1章:竜の娘

1-1.

 山の奥深くに、一軒の家が建っていた。

 小ぢんまりとした石造りの平屋で、平らに整地された庭の片隅には、小さな畑と釣瓶式の井戸がある。

 家の裏口がゆっくりと開き、大きな籠を抱えた人影が出てきた。鼻歌など歌いながら、建物の南側にある物干し竿へ向かう。

「よっこいしょ」

 籠を下ろすと、頭が見えた。短く切りそろえた黒髪と白い肌。琥珀色の大きな目は、利発そうな印象を与える。ややもすれば少年にも見えるが、細くしなやかな体つきは、少女のそれだ。

 少女は慣れた手つきで洗濯物を取り込んでいく。

 と、不意に強い風が吹き、大きな影が日差しを遮った。はためく洗濯物を押さえながら空を見上げた少女の顔が、パッと明るくなる。

「お父さん、おかえり!」

「ただいま、イブキ」

 買い物をぶら下げて、俺は少女の前に降り立った。


 俺は赤子に『イブキ』と名付けた。生命力や呼吸を意味する、古い言葉だ。

 竜の姿では怖がって泣いてしまうイブキのために、人の姿を取ることにした。

 人間は自分に似たものに愛着や親近感を覚えると聞いたことがあったので、彼女と同じ黒い髪に白い肌の色をした、成人男性の姿を繕った。

 洞窟は俺にとっては居心地のいい住み処だが、人間が暮らすには向かない。洞窟を出て、人間が住むための家を建てた。

 育児を模索し、山の麓の町から人間の食べ物を買ってきて与え、麓の人間が扱う言語で彼女に話しかけ、甲斐甲斐しく世話をし続けた。


 それから十二年。

 イブキはいつしか、本来の姿を見ても怖がらなくなった。全ての事情を打ち上げても尚、俺を父として慕ってくれている。

 それでも、俺は彼女の前では極力人型でいるようにしていた。人間用のベッドの寝心地も、悪くない。


「お父さん聞いて。今日は、イノシシを仕留めたんだよ」

 駆け寄ってきたイブキが、開口一番に報告してくる。

「イノシシ?」

「そう! こっちこっち」

イブキは嬉しそうに、買い物袋で塞がった腕を引っ張っていく。

「ほら、見て!」

案内された家の脇には、巨大なイノシシが血抜きまできちんと済まされた状態で横たわっていた。

「おお……」

 ウリ坊がイキがった程度の大きさを想像していた俺は、思いのほか大きかった獲物を見て、一瞬固まった。

「すごい? ねえ、すごい?」

 得意げに胸を張るイブキの頭を優しく撫で、

「ああ、すごいな。よくやった」

 やりすぎでは、という気持ちが顔に出ないよう、頬の裏側を噛みながら頷いた。イブキは、にへへと嬉しそうにはにかんだ。

「解体しないといけないな。包丁持ってこい」

「うん!」

 勝手口へ走って行く後ろ姿を、黙って見送る。

 扉が閉まる音が聞こえてから一拍置いて、

「……逞しく育てすぎたか?」

 頭に巻いていた布を一度外し、俺はいつの間にか寄っていた眉間の皺を指で揉みほぐした。


*****


 俺はイブキに、自分が持ちうる限りの知恵を与えた。

 きっとそう遠くない未来、彼女は俺の元を離れ、人間の世界に戻ることになる。予測ではなく、確信だった。

 竜である自分が育てたせいで、人間社会で要らぬ苦労をすることがないよう、読み書きや計算、家事から魔法まで、人間が行うことは一通り、それはもう真剣に丁寧に教え込んだ。


 彼女は賢く、教え甲斐のある生徒だった。教えたことを吸収していく様子が面白く、つい指導に熱が入ってしまった。


 その結果が、今目の前にある肉の塊だった。

「食べきれないな」

「そうだね……」

 竜は本来、食事を必要としない。大気中に存在している魔素が、俺の活動源だ。

 この山は霊峰と言われるだけあって、魔素の濃度が高い。空腹という感覚を長らく味わっていなかった。普段は趣味と毒味を兼ねて、イブキと同じものを食べているだけだ。

 イブキも育ち盛りとは言え、二人で消費しきれる量ではない。魔法で腐らせないように保存しておくという手もあるが、イブキは俺が教えたことの復習も兼ねて、定期的に狩りをしている。備蓄は増える一方だろう。

 少し考え、俺は口を開いた。

「町に持っていくか。売れるかもしれない」

「わかった」

 素直に頷き、家の中で手頃な包みを探そうと踵を返すイブキの背中に、訊ねた。

「……お前も来るか」

「へ?」

 イブキは、山を下りたことがない。イブキを捨てた一味に彼女がまだ生きていることを知られないために、山を下りないよう言いつけていたからだ。

 イブキ自身もそれが当たり前の生活をしていたので、町に興味がある素振りを見せたことはなかった。

「いいの?」

 突然の提案に、きょとんと首を傾げる。俺は再度頷く。

「ああ」

 今のイブキなら、少々の非常事態が発生しても生き延びられる。頃合いという奴だ。

「じゃあ、行く」

イブキはまだ覚悟が追いついていない様子ながらも、おずおずと頷いた。

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