第三章 引かれ者の小向(1)






 *




 エルフに魔王。ファンタジーの定番とも言える存在が出てきた以上、“それ”があることは既に予想していた。


 魔法、いや、正確には魔術と言うらしい。


 魔法と言うのは魔術法則の略称。智貴の知る、魔力を操り超常現象を引き起こす技術は、「魔術」と呼ばれている。


 技術であるならば、それを修めることで誰もが「魔術」を使用することができる。そしてそれを学ぶための場所が、喜咲が通う公立間宮学園である。


 間宮学園は中等部、高等部、大学部の三つの学部から成り立っている。当然、中等部を卒業すれば高等部に。高等部を卒業すれば大学部に入ることができる。だがそれらの学部の卒業によって得られるのは、次の学部の入学資格だけではない。


 魔術師免許の更新。


 第五級から第一級まで存在する、魔術師の資格免許が更新されるのだ。


 それによってもたらされるのは、より強力な魔術兵器の使用許可であり、より多くの地域において、それらを使用するための許可である。


 人類は、彼らが作り出したその魔術兵器と、その練度を資格と言う形で得ることで、死都に生じた悪魔たちと戦っているのだ。


 つまり間宮学園と言うのは、学校と言う体を成した、対化物用の兵器研究所兼練兵所なのである。




「――っつっても、中は割と普通の大学って感じだな」


 もっとも大学など行ったことないが。智貴は誰にともなく呟いた。


 智貴が今いるのは高等部と大学部をつなぐ道、その途中にある広場だ。周囲は芝生に覆われており、中央には円形の花壇が作られている。花壇の花が地味な広場に彩を与えていた。


 そんな花壇の周囲を囲むように設置されているベンチの一つに、智貴はいた。


 服装は私服から変わって学園指定の制服に着替えている。上着は軍将校の制服に似た紺色のブレザー、下はグレーのパンツ姿で、喜咲が着ていたそれに似ている。


 首には黒いチョーカー――初が与えてくれたコネクタが付けられていた。首輪を付けられたようでいい気はしないが、智貴の持っているスマホは今の時代では使えないらしい。そして逆にコネクタがなければ、今の時代の機器は半分も使えないとのことなので仕方がない。


「凄いな。コレ」


 智貴がなにもない空間に指を滑らせる。


 他者から見ればなにもないが、智貴から見ればそこには半透明の仮想キーボードが存在している。これはコネクタに内蔵されているプログラムが、直接脳に働き掛けることで見せている拡張現実だ。そこにないだけで、機能的には本物のキーボードと変わらない。


 慣れればキーボードなしでも文字を打ったり、インターネットに接続できるらしいが、まだ慣れていない智貴には無理な芸当である。


「うお、まじで見えなくなった」


 試しにコネクタを外してみれば、仮想キーボードと隣の仮想ウィンドウは見えなくなる。付け直せば、再びそれらは現れる。


「これが俺のいない間に発達したテクノロジーか」


 十年。智貴は今更ながら、自分が超えた時間の長さを再確認する。


 周りを見渡してみれば街灯はなく、地面に埋め込まれた学内情報共有システム――言ってしまえばホログラム投影装置から、今日の天気と温度、湿度が表示されている。

 ゴミを拾う清掃員の姿もなく、代わりに警備システムと連動している清掃用ロボットが道を徘徊しながら学園内の美観を維持していた。


 家族や知人とも会っていないせいで、見慣れない風景と相まって、ほとんど異世界にでも来た気分である。


 そこはかとない孤独感に苛まれる智貴だったが、よくよく考えてみれば時代を超える前もほとんどボッチだったなと思い出す。つまり、時代を越えようが越えまいが、智貴の世間に対する立ち位置と言う物は変わらないらしい。


「……あれ? 俺ってひょっとして、滅茶苦茶寂しい人生送ってる?」


 これ以上考えるのはいけない気がする、主に精神衛生的な意味で。そう結論付けた智貴は意識を仮想ウィンドウに移して、適当にニュースサイトを開く。そしてそこに「なにが起きた? 黒い柱門消失!」と言った見出しがあることに気が付いた。


 黒い柱門。智貴が作り出した、地獄変のきっかけと言ってもいいモノ。そしていまだに世間に恐怖を喚起させるモノである。


 世間はそれが消えたことで騒いでいるが、初が言うには騒ぐほどの事ではないらしい。


 確かに黒い柱門が悪魔をこの世界に誘致する助けになっていたらしいが、なくなっても時空に穴は開いたままなのである。数こそ減るだろうが、それでもあの時空の穴――虹色の空が覗いている限り、悪魔はこちらの世界にやってくるのだ。


 しかも未だに死都には大量の悪魔が住み着いているらしい。仮にやってくる数が半分になっても、死都から壁が取り除かれることはないそうだ。


 地獄変がもたらした負の遺産はそれほどに強固かつ、大きなものらしい。ならば智貴が黒い柱門を作り出したこと。地獄変が起きるきっかけを生み出したことは、やはり黙っているべきなのだろう。


「平穏無事な生活を送りたいなら、魔王の力は隠しておきたまえ」


 先日初が智貴に言った言葉だ。その時は軽く聞き流していたが、ニュースサイトや、色々な記事を見ているとそれが決して大げさな物言いでなかったことが理解できる。


 曰く、悪魔が市街地を襲って死人が出た。


 曰く、十年前の地獄変で家族を全てを失った。


 曰く、地獄変はまだ終わっていない。世界は確実に滅亡に向かっている。


 もしも智貴がそんな地獄変をもたらした原因だと知られれば、つるし上げ程度では済まないだろう。


「……まあ、ばれなくても無事に過ごせるかはひどく疑問だけどな」


 なにせそれが判明していなかった十年前でさえ、智貴はトラブルに見舞われ続けていたのだ。これからの人生も無事に過ごせる予感は、全くしなかった。


 智貴がそんなことを考えながらベンチに手をつくと、不意に指先に痛みが走る。


「痛っ……なんだよ、このベンチ。釘が飛び出してんじゃねーか……あぶねえな」


 血の出た指先を、止血のため渋面で咥える智貴。不意に、そんな彼の視界にやたら目立つ少女が映る。


 服装は喜咲のそれと同じ、軍服に似た間宮学園の制服。髪はセミロングの黒で、たれ目気味の深青の瞳。顔立ちはよく見れば平均以上だが、小柄な体躯と合わさってどこか地味な印象を受ける風貌だ。それにもかかわらず彼女が目立っているのは、その両手に抱えきれないほどのパンを持って走っていたからである。


 今はちょうど昼時だ。学内の購買ででも買ってきたのだろうか。なんにせよあれでは遠からずパンを落とすか転んでしまうだろう……などと智貴が考えている内に、少女の手元からパンが零れ落ち、更にそれを気にした少女が足をもつれさせて、地面に見事な五体投地をキメてみせた。


「言ってる傍からこれだよ……」


 智貴は口から指を抜くと、周囲に展開していた仮想ウィンドウを全て消す。それから重たい腰を上げると、涙目で打った額を擦る少女の元に歩み寄る。


「おい、アンタ大丈夫か?」

「あ、ありがとうございます……って、ああ、パンが!」


 智貴が差し出し手を取って、少女が礼を言いながら立ち上がる。それから地面に散らばっているパンに気付いて慌てて拾い出した。しかしよほど慌てているのか、拾った先からパンが地面に落ちていく。仕方なく智貴もパンを拾うのを手伝い出す。


 パンを拾い終えることができた少女は、再び智貴に頭を下げようとするが、


「いいよ、余計な事するとパンをまた落とすぞ」

「あ。す、すみません……」


 言っている傍から零れ落ちたパンを、智貴が空中でキャッチする。


「……運ぶの手伝ってやろうか?」

「いえ、大丈夫です! これ以上ご迷惑はかけられません!」

「でもアンタ急いでるんだろ? 今の調子じゃ、目的地に着くまでにもう一回ぐらいぶちまけるかもしれないぞ?」

「そ、それは……」


 自分でもその光景が容易に想像できたのだろう、少女が言いよどむ。しかしすぐになにかを思い直したように首を横に振ってみせた。


「だ、大丈夫です! なんとかしてみせます!」

「いや、なんとかって、アンタ」


 それができなかったから、さっきパンをぶちまける羽目になったのではないか。智貴そう続けるよりも早く、少女はその場を離れようとして……不意に、一点を見つめて動きを止めてしまう。


 怪訝に思って視線を追えば、そこには自分の指。正確にはベンチの釘に引っ掛けて、未だに血が出ている指先があった。


「なんだ、俺の指が気になるのか?」

「えっと、その。怪我……」

「ああ、これか? さっきそこのベンチで引っ掛けたみたいでな。放っておけばその内止まるだろ」

「えっと、そのよければその手を貸してくれませんか?」

「ん? 手伝っていいってことか?」

「あ、や。そうじゃなくて、血を止めますから、手を出してください……そうすれば多分、気も変わりますから」


 少女の言葉の意味がいまいち理解できず、智貴は眉を顰める。だが少女が懇願するように見つめ続けてくるので、智貴はわからないまま手を差し出す。少女はパンを抱えたまま、そんな智貴の手を取った。

直後暖かい光が智貴の手を包む。


 智貴が驚いて目を見開いていると、やがて光は収まり、「それでは失礼します」と言って少女は走り去ってしまう。


 急な展開についていけずに智貴は戸惑うが、そこで指先の痛みが消えていることに気付く。見てみれば血が止まっている。それどころか怪我そのものが治っていた。


 よくわからないが、どうもさっきの光によって治癒したらしい。


 借りを返したつもりだろうか? 意外に義理堅い奴だ。そう思って少女の姿を探すように智貴は顔を上げて、思い切り顔をしかめた。


 何故なら智貴の視線の先には、道に落ちた焼きそばパンがあったからである。


「……やっぱ、ダメじゃねえか」


 智貴は焼きそばパンを拾って、頭をかく。それから少女が走り去っていった方をしばし見つめて、諦めたようにため息をついた。


「しゃーねーなー」


 焦って大量のパンをどこかに運んでいく地味目の少女など、どう控えめに見ても厄介事の臭いしかない。しかしわずかながらとは言え関わってしまった上に、少女は怪我を治してくれたのだ。


 腹はそれなりに減っているが、このまま拾った焼きそばパンを黙っていただくと言うのは、流石に気が引ける。


 智貴は心底けだるそうな表情を浮かべると、少女の走り去った方向へ向かって歩き出すのだった。






 *




 高等部の校舎は学園の北西の方にある、四階建ての白亜の建物だ。智貴はその最上階。屋上の入り口前に立っていた。


 智貴がやってきた理由は、言ってみればただの直感だ。


 不良といじめは、基本的に人目のつかない校舎裏か屋上と相場が決まっている。


 智貴は鼻息荒くそう決めつけると、屋上の扉に手をかけた。


 扉の横には、カードスリットとボタンのついた電子錠が設置されている。それを眺めながら扉の取っ手を回すが、鍵による抵抗など一切感じられない。やはりと言うべきか、扉の鍵は開いていた。


 智貴は静かに扉を開く。開け放たれた扉先には、金網のフェンスに囲まれた、広々としたコンクリートの床があった。そしてそこに九人の少年少女たちがいた。


 七人の少年少女が周りを囲み、中心には二人の少年と少女が立っている。なにやら言い争っているようだ。そしてその言い争っている片方の少女が、どうやら智貴の探し人のようである。


「君、一体どういう了見なんだ? 言っておいた時間に五分も遅刻した上に、焼きそばパンを買い忘れてくるなんて」

「ごめんなさい。途中で転んじゃって……で、でも焼きそばパンはちゃんと買ったんです。ただここに着いた時にはなくなっちゃってただけで……」

「俺を馬鹿にしているのか、君は。そんなでたらめを信じるわけないだろう。仮に真実だったとしても、今この場に目的の物がないなら意味はないんだよ」

「ご、ごめんなさい……」


 少女が謝ると、目の前の少年は不愉快そうに鼻を鳴らし、周りから失笑の声が上がった。


 どうやら言い争っている、という表現は正しくなかったようである。


 見ているだけで不愉快だ。智貴は自身の存在をアピールするように、勢いよく扉を閉めると、少年たちを睨みつけた。


 智貴の存在に気付いて、その場にいた全員が智貴の方を向く。


「……なんだ君は? どうやってここに入ってきた?」


 そのうち中央にいた少年が、驚愕と不愉快の入り混じった声を智貴に投げかけた。


「あん? どうもなにも普通にドアを開けてだよ」

「鍵はかけておいたはずだが……まあ、いい。なんにせよ、ここは見ての通り俺たちが使っているんだ。食事を取りたいなら他所に行ってくれないかな」

「安心しろよ。アンタらの下らない寸劇のおかげで、胸焼けして食欲なんざどこかにいったからな。お前ら凄いぜ? 俺が食欲を忘れるなんて、なかなかないことだからな」


 辟易したように智貴が胸元を擦っていると、中央に立つ少年の目が細くなる。そんな少年と対照的な反応を見せたのは相対する少女だ。


「あ、貴方なんでここに……!」

「よ、さっきぶり。落とし物を拾ったから届けに来てやったんだよ――ほれ、ご所望の焼きそばパンだ」


 智貴が持っていた焼きそばパンを投げると、中央の少年がそれを掴み取る。少年は受け取ったパンを不愉快そうに一瞥すると、後ろに控えていた別の少年にそれを放った。


「おいおい、ついさっきまでその焼きそばパンを欲しがってたんじゃないのかよ」

「気が変わったんだ。今は焼きそばパンの気分じゃない」

「随分と気分屋だな、アンタ。でもこれでソイツに文句を言う理由はなくなっただろ」


 言いながら智貴は他の少年少女たちをかき分けて、目的の少女に歩み寄る。


「よっし、これでアンタもお使いは終わりだろう? あっちで飯でも食おうぜ。ちょうどそろそろダチ的ななにかと言うか、保護者面した馬鹿と落合う手はずだから、三人で楽しい食事会としゃれこもうじゃないか」


 強引に少女の手を取って、連れ去ろうとする智貴。少女は急な展開についていけないようで、なすがままに智貴に引っ張られてついていく。しかしそんな彼らのいく手を、二人の少年が塞いでしまう。


「なんだ、テメエら?」

「それはこっちの台詞だ。一体誰の許可を得て、それを連れて行こうとしているんだい?」


 答えたのは目の前の二人では無い。後ろにいる、ついさっきまで智貴と言葉を交わしていた少年だ。


 どうやらこの少年が、この場にいる少年少女たちのリーダー格らしい。そう理解して、智貴は改めて少年を見る。


 服装は智貴と同じ、軍服に似た紺の上着とグレーのパンツ姿だが、ノリとアイロンがきっちり利いているようで智貴のそれよりパリッとしている。更に青みがかった黒髪は整髪料で整えられていた。


 フチなしの眼鏡の奥にある目元は一見すると温和そうだが、今智貴に向けられているそれは敵意に満ち満ちている。差し詰め、いきなり現れて自分勝手なことを始めた智貴が気に入らないのだろう。


 それらの見た目、態度から智貴が抱く印象は、我儘に育てられた御曹司。まさにこれだった。


「ああん? なんでこいつを連れて行くのにテメエの許可がいるんだよ? こいつはお前の持ち物なのか? 日本はいつから奴隷制を取り入れたんだ?」

「奴隷制? そんなものは必要ない。それは俺のチームメンバーで、俺はそのチームのリーダーだ。ならそれは俺の所有物と言っても過言じゃない」

「いや、過言だろ。チームメンバーはあくまでも仲間だろ。ソイツは手前の所有物じゃない。そういうのは人権侵害だぜ?」


 智貴が忌々しそうに吐き捨てるが、対して少年は馬鹿にするように鼻で笑う。


「人権? そんな上等なものがそれにあるわけないだろう。なにを言ってるんだ、君は。それは人間じゃない。化物なんだぞ? 人権って言うのは人間に与えられた権利だ。あくまでお情けで生かされているだけの化物に、人権なんてない」

「……んだと、手前」


 智貴の声が低くなる。


 正直に言えば、少年の言葉の意味は半分も理解できていない。隣の少女が化物と言われても、彼女が化物呼ばわりされる理由がわからない。普段なら逆に、智貴の方が笑い飛ばすような話である。だが智貴はそれをしない、できなかった。


 脳裏をよぎったのは自分が被った疎外の記憶。化物とさげすまれて、傷つけられた記憶だ。


 少女が何故そう呼ばれているかはわからない。だが少女がそう言われてどう感じているかは、想像がつく。


 憎悪にも似た怒りが沸く。


 こいつらはいつもそうだ。人と少し違うだけで、少し危険だと言うだけでいとも容易くそれを疎外し、傷つける。それがさも当然のことだと言うように。それが正しいとでも言うかのように。こちらの気持ちも考えないで、いたずらに傷つけてくる。


 気に入らない、気に入らない、気に入らない。


 あの目が、表情が、その言葉が。


「……随分とそれに入れ込んでいるみたいだが、ひょっとして君はあれか? それに惚れたのかい? だとしたら随分と趣味が悪い。正直その性癖を哀れに思うよ」

「テメエ……!」


 内に湧き上がった憎悪に突き動かされるがまま、智貴は少年に手を伸ばしかけ、


「止めてください!」


 少女がその腕を掴んで止めた。


 反射的に少女を見る。少女は顔を俯けていて智貴と目を合わせようとしなかったが、智貴の腕を掴む手はみじんも力が緩まない。


「止めてください。その、言いにくいんですけど……迷惑ですから、そう言うの」

「迷惑って……」

「私は私の意志であの人の……草薙さんの言う事に従っているんです。だから余計なことはしないでください。迷惑です」


 少女の言葉に智貴は愕然とする。


 智貴の主観で言えば、自分は間違ったことはしていない。悪いのはどう考えても目の前の少年の方だ。それなのに、どうしてこの少女はそんな少年を庇うような真似をするのか。ましてや、迷惑だなんて言われるとは思わなかった。


「だそうだが、色男君? 残念だったな。悪いがそれは俺にぞっこんなんだ」


 愉快そうに言いながら、少年はさっき自分で手放した焼きそばパンを手に取った。


「可哀そうな君にはこれを進呈しよう。なに、ただの餞別だ。気にすることなく受け取ってくれたまえ」


 そう言って少年は歩き出す。周りの少年少女も同様だ。


「……その、ごめんなさい。本当に」


 相変わらず智貴に目線を合わせないまま、独り言のように少女が呟く。そして智貴が助けようとした少女は、彼女を化け物扱いした少年を追いかけて走り去ってしまった。


「君のせいで俺の分の食事が減った。すぐに新しいパンを買ってきたまえ。場所は……後で連絡しよう。厄介な奴に後を追われても困るからな」

「……はい」


 扉が閉じる直前、そんなやり取りが智貴の耳に入る。了承する少女の声は、なにかを我慢するような声だった。


 そんなに辛そうなのに、何故そんなに従順なのか。


 間違っているのは確実に相手なのに、何故そんな相手を受け入れるのか。


 わけがわからない。理解できない。気に、食わない。


「……一体なんだってんだよ、クソッタレがぁ!」


 誰もいなくなった屋上で、智貴はやり場のない怒りを、怒号に変えて空に放つのだった。


 しばし叫び終わった姿勢で固まる智貴。


 十秒ほどそうしていた後、智貴は肩を落として項垂れてしまう。


「……クソッタレ」


 智貴はもう一度同じ言葉を呟く。しかし先のような力はない。あるのは戸惑いと、悲しみにも似た怒りのみ。


「本当にねー。アイツムカつくよねー」

「全くだ。あのクソ野郎が」

「いっそこと事故にでも遭えばいいのにねー。足の一本ぐらい折っちゃえばいいのに」

「それじゃあ生温い。ああいうのは、土手で犬のフン踏みつけて涙目になったところを蜂に刺されてから、アナフィラキシーショックで痙攣しながら川に転げ落ちて、溺死しそうになったところを、偶々事故ったトラックが運んでいた大量の包丁で全身を串刺しにされて、無残な死に様を晒せばいいんだ」

「アハハハハ。お兄さん、なかなか想像力逞しいね」

「ずっとボッチだったからな。想像力なら誰にも……って、ん?」


 自分は一体誰に向かって黒歴史を暴露しているのか。遅まきながら智貴はその疑問に至って、声のした方を見る。しかし見えるのは屋上の出入り口だけで、声の主は見当たらない。


「こっちこっち。上だよ、上」


 言われるがまま視線を上げるが、やはり貯水タンクしか見えない……と思っていたら、その足元から一人の少女が姿を現した。


 色素の薄い桃色の長い髪をツーサイドアップにした、さっき見た小柄な少女より更に小さな少女である。髪をくくる白いリボンが長い耳のようで、赤い瞳と相まって兎のような印象を受ける見た目だ。貯水タンクの足元から頭だけを覗かせている様も、小動物っぽい印象の一助となっている。


 珍しいピンク色の髪に、一瞬気を取られた。しかし今は些事だと気を取り直した。


「……誰だ、アンタ?」


 智貴が問うと、少女は貯水タンクから飛び降りた。着地と同時に華麗にターンすると、


「私は高等部一年D組鹿倉かぐら姫乃ひめのでっす! 以後お見知りおきを!」


 ウィンクしながらアイドルじみたポーズを取ってみせた。


「………………なんだ、お前?」


 痛すぎる登場に、智貴は意識せずげんなりした声を出してしまう。


「え? 聞こえなかった? 私は高等部一年D組」

「鹿倉姫乃だろ。聞こえてたっての。俺が聞きたかったのはそう言う意味じゃなくて……あー、やっぱいいや」


 再度ポーズを決めてみせる少女――姫乃に、智貴は諦めたように手を横に振ってみせた。どうも目の前の少女は、智貴と根本的に脳内構造が違うらしい。


「で、アンタは俺になにか用なのか?」

「用ってほど大した事じゃないんだけど……ガキ大将に正面からメンチを切った命知らずを見かけたから、声をかけてみただけ?」

「なんだそりゃ」


 呆れたように智貴は声を上げてから、そこで気付く。


「ん? アンタ、さっきの奴の事知ってるのか?」

「知ってるよ? ひょっとして教えて欲しい?」


 智貴が頷くと少女は満面の笑みを浮かべ、


「じゃあ地面に四つん這いで三回まわってワンって鳴いて、私の靴舐めてくれたら教えてあげても――――」


 その言葉を言い終わるよりも早く、智貴は少女の顔面を掴んで力を込めた。プロレスで言うところのアイアンクローである。


「ハハハ、悪いな。最近耳が遠くてよー。なんて言ったのか聞こえなかったなー」

「痛い痛い痛い! キャー! 助けてー! 頭がつぶれる! こーろーさーれーるー!」

「あん? なんだって? よく聞こえないな?」


 頭を掴む手にさらに力を込める。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 話すから許して―!」


 いよいよ涙声になってきた少女の声に、智貴は鼻を鳴らして手を離すのだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る