「中村さん、確かおうちはこっちじゃない……」

 言葉の途中で、まるで引ったくるように右の二の腕を掴まれた。

「今夜は帰らないかと思った」

 あはは、と私を見下ろして嗤う息には酒と煙草の匂いが混ざっていた。

 いつもの馬鹿にした風な面持ちだが、掴まれたこちらの二の腕はキリキリと縛り上げられるように痛みが増してくる。

「あの中国人社長とはまだ食事だけ?」

 ぞっとするほど冷たい手が左目の下の泣きぼくろの辺りをなぞった。

「それとも、もう……」


 *****

「止めてください!」

 泣きぼくろに触れた手を振り払う。

 自分で聞いてすら嫌な感じの声になったが、この際、その方が相手を突き放すには有効に思えた。

「あなたに何の関係がありますか」

 ここは、むしろ、ケニーとは何もない、今後もそんなつもりはないと告げるべきだろうか。

「気持ちわりいんだよ」

 私の右の二の腕を捉えたまま、相手は吐き捨てる風に続けた。

「普段は女子力ゼロのくせして、あの中国人に会ったら急に変な色気見せて」

 シンガポール人として取り引きして頭を下げてきた相手なのに、面と向かっては絶対に挑発できないくせに、彼の居ない場所では「中国人」と繰り返す。

 ――今はあの支那人しなじんが相手か、お盛んだな。

 やつれた様子で李笙霖の留守にやってきて精一杯高飛車に言い放ったあいつを嫌でも思い出す。


 *****

「今日だって田口がインフルで休んで俺らは大変なのに、お前、一抜けしてあの中国人と待ち合わせしてたよな」

 恋人でも雇い主でもないのに、「お前」呼び。

「廊下に煙草吸いに出たら、下でお前らが歩いていくのが見えたんだ」

 空いていた左の二の腕も掴んでこちらを覗き込むと、あはは、とさっきより甲高い声でもう一度嗤った。

 ミントに混ざる煙草のきつい匂いにこちらは思わず顔を背ける。

「あんなこじゃれた服着てるだけのヤセチビでも、お金持ってるからいい?」

 男が背が高くて、肩が広くて、不細工ではない程度の顔だと妙な優越感を持ちやすい。

 こいつを見ていると良く分かる。

「あなたって小さいね」

 図体は圧迫的に大きいけど。

「前々から知ってたけど」

 前世から分かっていたから、現世でも極力避けていた。


 *****

「偉そうな口、利くな」

 左目の、ちょうど泣きぼくろの真下辺りに衝撃が走る。

 どさりと尻餅をつくと同時にジャスミン茶のペットボトルやバッグの中身が辺りに散らばる音がした。

「ヤリマンのくせに」

 コンクリート地に転んだ私のコートの腰を相手は今度は軽く押す風に蹴る。

 これは「俺様が手加減してやってる内に言うことを聞け。さもないともっと痛い目を見るぞ」という合図だ。

 私はカッと熱く重い痛みを帯びた左頬を押さえて中村を見上げた。

「今は違う」

 そっちは前世から変わってないけど。

「リー社長とだって一緒に食事しただけでおしまい」

 口に出してしまうと、何だか可笑しくて、あはは、と気の抜けた笑い声が出た。

 中村は固い面持ちでこちらを見下ろしている。

「中村さんが思ってるほど、私、奔放な生活なんてしてませんから」

 溝口ゆかりは男性とは縁なく生きてるんだから。

 路上に散らばったバッグの中身を拾い集めて入れ、少し離れた場所に落ちているアパートの部屋の鍵に手を伸ばした。

 不意に、その手首をガシリと捕まれる。

「フリーならやらせろよ」

 陰になった顔は酒と煙草臭い息を吐き出す口が裂けたように広がって見えた。

「お前んち、すぐそこの三階だろ?」

 ぞわっと背中に激震が走る。

 こいつは今までも私をつけてた。

「無理」

 振り切って駆け出してから駅の方に逃げるべきだったと気付く。

 が、もう遅かった。

 ヒールが右も左も脱げて、ストッキングの足で夜の公園をひたすら走る。

 薄っぺらい膜じみたストッキングはデコボコしたアスファルト地にたちまち破けて裸足の足裏に血が滲むのを感じた。

 昼間は子供たちや散歩のご老人で賑わう公園は、今はだだっ広い暗がりの中に乗る人もいないブランコや鉄棒やベンチが障害物のように置かれた迷路に思える。

 バシャッと剥き出しの足裏が氷のように冷たいぬかるみにはまってどうと倒れた。

「びしょ濡れだな」

 耳元でクスッと嘲り笑う声がして今度は羽交い締めにされる。

 もう逃げられない。

 体から力が抜けた。


 *****

「こんなことして楽しい?」

 近付いてきた中村の顔に問い掛けた。

 陰になったその顔の向こうに白々とした街灯が輝いている。

「あなた、私のことなんかずっと馬鹿にしてたし、今だって好きでも何でもないでしょ」

 前世でも、ただ身近にいる目下の女だからこちらの気持ちなどお構いなしに押さえ付けて体を奪った。

 今はこんな寒い外で泥に汚れた女を無理やり押さえ付けて同じことをしようとしている。

 私が男なら白けて欲求が萎える気がするけど、この男には楽しいのだろうか。

「そりゃ、お前なんて一山いくらの女だけどさ」

 酒臭い息を吐く相手は煌々とした灯りに曝す風に私の顔を掴んで向き直らせる。

「時々夢に出てくる、何でも言いなりにやらせる女そっくりだし」

 カッと眩しい灯りの残像が目の中で尾を引く。

「夢だともっと若くて幼い感じだけどね」

 こいつが見たのが前世なら、それは十七歳から十八歳までの市川サダメだ。

「だから、好き者のヤリマンってずっと思ってた」

 前世でもこいつに触れられるのは地獄だったから逃げ出したんだけど。

「本当は男好きだろ、お前」

 前世と同じ、口を歪めて嗤う顔つきで太ももにゆっくり触れてくる。

「あなたを好きな風に見えた?」

 前世でも現世でも。

「そんなのどうでもいい」

 吐き捨てるような苦い声と共に、左目の泣きぼくろの下に軽く唾が飛ぶのを感じた。

「あの中国人が来た日から急に夢まで妙なことになったんだ」

 蒼白い蛍光灯を背に陰になった顔は、一気に十歳以上も老けた風に見えた。

「あの男とくっついたお前が着飾って偉そうにしてやがる」

 李笙霖の情婦になって暮らす市川サダメの前に現れた、かつての主家の息子も、まだ二十七、八だというのに、やつれた四十男の顔をしていた。

「俺は孤立無援」

 もともと凡庸で放蕩者だったので両親の死後は財産も使い果たし、親戚から譲り受けたホテルの経営も傾いて金策に頭を抱えていた。

「お前は助けてくれる、と」

 サダメは援助を申し出た。

「あの中国人とも別れて一緒になってくれる、と」

 内縁の妻になったサダメが共同経営者になり、東亜楼と名を変えたホテルは瞬く間に立ち直った。

「本気で救いの女神だと思ったんだがな」

 あはは、と乾いた声が響いて今度は右の頬を打たれた。

「気が付いたら、猿轡さるぐつわに縛られて穴の中」

 李笙霖と市川サダメは用済みになった元主家の息子を山中に生き埋めにして殺害した。

「お前とあの中国人が並んで埋められてく俺を見下ろしてた」

 実際に穴を掘って埋めたのは、ホテルの従業員として潜り込んでいた李笙霖の手下たちだ。

 李笙霖への忠誠心からなのか、常日頃、「支那人が」と嘲ってこき使った経営者への怨念からなのか、彼らは粛々と生きた男に土を掛けて埋めていった。

「“さよなら、坊ちゃま”」

 怨霊さながら目を剥いた男が私の首を締め上げる。

「全部……あなたの……夢でしょう?」

 目も眩みそうな白い光の中、冷え切った体の頭にだけ血が一斉に上って焼け付くように熱い。

「お前のせいだ」

 息が出来ない。

 裸足の脚が空しく宙を泳ぐ。

「だから、壊してやるんだ」

「おい! 何してる!」

 全てを打ち破る声が轟いた。

「今すぐ離れろ」

 ヒール一足を抱えた紺地の制服姿が近づいてくる。

 私に圧し掛かって首を絞めていた相手はまるで飛び退くように立ち上がった。

「彼女の首を絞めましたね」

 まだ二十歳はたちそこそこの、若いというよりどこか幼さの残る面差しだが、声には動じない響きがあった。

「署までご同行をお願いします」

「はい」

 中村は急に酔いから醒めた風な、どこか投げやりな調子で頷いた。

「こちらは貴女あなたの靴ですね?」

 まだ新米らしい警官は抱えていたヒールを私の足元に置く。

「はい」

 血の滲んだ裸足に履いて立ち上がる。

「大丈夫ですか?」

 肩を支える相手に私は微笑みながら目頭が熱くなるのを感じた。

「貴方のおかげで本当に助かりました」

 相手は大きく真っ直ぐな目でこちらを見据えると、安堵した風に微笑んだ。

「間に合って良かった」(了)

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