Bread

 茶トラ猫のガレットは、部屋の中に広がるいい匂いでお昼寝から目覚めた。

 背中を丸めて前足を伸ばし、丸めた背中をうーんと伸ばしてあくびをひとつ。日曜日のお昼間だから飼い主のはるちゃんも家にいるはずだけど、姿は見えない。

 この部屋中に漂う素敵な匂いは、もしかして……。

 __パンの匂いだ!

 ガレットはまだ寝ぼけ眼のまま、タタタッと冷蔵庫のほうへ走り寄った。冷蔵庫の上の台には、ジィーッと音を立てるミントグリーンの可愛いトースター。

 ガレットは勢いをつけて、せーので冷蔵庫の上に飛び乗った。あったかくていい匂いのするトースターの中を覗き込むと、オーブントースターの真ん中でこんがりと焼き目をつけられている食パンが見えた。ガレットの大好物だ。と、トースターの横に置かれた、まだ焼かれる前の真っ白な食パンを見つけた。パンだ!

 ガレットは喜び狂ってふかふかの食パンに顔をうずめた。白くて柔らかくてやさしい匂いのパン。ふかふか。良い匂い。良い気持ち。幸せ。


「あっ、だめ! 食べちゃだめだよぅ」

 我を忘れて夢中でパンをかじっていたら、洗面所から出てきたはるちゃんが、慌ててガレットを食パンから引き離した。

 __はるちゃんのいじわる!

 にゃーんと抗議の声を上げるけれど、はるちゃんはいつも無視する。たまにひとかけらだけくれることもあるけれど、はるちゃんばっかり毎日美味しいパンを食べられるなんて、全く不公平だ。

 ガレットを床におろしたはるちゃんは、鼻歌を歌いながらトースターを開けた。こんがり焼きあがったトーストを、色とりどりのマカロンのイラストに縁取られたお皿に載せる。ガレットの瞳と同じ色をしたメープルシロップをたっぷりかけて、コーヒーと一緒にテーブルへ。弾むようにソファに座って「いただきまぁす」と、大きな口を開けてかぶりつく。カリリ、と気持ちの良い音がする。「美味しい!」と嬉しそうなはるちゃん。ガレットははるちゃんの膝の上に跳び乗って、トーストの匂いを一生懸命嗅ぐ。

 ソファの向かい側に置かれたテレビでは、フランスの日曜市の特集が流れている。美味しそうなお肉や野菜やチーズや、パンがいっぱい!

 ガレットは身を乗り出して、テレビの画面を食い入るように眺めた。いいなぁ、美味しいものが食べ放題。僕も美味しいもの食べたいなぁ。ガレットはふてくされて、はるちゃんの膝の上で丸くなった。


 ガレットは焼きたての食パンをくわえて、シテ島の通りに立っていた。サント・シャペルを通り過ぎてセーヌ川。バターの香りがする食パンを器用にもぐもぐ食べながら、ポン・ヌフ橋をとっとこ渡る。

 いつのまにかガレットは二本足で立って、すました顔でボナパルト通りを南に進む。憂鬱そうな顔で頬杖をつくブロンズ像を横目に、赤や緑のパラソルの前を通り過ぎる。曲がり角には、はるちゃんが大好きなラデュレのお店。可愛いマカロンがお行儀よく並んでいるけれど、いっつもいじわるするから、はるちゃんにはお土産あげないもんね。

 おっ、あれはさっきテレビでも見たクロック・ムッシューだ。パンの上に、熱ーいとろとろのチーズ。四本足で走り出したくなるのをぐっとこらえて、ふんふんと鼻息を吸い込む。体の中に、香ばしいチーズの匂いがすうっと広がって行く。うにゃーん、幸せ。

 そのまま通りを下っていくと、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の横を過ぎた。くすんだ灰色のとんがり屋根が、空に突き刺さりそう。教会の向こうでは市場が開かれている様子。上のほうには垂れ幕もかかっている。『FROMAGERIE BIOLOGIQUE』……残念ながらガレットには読めない。

 市場に足を踏み入れると、なんとそこは天国だった。色んな種類のチーズ、りんごのパイに、ドライフルーツのケーキ。蜂蜜を塗ったクロワッサンにデニッシュ、フランスパンもある!パン屋さんの店先で、ガレットは夢中になってパンを買い漁った。

 わっ、焼きたてのジャガイモのガレット!細く切ったジャガイモがパリッとして、湯気がホクホクしてて、すごく美味しそう。そういえば、はるちゃんも先週の日曜日のお昼ご飯に作ってた。はるちゃんのガレットより、こっちのほうが美味しそうだな。でもはるちゃんには言わないでおいてあげよう。はるちゃんはガレットが大好きなんだ。だからガレットの名前もガレットにしたんだよぅ、っていっつも言ってる。

 急にはるちゃんが恋しくなった。さっきはお土産あげないなんて言ったけど、はるちゃんにも美味しいもの、あげたいな。早く帰って、はるちゃんのあったかい膝で眠りたいな。おいでガレット、ご飯だよ。どこからかはるちゃんの声が聞こえる気がする。


「あっ、起きたの?ガレット。おはよう」

 目を開けると、はるちゃんが覗き込んでいた。

 __はるちゃんだ!

 にゃうー。ガレットははるちゃんの膝をよじ登って、はるちゃんの鼻に自分の鼻をくっつけた。はるちゃんはくすぐったそうにうふふ、と笑ってガレットのおでこに顔をうずめる。すんすんとおでこの匂いを嗅いでいる。くすぐったい。

「猫のおでこってお日様と焼きたてのパンの香りらしいよ」

 頭の上のほうから、はるちゃんのくぐもった声が聞こえた。ガレットはびっくり仰天した。えっ、そうなの、そんな近くにパンがあったんだ!

 はるちゃんの膝におでこを擦りつけては匂いを嗅ぐ。急に一生懸命おでこを擦りつけはじめられて、はるちゃんはくすぐったそうに笑っている。

 幸せな匂い。はるちゃんとお日様とパンの匂い。うにゃーん。

 満足したガレットは、はるちゃんの膝にかけられたブランケットの下に潜って丸くなった。


 焼きたてのパンの匂いに包まれて、もう一度、おやすみなさい。美味しい夢を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る