第三章:クリスマスに現れて

「じゃ、お先に失礼します」

 課長と中村に声を掛けて辞す。

「お疲れ」

「お疲れ様」

 二人はそれぞれパソコンの画面に目を注いだまま、疲れや苦々しさを滲ませた声を返す。

 年の瀬の忙しさに加えて田口がインフルエンザで今日から休み始めたので業務が山積みだ。

 しかし、私が週始めの今日中に片付けなくてはならないタスクはもう終わったので帰ることにする。

 外に出ると、街路は青と白の色彩の電灯でライトアップされていた。

 今日はクリスマスだ。

 十一月に入った辺りから、この通りは夕方にもなるとこんな風にチカチカしていたが、それも今夜で見納めだろう。

 イブだった昨日の日曜は近くのスーパーで買った照り焼きチキンを一人の部屋で食べて寝た。

 今日は月曜の仕事帰りに一人街路のライトアップを眺めるクリスマス本番。

 彼氏なんかいなくても、学生の頃はこの時期には実家に帰省して家族で美味しいものを食べたりしたから、「ぼっち」ではなかった。

 社会人になってからはクリスマスでも平日なら当たり前に仕事があり、終業後はあの一人ぼっちの部屋に戻るのが常だ。

 電気コードが絡み付いて青や白に照らし出す、葉がすっかり落ちて裸になった街路樹の枝。

 目を刺すように明るい光なのに、何故こんなに寒々しいのだろう。

 そこはかとなく漂うアスファルトの湿った匂いを吸いながら、知らず知らず手袋を嵌めた掌で胸を押さえた。

――駄目だ。

 いつも夢の最後で聞く貴方の声が不意に蘇って胸の奥を突き刺す。

 目の前がじわりと熱く滲んだ。

「ゆかり?」


 *****

「あ……」

 振り向いた先には、端の鋭く切れ上がった、眼鏡無しだとやや不穏にぎらついて見える眼差しが待ち構えていた。

「溝口さん」

 白いマフラーの上の小さな口がおっとりと糖衣を纏った声で呼び掛ける。

 だが、この人は先ほど私を「ゆかり」と名前で呼び捨てた。

「今、お帰りですか?」

 黒いコートを纏った姿は男性としてはせいぜい中背で華奢な部類であるにも関わらず、影が長く伸びるというか、気圧される何かが漂う。

「はい」

 手袋の甲で素早く目を拭う。

 だが、涙の滲んだ顔を、たった独りで涙を流していた状況をケネス・リーはどう受け取るだろう。

「クリスマスおめでとう」

 相手は一転してどこかおどけた風に笑って告げた。

 南方らしく陽に焼けた顔は、そうするとひどく人懐こく見える。

 風に紛れてそこはかとなくライムの匂いがした。

 レモンに似てもっと爽やかな香りだ。

「おめでとうございます」

 これじゃクリスマスというより正月だ。

 釣り込まれて返してから苦笑いする。

「もし良ければ、一緒にお祝いしよう」

 同性の親友にでもするように私の肩を叩く。

「クリスマスは一人でも多い方が楽しい」


 *****

「カシスオレンジとクランベリークーラーを一つずつ」

 やっぱり、この人は柑橘系を選ぶんだな。

 ジャズピアノが甲高くノックする風に流れるホテルのレストランの席で私は苦笑いする。

 こちらはノンアルコールのベリー系カクテルにした。

 味はまだ分からないが、とにかく酔わないものを。

「お腹いっぱい食べよう」

 高級ホテルのレストランとはいえ、クリスマスの今夜は満席だ。

 周りのテーブルの女性客は華やかに着飾っている人ばかりなのに、色気のないスーツに職場用メイクなのが場違いに思える。

 持っているバッグや靴やコートだって擦り切れたり汚れたりしてないだけで安物だし。

「ありがとうございます」

 今の私は家の冷蔵庫には昨晩スーパーの割引で余分に買った照り焼きチキンを今夜の夕食分にストックしてるような女なのに。

「いいんだよ」

 目の前で微笑む相手は一見してそれと分かるブランド物ではないが、質の良い物を身に纏っている。

 記憶の中の李笙霖がそうだったように。

「クリスマスなんだから」

 ケネス・リーは飽くまで穏やかに語る。

 最初から席を二人分予約していたのか、後から急遽一人分追加したのか気になるが、何となく訊けない。

 そもそも、宿泊していたホテルの近くとはいえ、うちの会社ビルの辺りを歩いていたのは偶然なのか。

 耳の中で高鳴るピアノにサックスの太い音色が絡む。

「じゃ、メリークリスマス」

 似ていて少し色合いの異なる紅い酒のグラスをかち合わせる。


 *****

「東京のクリスマス、二回目だ」

 ケネス・リーは切れ上がった目を懐かしげに細める。

 そうすると、ぎらついた光が紛れていかにも人が良さそうに見えた。

「一度目は留学していた頃だから、もう十五年前」

「そうなんですか」

 この人、何歳だろ?

 何となく三十前後だと思ってた。

 李笙霖は市川サダメの八つ上だった。

――君と同じ巳年みどし、一回り上さ。

 記憶の中の李笙霖はそう語っていた。

――二人絡めば大富豪の縁だ。

 けれど、李笙霖のウィキペディアでも伝記本でも「情婦の市川サダメと共謀して東亜楼事件を引き起こすも、上海に逃れる(サダメは逃走中に死亡。享年二十七)」のは彼三十五歳の時とされている。

 裏社会の男だから恐らくは多い方にサバ読みしていたのだろう。

 もっともウィキペディアや伝記本の生年も便宜的なもののようだ。

 戦前の上海浦東の貧民窟出身だった李笙霖が本当は何年生まれだったかは本人にすらはっきりとは分からなかったかもしれない。

「私は二十七歳なんですけど、リーさんはおいくつなんですか?」

 現世では午年うまどしだから、今の私の金運はさほどでないのかもしれない。

「今日で三十五」

 種明かしといった風に相手は笑った。

「クリスマス生まれなんですか」

 そういえば、前世で李笙霖の誕生日を祝った記憶はない。

 そもそも教えてもらってないから。

「だから、今日は一緒に祝って欲しかった」


 *****

「リーさん」

 今は取引先の経営者であるこの人。

「ケニーでいい」

――阿霖ありんでいい。

 前世で目にしたのと同じ笑顔と口調だ。

 前は七夕近い昼下がりの晴れ空の下だったが、今はクリスマスの夜のレストランだ。

「今はビジネスじゃないから」

 運ばれてきた肉を器用に切り出す。

「ほんと、そちらには敵わないです」

 前世も、今も。

 自分で見てすらぎこちない手つきで私もナイフとフォークを動かし始めた。


 *****

「リーさんは、」

「ケニーだよ」

 言いかけた私を穏やかだが確固たる語調で相手は訂正する。

「僕も『ゆかり』と呼ぶから」

「そうですか」

 サダメ、と呼び捨てを始めた時もこんな風に柔らかだが強引に決まったのだ。

「ケニーの奥さんは、せっかくのお誕生日とクリスマスにシンガポールでお留守番してるんですか?」

 半ば答えは察しがつくけれど、確かめずにはいられない。

「僕に奥さんはいないよ」

 相手は苦笑いする。

「正確には昔はいたけど、離婚した。日本ではバツイチって言うんだよね」

 李笙霖には上海に本妻も情婦もいた。

「今は、奥さんもガーフレンもいない」

 ガーフレン?

 一瞬、迷って“girlfriend(ガールフレンド)”と頭の中で変換される。

 シンガポール人のこの人は英語を話すのだ。

 英語の“girlfriend”には恋人の意味もあるし、恐らくはそんな意味で使っている。

「いない」と言われたにも関わらず、私の知らない女性と抱き合って唇を重ねる彼の姿が浮かんできて、胸がざわつく。

 そう感じるのは、今もやはり彼に惹かれているからなのだろうか。


 *****

「ゆかりは旦那さんやボイフレンはいないの?」

 多分、「ボイフレン」は“boyfriend(ボーイフレンド)”だろう。

「いません」

 現世ではいたこともない。

 飲み干したクランベリークーラーが微かに酸っぱい。

「さっき、ツリーを見て泣いてたね」

 相手はぽつりと呟いて自分のグラスに半分残したカシスオレンジに目を落とした。

「一緒に見たい人がいたのかな」


 *****

「半分は当たりで、半分は外れかな」

 前世の最後に抱きしめてくれた大きく真っ直ぐな目の貴方とは、現世ではそもそも出逢えてすらいない。

 前世でだって、お祭りやお祝い事を一緒に楽しむ間柄ではあり得なかった。

 流れてくるジャズの曲はピアノの消え入るような音色を幽かに響かせて終わる。

「それで、今、僕といる」

 曲間の静寂に、向かい側に座す彼の声が浮かび上がった。

 ハッとするほど苦いものを含んでいる。

 ゆったりしたチューバの音で次の曲が始まった。

「構わないよ」

 声はおっとりした口調に戻っていたが、こちらを見詰める切れ長い目はひやりとした光を底に湛えている。

「だって、僕が君といたくて誘ったんだから」

 七夕の晩に大きな笹に飾った色とりどりの短冊がさらさら揺れる様を眺めていた李笙霖もこんな目をしていた。

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