夏の野に 我が見し花は 黄葉(もみじ)たりけり

しきしま

第一章 権力掌握

橘諸兄排斥

藤原仲麻呂

 秋の収穫を神に感謝する新嘗祭も無事に終わり宮中は落ち着きを取り戻した。あと十日もすれば師走となり、新しい年を迎える準備に、再び宮中は騒がしくなる。年中行事の合間の気楽な雰囲気が宮には満ちていた。

 都を流れる左保川、東西の堀川も水をなくして静かにしている。

 快晴の空からは日の光が降りてくるが、吹く風は冷たく、厚着をしていても身が締まる。日が西に傾く頃には、宮の北にある林に椋鳥の群れが帰ってきて騒がしくなるだろう。

 ヒヨドリの群れが盛んにさえずりながら生駒山を目指して飛んでいった。

 山はすっかり冬枯れしている。木々が葉を落とし生気をなくしているようであっても、高くそびえる生駒山には人を畏怖させる神々しさがある。

 権力とは山のようなものかも知れない。多くの人間が頂を目指して登ろうとするが、たどり着ける者は少ない。ある者は途中で挫折して登るのを止め、ある者は滑り落ち、またある者は足を引っ張られたり、上をいく者から蹴落とされたりして頂上まではたどり着けない。強い意志を持って頂上を目指し、勝ち抜いた人間だけが頂から下界を見下ろすことができるのだ。

 藤原仲麻呂は立ち止まって深呼吸をした。冷たい空気を体に入れると、頭のてっぺんから足の先までが痺れるように引き締まった。

 緊張するのは空気が冷たいからではない。

 天平勝宝六年(七五四年)十一月二十日。仲麻呂は腹心の石川年足いしかわとしたりを連れて、孝謙天皇に奏上するために内裏に入った。

 仲麻呂は上座の孝謙天皇と光明皇太后に頭を下げる。

「薬師寺の行信ぎようしん大僧都、宇佐八幡の神職である大神多麻呂おおがみのたまろ大神杜女おおがみのもりめが呪いの儀式を行っているという密奏がありましたので、紫微中台しびちゆうだいの兵を差し向けて捕縛しました」

 仲麻呂はゆっくりと頭を上げて上座の二人を見た。

 聖武太上天皇は、数年来、体の調子が悪く養生しているので、孝謙の実母である光明皇太后が天皇の後見役として、いつも一緒にいる。

 実の母と娘の二人はそっくりな顔や体つきをしていた。五十四歳になる光明皇太后に、娘のような華やかさはないが、黒くて艶のある髪の毛や暖かい眼差しには熟年の美しさがあった。子供を産んだことがない孝謙天皇の頬はみずみずしくて張りがあり、赤い唇はなまめかしくて瞳には濁りがない。三十七歳とは思えない美しさを保っている。

 仲麻呂の年齢は、ちょうど光明皇太后と孝謙天皇の中間に当たり、皇太后からは弟のようにかわいがられ、天皇からは兄のように頼りにされていた。

 仲麻呂は、藤原南家の祖である藤原武智麻呂の次男として生まれた。少年時代は、漢籍を好み、唐国へのあこがれを揶揄されることもあったが、阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろに算術を学び、「率性聡敏そつせいそうびんにして、ほぼ書記にわたる」と英才ぶりを評されていた。

 嫡男である兄の豊成は二十一歳で従五位下を下賜されて貴族の仲間入りをしたが、仲麻呂は次男であるために従五位下を下賜されたのは二十九歳のときと遅かった。貴族になるのは遅かったが、叔母に当たる光明皇后にかわいがられて出世してきた。聖武天皇の東国巡幸で前騎兵大将軍を勤めたのを手始めとし、民部卿、式部卿を歴任する。この間墾田永年私財法の施行に尽力して政治力を発揮すると共に近江守を兼務した。四十三歳で参議として台閣に席を与えられ、四十四歳で中納言を飛び越して大納言に昇進した。仲麻呂は大納言昇進と同時に、皇后宮職の長官と中衛大将の兼務を命じられた。仲麻呂は、皇后宮職就任時に役所名を唐風の紫微中台しびちゆうだいに、長官を紫微令しびれいと改めた。

 次男である仲麻呂には藤原南家の氏上うじのかみ(族長)になる資格はなく、本来なら出世はできない。良くて大国の国司か、式部卿止まりのはずであった。光明皇后に引き上げられて、台閣に昇ると仲麻呂の心に、頂点を極めたいという欲が出てきた。

 仲麻呂の上には、十七年間にわたって台閣の長として政を司っている七十歳の左大臣橘諸兄たちばなのもろえと右大臣の藤原豊成の二人がいた。

 豊成は、「人が良いだけ」であり政治力はないから、諸兄を追い落とせば台閣は仲麻呂のものとなる。仲麻呂が諸兄を落とす機会を待っていたとき、行信と大神の事件が飛び込んできた。

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