Color

 夕方、目が覚める。布団の中に横たわったまま、埃をかぶった机の上、ガラスコップに入った水と、カシャリと軽い音を立てるPTPシートを引き寄せる。錠剤を二つ押し出して、ぬるい水で喉に流し込んだ。カーテンの隙間から射す光に、透明なコップの、シャボン玉のような模様が透ける。手垢だ。

 

 私はずっと、透明だった。

 連れて行かれた場所で、言われた通り、目の前に差し出された景色に、上手に溶け込んで、生きてきた。

 高校を卒業して上京し、何事もなく大学を卒業し、高級消費財メーカーに就職した。繁忙期には夜中の三時頃まで働いて、同僚の家に泊めてもらい、翌朝七時半には出社した。ドイツの本社にも一年半駐在し、帰国してからも万事順調だと思っていた。蕁麻疹が出るのは日常茶飯事で、じきに片耳が聞こえなくなった。その時点ではまだ、よくあることだと思っていた。食欲が湧かないために食事は一日一食で済ませた。着替えるだけで三十分かかるようになった。ついに朝布団から起き上がれなくなって、ああ、終わったと気付いた。そうして会社を辞めて、もう三ヶ月が経とうとしていた。

 

 会社も辞めたのだから、もう何をしても自由だ、どこへ行ってもいい、いざそうなると、自分には何もなかった。白ですらない、透明。手垢にまみれ、置き去りにされて、埃をかぶった、透明。

 こうしてひとたび社会から外れてしまうと、透明のまま生きてきた自分が、今更何かの色を纏った存在になることが恐ろしくなった。自分自身が幸福な色に色づいてしまうと、何かその瞬間に一つの物語が終わってしまうような、拍手喝采とともに幕が下りプツンと意識が途切れるような、幸せな抱擁と感動の涙が急に暗転してエンドロールが流れるような、そんな考えが、どこか頭の隅のほうに、赤い血の染みのようにこびりついて、消えない。

 

 横たわったまま、カーテンを細く開けて外を覗いてみる。カラスが群れをなし、真っ赤な夕日の手前を横切った。空は黒く埋め尽くされ、冷たく硬い鉄の塊のように、心の奥底までズシリと、沈んでゆく。日本と比べると圧倒的に曇り空の多かったドイツでも、空をこんなに憂鬱だと感じたことはなかった。白樺の谷、息を吸うことも許されず死んでいった子どもたち。平和に守られながら敗れきった私と、彼らとを、比べることすら間違いだろうか。

 子どもの頃暮らした田舎の家の窯を思い出す。叔父さんが営む民宿で使う皿を焼くのに使っていたものだ。数十年の時間の積み重ねで、壁と天井は煤けて黒くなっていた。ぼんやりとして、深くて、無限に続いていくような、黒。夜の闇やピストルや虫の大群を連想しては怯えた。今はその黒さえ、遠く懐かしい。

 その民宿も、叔父さんが病魔に侵され、閉めようかと考えているという留守電が、叔母さんから入っていた。先週も一件留守電が入っていたが、未再生のままにしていた。先月届いた宅急便も、まだ開封していない。


 煤で汚れていない白茶けた天井を見ながらまたうつらうつらとしかけたとき、インターホンが鳴った。無視してやり過ごすかどうか迷っていると、もう一度、二度。

 仕方ない。誰だろう、また宅配かしら。立ち上がり、散乱したティッシュや衣服を避け、くらりとする頭を抱えて玄関へと向かう。

 宅急便の段ボール箱を足で押しやり、鍵を開けたままの玄関(鍵を閉めるのすら面倒なので、病院から帰った後などたまに閉めるのを忘れてしまう)のドアを開けた。

 

 「あんた、どないもあらへんか」

 叔母さんが立っていた。さっきまで実家のことを考えていたから、これは幻かしら、とぼんやり考える。

 「ひかりちゃんから仕事辞めたて聞いて、先月送った荷物にも先週の留守電にも連絡してきなさいって入れたのに、何の音沙汰もないからみんなあんじよってんで」

 言いながら叔母さんは私の肩越しに部屋の中を覗き込む。そしてすぐに部屋の中の惨状を目の当たりにして、小さく驚きの声を上げた。

 「こんなもんあっかえ、あんたちんまいのにごじゃして!」

 心配そうに眉をひそめ、水仕事で荒れた大きな手で私の肩を抱き寄せる。あまりにも久し振りの生の人間の感触に、涙が溢れた。ぎゅっと目を閉じて叔母さんの肩に額を軽く押し付けると、まぶたの裏に星屑が飛んだ。叔母さんの着ているセーターの、橙がかった桃色が、閉じたまぶたの隙間からじんわりと滲む。透明な私が、暖かな桃色で満たされていく。

 「あんた、うっとこ帰っといで。今日からでも」


 ああ、拍手喝采が聞こえる。茜色の夕日を埋め尽くした窯の煤、その黒を割って、曙色の太陽が昇る。私はそのまま眠るようにして、暖かな色に包まれた意識を手放した。

 

 

 

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