12 司藤アイ、ショックを受ける

 現実世界。下田しもだ三郎さぶろうはホッと胸を撫で下ろしていた。

 絶望的な状況に陥ったと思われた、女騎士ブラダマンテ――司藤しどうアイはどうにか生き延びた。しかも敵の魔法使いアトラントと和解したのだ。


『……へえ。司藤しどうアイ、やるじゃあないか。

 度胸はからっきしだけど、思っていたより頭は回るんだねェ。

 しかも魔法使いアトラントをこんなに早く手懐けるなんて。

 彼があそこまで改心するのは、もっとずっと後の段階の話だったのにさァ』


 本の悪魔――Furiosoフリオーソは、言葉ではアイの機転を褒めそやしていながらも、口調は憮然としていた。

 十中八九、彼女が魔法使いに敗れて囚われてしまうと踏んでいたのだろう。


 それに原典では、ブラダマンテはアトラントの台詞や哀願の一切を拒絶し、嘲笑までしている。

 このせいもあり、アトラントはこの後も懲りずにロジェロを攫うため暗躍する。二度目の戦いの時にはブラダマンテすら、罠にかかり囚われの身となってしまうのである。

 物語の序盤の段階で、この厄介な未来を避けられた功績は大きい。


「まずは第一関門クリアーといった所だな!

 ヒヤリとする展開だったが、終わってみれば原典以上に素晴らしい落とし所になったじゃあないか!」


 下田は聞こえよがしに賞賛したが――実は厄介な事案が間近に迫っていた。


**********


 カレナ山頂にある真鍮の城は、魔法使いアトラントの居城だ。

 彼は養子ロジェロをはじめ、大勢の通りすがった騎士や淑女を攫い、城の住人としていた。


 しかしブラダマンテとメリッサの活躍により、結果的に命を救われる事となったアトラントは、彼女たちの言い分に従う事にした。

 今まで得た虜囚全員の解放。無論その中には、ロジェロも含まれている。


 尼僧メリッサは、ブラダマンテが斬り落としたブルネロの右手から、魔法の指輪を抜き取り、丁寧に布で拭いていた。

 さっきまで髭面の小男が口に含んでいた代物であるし、当然の処置だろう。


 ゆっくりと進む空飛ぶ幻獣ヒポグリフに乗ったアトラントの案内で、二人は城の中へと入った。

 ヒポグリフはうまやに繋ぎ、さらに奥へと進む。


「……この先が、ロジェロのいる部屋だ」アトラントが振り向いて言った。


「さ、ブラダマンテ」メリッサも、ブラダマンテを促す。

「ロジェロ様との再会。積もる話もございましょう。

 ゆっくりと語り合って下さいませ」


「うん……ありがとう、メリッサ。アトラントさんも」


 女騎士ブラダマンテこと司藤しどうアイは、待ちに待った瞬間を前に心が躍った。


(死ぬかと思ったけど……やっと、ロジェロ――いえ、綺織きおり先輩に会える!)


 司藤しどうアイは現実世界では、演劇部に所属していた。

 当然ながら恋愛劇ラブロマンスの類も経験がある。異世界とはいえ、これもその延長上に過ぎない。


(そう思っていても――恋人役が憧れの先輩って、緊張するわよね。

 この話の展開だと、男女の役割が逆な気もするけど……まあ、下田も言ってたっけね。ブラダマンテって積極的に男を助けに行くタイプの女性みたいだし。

 もう、なんだっていいわ! 先輩とキャッキャウフフするチャンスよッ!)


 喜び勇んでアイは、ロジェロの部屋の扉を開けた。


「会いたかったわ、ロジェ――」


 中の様子を見て、アイの台詞と表情が――固まった。

 何か信じられないものを見た、と言わんばかりの顔だった。無言で扉を閉める。


「?」「?」


 ブラダマンテの不審な様子に、アトラントもメリッサも怪訝そうな顔になった。


「……えっと、アトラントさん。この部屋って」

「我が養子、ロジェロの部屋だ」


「か、確認するけど……この部屋の中にいる騎士って――」

「当然、ロジェロだが。どうしたのだ、ブラダマンテ殿?」


 老魔法使いの言葉を反芻するように、深呼吸をした後。

 ブラダマンテは、にっこりと笑みを作って言った。


「…………ええ、やっぱり、そうよね。

 うん、何でもないわ。久しぶりの再会だったし。

 ちょっと感慨深かっただけ。心配しないで」


 アトラントは彼女の言葉に何となく、不自然さとぎこちなさを感じたが……その原因が分からず、鷹揚に頷くしかない。


「……ええと。しばらく、彼と二人きりにさせてくれないかしら?」

「ああ、もちろんだ――お主とロジェロは、浅からぬ間柄のようだからな」


 養父として、気を利かせたつもりなのだろう。彼はブラダマンテの申し出を快諾した。

 アイはお礼を述べると、ロジェロの部屋に入り――バタンとぶっきらぼうに扉を閉めた。


 そして――アイはつかつかと部屋の中にいる騎士、ロジェロに向かっていった。

 その顔をまじまじと見つめ――見間違いでも気のせいでもなかった事を悟り、心の底から落胆したような大きな溜め息をついた。

 そんな彼女の様子を見て、ロジェロもまた、幽霊に出くわしたかのような表情を浮かべた。


 もうすでに、薄々感づいておられる方も多いだろうが。

 ロジェロは――綺織きおり浩介こうすけの顔ではなかった。


「……なんで、なんでアンタがこんな所にいるのよ?

 黒崎のアホぉぉぉぉぉッッッッ!!」


 そう。ブラダマンテが将来結ばれる、夫となる騎士ロジェロの素顔は。

 憧れの先輩ではなく、同級生の悪友にして腐れ縁たる、黒崎くろさき八式やしきのものだったのである。


ииииииииии


下田しもだァァァァァァ!? 何なのよこれはッ!?

 よくも、よくもだましたわねッ! 乙女の純情をもてあそんだわねッ!?』


 再び現実世界。環境大学の講師室。

 怒りに満ちた大音声の念話が届き、下田教授の脳内はガンガン揺さぶられた。


「一体どうしたというんだ、アイ君……ロジェロに何かあったのか?」


『何があったとか、そんな生易しいレベルじゃあないわよ!

 どうしてこうなったの!? あの時、ブラダマンテの回想で見た時のロジェロは……確かに綺織きおり先輩だったじゃない!

 なのになんで、いざ再会してみたら黒崎のアホとすり替わってんのよッ!?

 不本意だわ! チェンジ! やり直しを要求するーッッ!!!!』


 悲痛な絶叫を聞かされ、さしもの下田も理解が追いつかなかった。

 何しろ「狂えるオルランド」は叙事詩であり、挿絵も数えるほどしかない書籍。ロジェロの外見が別人に変化しているなど、下田の側から分かるはずもない。

 それに下田は、彼女の言う黒崎くろさき八式やしきなる高校生と面識すらなかった。


(黒崎なる人物も、この魔本の中に引きずり込まれていたというのか?

 ええい、いきなりの展開過ぎて訳が分からんぞ!)


「お、落ち着けアイ君。こっちも情報を精査してみる。

 しばらくの間待っていてくれ――」


 なんとかそれだけ言うと、下田はパタンと本を閉じた。

 そして早速元凶を問いただすべく、罵り声を上げた。


「おいどーなってんだこのクソ悪魔ァ!?

 回想と現実とで登場人物の配役が代わってるって、そんなのアリかッ!?

 しかもお前、黒崎とかいうアイ君の同級生が本の中にいるって事も今までずっと黙ってただろう!?」


 下田が呼びかけた「本の悪魔」は、気だるそうな声で答えた。


『――下田三郎。きみは黒崎くろさき八式やしきなる人物を知らないようだったし。

 聞かれてもない事を、わざわざ教えてやる義務はボクにはないと思うなァ。

 それにさ。勘違いしているみたいだから一応、弁解させてもらうけど。

 ボクの担当はこの物語”狂えるオルランド”だけさ。知ってるだろう?

 この叙事詩はもともと作者も違う未完の物語の、続きモノとして書かれたものだって事』


 悪魔の言う通り、「狂えるオルランド」はそれ自体で独立した物語ではない。

 前日譚とも呼べる、ボイアルドなるイタリア詩人が書いた「恋するオルランド」というものが存在する。

 「恋するオルランド」が諸事情により、未完のまま中断されてしまった事を受けて、アリオストが補完する形で続編を書いたという経緯があった。


 司藤しどうアイが中途半端な展開から転移スタートした理由も、ここにあったのだ。


『彼女が脳内補完でロジェロを綺織きおり浩介こうすけにしたのだって、ボクの仕業じゃないよ。

 何しろ”恋するオルランド”の内容はボクの管轄外だ。ボクだって寝耳に水さ』


「……お前のせいじゃないというのか」


『考えてみてよ。きみのところに魔本を持ち込んできたのは、誰だった?

 綺織きおり浩介こうすけだよね? じゃあ何故、彼はそんな事をしたと思うんだい?』


 そこまで言われ、下田はハッとなった。

 故意にせよ偶然にせよ、綺織きおり浩介こうすけ黒崎くろさき八式やしきが本に引きずり込まれた瞬間を見た可能性が高い、という事か。


『何にせよ、司藤しどうアイが勘違いしていたのは結果的に良かったと思うよ。

 もし彼女が最初から、ロジェロを黒崎くろさき八式やしきだと思っていたら――ここまで積極的に動いてくれたかどうか』


 悪魔の言葉に、下田も反論できなかった。


「ひとつ聞くが――本の中に引きずり込まれたのは、その黒崎君で全員か?」


『ああ、そうだよ。入った順番は――黒崎八式、綺織浩介、司藤アイの順だ。

 今、この本の中で自由に動けるのはこの三人だけだ。

 そこは信じてもらっていい。信じる信じないはきみの自由だけどね』


 ともかく、取り乱したアイをなだめる事が最優先だ。

 彼女が自暴自棄になって、ブラダマンテ役を演じ通す事を諦めてしまったら――何もかもおしまいになってしまう。

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