第3幕「過去と現在」
少なくとも中学3年生まで、詠多朗は平凡な生活を送っていた。
なにか特技があるわけでもなく、取り柄と言えば勉強に励むぐらいしか能がなかった。それなりの成績ではあったが、全国で名を馳せるほどでもなく、せいぜい学校で1位か2位を争う程度。絵に描いたような優等生。だからと言って、生徒会長をやるほどでもなく、せいぜい学級委員長。そんな感じで、平凡より少しだけ目立つ程度の学生だった。
家庭も問題ない。会社で中間管理職の父と、専業主婦の母、そして広い家を持っていた祖父とも円満。1つ下の妹とも仲がよく、よく一緒に買い物に行くほどだった。それどころか友達と遊びにいくより、お兄ちゃんと遊ぶと断言するぐらい妹には好かれていた。そんな感じで、平凡より少しだけ幸福感のある家庭だった。
唯一、問題があるとすれば、詠多朗自身のことだろう。熱く求める夢があったわけでも、可能性あふれる未来に希望をもっていたわけでも、友達が多くて毎日が充実していたわけでもない。有り体に言えば、人間的に欠陥があるようにも見えたかもしれない。
しかし、それでも幸せだったと、彼は胸を張って言える。
ただ、神、はたまた運命の女神は、唐突に彼へ「不可」という負荷を付加した。
約半年前の1月。
大寒の季節に、詠多朗は祖父が残した広い広い家に独りになる。端的に言えば「冬休みの旅行」というイベントに、彼は家族を奪われた。一方で、「受験勉強」というイベントに、彼は命を救われた。だが命は救われても、心は救われずに置き去りだった。自分だけ、永遠に留守番だった。
当時の詠多朗の心にあったのは、絶望である。否、絶望は望みがないことなのだから、何もなかったと言うべきか。そう、夢も希望もなくなったのだ。いや、それさえも否。もともと夢も希望も持っていなかったのだから、最初から何もなかったというべきか。
彼はそんな愚にもつかぬことを漠然と考えながら、誰も片づける者がいなくなり雑然とした家で、何日も呆然としていた。遺体もない「行方不明」という死は、彼に実感を与えなかったのだ。けじめもつけられず、故に歩む先も見つけられずに、数日が過ぎ去った。
――あら。貴方、自分の
そこに現れたのが、1人の不思議な少女【カタリナ・リーディング】だった。
――でしたら、自らの運命を辿る
そして渡された不思議なカード。
見せられたのは、魅せられるエンディング。それは勧誘なのか、誘惑なのか、
こうして詠多朗は、
ただ、それにより彼の日常は大きく変わってしまった。
それでも簡単に日常を捨てるわけにはいかない。詠多朗は勉強を続けて、なんとか近くにあるそれなりの高校に合格した。
ちなみに、生活費の問題はなかった。親の保険に、賠償金、祖父の遺産と、税金を払っても、このままなら働かなくても生きていけるのではないかという大金が手元に残った。こう言ってはなんだが、両親ともに親類がいなかったのは幸いした。弁護士の手配など、いろいろと面倒事もあったが、意外となんとかなるものだ。
それからというもの、昼間は優等生の仮面をかぶり普通の学生を演じた。当初は家族の事故についていろいろと周囲がうるさく疎ましかった。しかし、一緒に住み始めたリディが「邪魔ね」と告げると、翌日には周囲の雑音が消えていたのだ。それは偶然か、はたまた……と考えるが、どうせ答えは出ないので忘れることにした。
そして夜はリディに言われるまま、黒いスーツを着て変装し、
そんな詠多朗が唯一、素の自分を出して休まるのは、やはり自宅だった。不思議と出会ったばかりのリディとの暮らしは心地よく、おかげで広い家の無駄な空間からわきでていた寂しささえ、今ではあまり感じなくなっている。それは新しく手に入れた、小さな幸せの時間でもあった。
(しかし、これからは
今朝方のことを思いだし、詠多朗はかるく頭を押さえる。
高校になってもあまり変化のなかった詠多朗の生活は、昨夜に豹変してしまったのだ。自宅に帰れば、自分の言うことならどんなことでも聞いてくれる、同じ歳の美少女がいる。きっと触らせてと言えば、体のどこでも触らせてくれるだろう。一緒に風呂に入ろうと言えば入ってくれるだろう。
(そして、もし抱き……いや、待て詠多朗! だから、それは考えてはいけないと!)
今朝から同じようなことを何度も考えてしまう。授業中でもトイレ中でも、ちょっとした隙ができると考えてしまう。これぞ、若さゆえの過ちというものだろうと、彼は自省して自制する。しかし、青春真っ盛りである以上、もうどうしようもないのではないだろうか。これには青少年の夢とロマンがつまっている。
なにしろ、彼女はカードの力で絶対に詠多朗を嫌わないのだ。たとえば、彼が変態的に「痴漢プレイをしたい」と落花に告げたとしよう。それでも落花は、笑顔で受け入れるだろう。いや、もしかしたら「ご主人様の変態♥」と羞恥を浮かべるかもしれない。しかし、彼女はその変態行為を好意をもって受けいれる。それはつまり、どんな詠多朗の性の調教でも従うと言うことだ。これを男のロマンと言わずして何と言うというのか。
(……はっ! いかん! また妄想に耽ってしまう!)
すべての授業が終わると、部活動もやっていない詠多朗は帰り支度を始める。その間、表面はすました顔をしていたが、頭の中の欲望が加速度的に悪化しているのがわかる。心は乱れまくっている。冷静に冷静にと言い聞かせる横で、「早く帰りたい」「このまま帰っていいのか」という相反する声が聞こえる。
(師匠がいればまだ歯止めが利くのだが……さすがに師匠の前でやる勇気はないし)
怖いのはリディが、ふらっと夜中にいなくなった時だ。詠多朗は欲望に勝てるのかと自問する。いっそう、このまままっすぐ帰らずに、バッティングセンターにでもよって発散してくるべきだろうか。いや、もう運動部にでも入ってヘトヘトになるまで体を動かすべきだろうか。
彼は、本気で悩みだす。
「…………」
周りはまだ、部活に行こうとする者や、どこに寄り道しようかと相談する者たちが、ガヤガヤと騒いでいる。教科書を鞄に詰めながら、詠多朗は横目で彼らをうかがう。先ほど考えたみたいに、彼らと遊びにいったり、共に部活でもやればまたなにかが変わるのだろうか。
だが、不思議とその輪に入りたいと思えない。いや、入れるとは思えない。周囲のコミュニケーションは、スクリーンに映された映像のように現実感がなかった。疎外感とは少し違う。
「委員長、本田委員長!」
我に返って詠多朗は、呼ばれた声に振りむく。
教室のドアの外。そこにいたのは、別のクラスの女子だった。
なんだろうと詠多朗が返事をしようとすると、急いでいるのか彼女はすぐに用件を告げてくる。
「生徒会長が呼んでたよ。生徒会室に来てってさ。んじゃ、伝えたからねー」
伝言の礼を言う前に、彼女はそそくさと立ち去った。慌ただしいことこの上ない。
やれやれと思いながらも、詠多朗は重くなった鞄を手にする。ある意味でこのまますぐに帰らないのは良策かもしれない。心がまぎれるだろう。
それに生徒会長には、聞いてみたい案件があったことを思いだす。
(ちょうどいいか……)
詠多朗は、教室の雑踏から離れると、生徒会室に向かって歩き始めた。
万が一に備えて、鞄にしまってある
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