春はまだ遠い

ホウボウ

風が心の熱を奪って行く

「おはよ、咲良」

 冬の寒さがだんだんと薄れ、春の雰囲気が迫ってきている朝。

 まだコートを脱ぐのは早いかな、と思いながらゆっくりと自転車を漕いでいると、後ろから来た自転車の男に話しかけられる。

「……朝から元気ね。おはよう」

「ほんと、いつも朝から怠そうだな」

「そうね」

 形容しがたい怠さと眠気に思考が濁る。「そうね」の三文字だけの返事はあまりにもそっけないが、わざわざ彼に取り繕おうと思わないほどには付き合いが長かった。


 長瀬悠真。それが彼の名前だ。小中高と同じ学校で、家も近所の――『幼なじみ』。お互いの恥ずかしい話は知り尽くしているし、誰にも言えない秘密だって共有している…………そんな仲。


「にしても今日はやけに元気ね」

「ああ、だって今日は――アレじゃないかアレ」

 そう。今日は――バレンタインデー。

 ……こいつだけでなく、世の中全体がそわそわしている。

「あんたにチョコあげる奇特な女子なんかいないわよ。せいぜい義理よ、義理」

「あ? んなこと分かんねえだろ。それよりお前は誰かにあげるのか?」

「そんなことなんで悠真に言わないとダメなのよ」

「いや、今年もなんか貰えるかな~ってさ。地味に期待してるんだぜ?」

「期待しないで頂戴」

 ばっさりと斬り捨てる。が、前カゴの中のカバンには――チョコが一つだけ入っている。

「ちぇ……じゃあな、俺は下駄箱の中見てこないといけないから先行くわ」

 そう言って漕ぐスピードを早め、先に行く悠真。

 取り残された咲良は、「この学校に下駄箱ないのに」と、若干アホっぽい発言をした悠真のことを考えながら少しだけスピードを上げた。


 §


 正直言って、悠真はそこそこ人気がある。イケメンとまではいかなくとも、そこそこ整った顔。少しお調子者で、普段はヘラヘラとしているけど、何かするときには真面目になったり。勉強だって結構できる。――うちの学校にもし『二大王子』がいなければ間違いなくモテているだろう。

 周りに埋もれて、男としての存在感があまりないように見えているものの、見つけてしまったら好きになってしまうような……そんな男。それが悠真だった。

 かくいう咲良も、そんな悠真に恋する女の子の一人なのだが……踏み出せずにいた。



 怖いのだ。――今の関係が壊れるのが。


 悠真と咲良は男女の友情を体現したような間柄だ。何か悩み事があったらお互いに相談するし、休日にたまに遊びに行くこともある。

 近すぎるが故に遠い。――二人の関係を言い表すには的確すぎる言葉だ。女として咲良は認識されていない。

 ……そんな咲良がいきなり「好き」という気持ちを押し出して悠真にぶつかっていく、というのが咲良自身にとっても考えにくいことだった。


 自然とため息が出る。なんだかんだ言って好きなのには変わりがない。……だけど、一歩踏み出すのが怖い。

 そんな感情で揺れ動いているうちに、学校に着いていた。

 今日、無事にチョコを渡すことができるだろうか。――その悩みは授業が始まってもいつまでも咲良の頭のなかで渦巻いていた。


 そんな日の昼休みだった。



『悠真が告白された』


 という噂を聞いたのは。



 ……嘘だ、と思った。まさか、とも思った。

 よくよく考えれば、そんなの当たり前の話だ。二大王子なんかよりも、よっぽど悠真のほうが『近い』存在であるのに、今まで何もなかったほうが不思議だったんだ。

 そうやって理解しているつもりであっても、心は晴れなかった。どういう返事をしたのか気になって仕方がなかった。


 咲良の頭のなかは悩み事でパンク寸前だった。



 §


 終礼も終わり、放課後。部活に入っていない咲良はそのまま帰宅する。

 しかし、幸か不幸か駐輪場に行くと――悠真と出会ってしまう。


「お、咲良。今帰りか? 一緒に帰ろうぜ」

「う、うん……」

「なんか悩み事か? 相談乗るけど」


「いらないっ!」

 思ったよりも大きい声が出たことにはっとする。それが悠真に与えるのは――明確な拒絶だということに。


「……何怒ってんだよ」

「怒ってなんかないわよ。ただ――」

 ……ただ、この持て余した気持ちをどうすれば分からない。それだけなのだ。

「いらないお世話だったかな」

「いや、その、……ごめん。そんなつもりじゃなかった」

 二人の間に漂うなんとも言えない重い空気。どんよりとしたそれを纏いながら、二人は校門を後にする。


 まだ、春じゃない。そんなことを思い出させるかのように、風は冷たくて。

 暫くの間、二人は無口だった。


「チョコ、くれないのか?」


 沈黙を破ったのは、悠真だった。


「……あると思ってるの?」

「毎年用意してくれたじゃん。『独り身で寂しい悠真に』って」

「――っ! そんなものないわよ!」

「いや、ないならないでいいんだ。悩むこともなくなるし」

「あっ、そ。彼女さんによろしくね」

「……聞いた、のか」

 ふっと止まる。


「噂程度には。どんな子か知らないけど」

「そっか。……どこまで知ってるんだ?」

「あんたが告白されたとしか」

「…………」

「まあ、今まで彼女できなかった事のほうが不思議だったのよね」

「それだけか?」

「……なによ? 他に何か言えって言うの?」

「いや、なんでもない」

 そうしてまた、前を向いて自転車を押し始める。


「あのさ、俺、告白断ったんだ」


 それは唐突だった。なぜ? いつも彼女欲しい、欲しいと言っていたのに。分からない、という気持ちと断ってくれてよかった、という気持ちがぐるぐると駆け巡る。


「……そっか」

 かすれた声でただ、そう答える。自分でもどうしていいのかわからないのだ。――喜べばいいのか、悲しめば良いのか。


「結構重大なこと言ったと思うんだけどそっけないのな」

「そんなこと言われても。どう反応していいかわからないし」

「まあそっか。じゃあ、なんで断ったと思う?」

 なんで、と来たか。そんなの、分かるわけないじゃないかと咲良は思う。

「顔が好みじゃなかったから?」

「違う。わりとかわいかった」

「死ね。性格が悪かったとか?」

「それも違う。性格なんか付き合わねえと分かんねえだろ」

「付き合ってもわからないと思うけど……」

「うるせえ。――戻ったな」

 なにが、とは言わなかった。それは咲良自身にも分かっていることだったから。

「お前が落ち込んでると調子狂うんだよ」

「……悪かったわね。私だって人間だし落ち込む時ぐらいあるわよ」

「そうそう、その調子」

 殴ってやろうか、と思ったが自転車を押しているせいで両手がふさがっていたのでやめた。


「で、なんで断ったのよ」



「『好きな人がいる』って言ってやった」


 好きな人、すきなひと、スキナヒト。……頭のなかでその言葉だけが響く。

 そんなのがいるなんて聞いてない。


「……あ、そう」

 今度は掠れていない。……動揺していないように取り繕えただろうか。

「思ったよりも淡白な反応だな、オイ」

「まあ、あんたに好きな女の子の一人や二人や百人ぐらいいても不思議じゃないしね」

「百人はいねーよ!」

「で、その子泣いてなかった?」

「泣きはしなかったけど、泣きそうだった」

「うわ。ご愁傷様」

「咲良はどうなんだよ」

「なにが?」

「……好きな奴とかいんの?」


 正直に言えたら、それだけ良いのだろうか。

 ……しかし、咲良は素直になれずにいた。ここで『好きだ』と言えばどれだけ楽になれるだろうか、と思いながら。

 もやもやとした気持ちを押さえつけ、答える。


「……いない、わよ」

 そんなのは嘘っぱちだ。だって目の前に好きな人がいるんだから。……でも、好きという想いを伝えてしまえば、悠真とこんな風に言い合えなくなってしまう。

「嘘だ」

「いないってば! そういうのやめてよね」

「お前、嘘つくときに左目が下向くんだよ」

「うわキモっ。そんなとこ見てたの」

「で、嘘なんだろ?」

「そうよ、悪い? ――私だって乙女なのっ!」

 おとめ、という言葉に爆笑する悠真を蹴り飛ばしてやろうと思ったが、自転車が倒れるのでやめる。

 ……今日はやけに暴力的な気分になるなぁ。と人事のように考えていると爆弾が投下される。


「そっか……で、そいつにチョコ渡したのか?」

「はい?」

 ……は? 何言ってんの?

「いや、俺の分ないし。そういうことかなって思ってさ」

「なわけないじゃない。今年はあんたの分なんて考えてなかっただけよ」

「いや、咲良のがなかったら最悪ゼロだったんだぞ! ゼロ!」

「知らないわよ。結果的に貰えてるんだし良いじゃない」

「まあそうなんだけど」

 チャンスだ、と思った。ここを逃せば今年は渡せなくなってしまう。


「あ、そう思えば義理チョコ余ってたけど……いる?」

「義理でも欲しい」

「即答なのね……告白した子泣くわよ……」

「いや、少ないより多いほうがいいだろ?」

 その論理には賛成しかねる。チャックを開け、中から綺麗に包装されたチョコを取り出す。

「……はいこれ、チョコ」

「サンキュ。――まあどうせ中は既成品なんだろうけど」

「うるさい。そんなに言うなら返してよね」

「まあ、人にあのおぞましい物を食べさせるよりはマシか」

「いつか首絞めてやる」

「こえーよ」

 ……と、いつの間にか咲良は自分の家の前まで来ていた。自転車を押しながらだったし、思ったより話し込んでいたみたいだ。


「あ、じゃあまた明日」

「おう」


 今年も、悠真に好きと言えなかった。もう言うタイミングもないかもしれない……好きな人がいるみたいだし、と自嘲する。

 姿が見えなくなったのを確認して、重い気持ちを引きずりながらも咲良はドアの鍵を回す。



 ――――包装紙の裏に書いた『悠真のことが好き』の文字を見つけて欲しいと願って。

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