第一章 目が覚めると十年後(1)
*
電車に揺られながら、
そこに映るのは中肉中背の少年だ。
短い髪は一般的な日本人らしく黒。瞳は日本人らしからぬ金色の、吊り上がった三白眼だ。別に怒っているわけではないのだが、目つきのせいで他人から見ると怖いらしい。
現に今も、電車の中は混雑しているが、彼の周りだけエアポケットのように誰もいない空間が出来上がっている。
「……別に、今更気にしてるわけじゃないからいいけどよ」
本当に気にしていないならそんなことを言わないのではないか、といった思考が脳裏をよぎるが、智貴はあえて気付かない振りをした。
そんなどうでもいいことを考えていると、不意にパンツのポケットに入れていたスマホが震えだす。
嫌な予感に駆られて取り出してみれば、案の定、妹からお叱りのメールだ。
なんでそんなものが届くかと言えば、理由は簡単。智貴が、妹の買い物の付き合う約束をボイコットしたからである。
そもそもの原因は、智貴が寝坊したことに起因する。
次の日が休みなのをいいことに夜通しゲームをして、朝起きられなかったのが原因だ。そしてそんな智貴を妹が叱ったのである。
叱ったはずだったのだが、それがどう転んだのか、智貴も寝ぼけていたので記憶が定かではない。だが何故か罰として、妹の買い物に付き合うことになったのだ。
正気に戻った智貴は、そんな因果関係がよくわからない約束など守っていられるか、と妹が出かける支度をしている隙に家を出て、電車に乗り込んだ、と言う次第である。
約束した経緯が不明瞭とは言え、我ながら最低な兄であることは間違いない。
妹が怒るのも当然だ。
しかし今はなにを言っても無駄だろう。冷静に戻った頃にこちらからメールを送ろう、ひょっとしたら菓子折りぐらいは付けた方がいいかもしれない……ひょっとして買い物付き合うより高くつくのではないだろうか。智貴は内心で首を傾げつつスマホをしまった。
妹の事より、今はとにかく食事である。
今朝。もとい昼はそんなゴタゴタのせいで、食事を取っていないのだ。しかも昨夜も、ゲームに夢中になっていたのでろくなものは食べていない。つまり現状、智貴はかなりの空腹に苛まれていた。だがだからと言って適当な店で食事を済ますと言うのも味気ない。
五秒ほど悩んで智貴は以下の結論を出す。
家を出たついでに、新宿にあるお気に入りのラーメン屋に行こう。そこで大盛りのとんこつラーメンに煮卵をダブル、更にチャーシューをトッピングして食べよう。それで足りなければ替え玉を追加で頼むのもやぶさかではない。
智貴がラーメンに並々ならぬ想いを馳せていると、丁度電車が新宿に到着する。
さあ、いざ出陣だ。智貴は期待に胸を躍らせながら電車を出て、しかし思いもよらぬ光景を目にしてその足を止めてしまう。
なにが見えたのか、簡潔に答えるとこうだ。
狂ったような虹色の空に、爆撃でも受けたかのようなボロボロの廃墟群――日本の首都たる東京が、智貴の目の前で滅んでいた。
*
電車から出た途端、智貴の視界に映ったのは廃墟になった街並みだった。
なにを言っているのかわからないと思うが、智貴もなにが起きたのかわからない。
とりあえず後ろを振り向いてみれば、そこに智貴を乗せてきたはずの電車はおろか、駅のホームすらなくなっていた。あるのはボロボロになった大きな道路と、乗り捨てられて数年放置されたとしか思えない廃車だけである。
どうして街が廃墟になっているのか。どうして電車から降りたのに道路の上にいるのか。更に空が虹色をしているのは何故なのか。そもそもここはどこなのか。
一瞬、異世界召喚と言う単語が脳裏をよぎる。
まさか自分も異世界に召喚されたのか、と智貴は期待とも困惑ともつかない謎の鼓動に胸を躍らせるが、直ぐにそれはなさそうだと思い直す。
「あれは……東京タワー?」
その他にもモスバーガーや、寺と言った見覚えのある建物の廃墟がそこらに見える。しかもそれらの配置は智貴のよく知る場所のそれと合致する。
「じゃあここは港区……?」
廃墟化してしまっていて大分印象は異なるが、あれだけ目立つ建物はそうない。ならばここはやはり港区なのだろう。
つまりここは異世界ではなく、智貴の知る日本の首都、東京都なのだろうか?
疑問形なのは智貴の知る東京の空は虹色ではないからだ。それにそもそも智貴は港区にはいなかった。
新宿に来たはずが港区に、それも廃墟と化したそこにいることが理解できない。
智貴は改めて周りを見渡す。
そうして周りに見えるのは廃墟や廃車、あるいはそれを覆うように生えた植物ばかりで、人間の姿は見当たらない。
いや、廃墟化しているから人がいないのも頷けるが、ならば何故港区は廃墟と化してしまったのか。
最初の疑問に戻ってきて、智貴は思わず頭を抱えてしまう。
しかしいつまでもこうしていてはいられない。とにかくなにかしら行動を起こさなければ始まらないのだ。
わずかに考えてから、智貴はパンツのポケットからスマホを取り出す。
一も二もなく、まずすべきは目的地のラーメン屋が残っているか……ではなく、家族への連絡だろう。
特に妹とは喧嘩別れをしたような状態だ。これでなにかあったとなれば、死んでも死にきれない。
「ラーメンタイマーじゃなくて、俺が今欲しいのは……」
焦っているせいか、誤って開いてしまったアプリを閉じてから、電話帳を呼び出す。そして妹に電話をかけた。
『―――――――――』
しかし聞こえてくるのは完全に一定な電子音のみ。怪訝に思ってスマホの画面を見てみれば、「圏外」の表示が出ている。
「……そりゃあ、廃墟化してたらスマホの無線基地局も使えないよな」
妙に冷静になった智貴は、げんなりして肩を落とした。
なんにせよ、ここにとどまっていてもいいことはなさそうである。
人のいるところか、スマホの使える場所にまで移動したいところだ。
しかし、どうやらその判断は少々遅かったらしい。不気味な音が聞こえて来て、智貴は後ろを振り返る。
見える物は朽ちた道路の交差点に廃墟群。そして今やプランター代わりの廃車。そしてもう一つ。
それは廃墟の物陰から現れた。
鱗に覆われたホースのように長い胴体。三角形の頭から長い舌をチロチロと出し入れしながら現れたそれは、一見すると蛇に似ていた。だが普通の蛇とは似ても似つかないところが三点あった。
一つ目は蛇にはない大量の節足が胴の横に生えていること。二つ目は頭の両側面と、その真ん中に計三つの瞳があること。そして三つ目、その大きさが人を丸のみにできそうなぐらいに大きいことだ。
見るからに凶悪な化け物が、そこにいた。
化物の目がこちらを捉える。瞬間、背に悪寒が走った。悪寒が脳に達した瞬間、智貴は脱兎の如く走り出す。
あれはやばい、と智貴の直感が告げている。いや直感がどうのと言う以前に、あんな生理的嫌悪感の塊のような化け物の傍には一秒だって長くいたくない。
だがやはりと言うべきか、逃げ出した智貴を蛇の化物は見過ごしてはくれなかった。
「ガラララッララッラララララッララララ!」
不快な音が迫ってくる。振り返るまでもなく、さっきの化物が智貴を追いかけてきているのだろう。
とにかく今は逃げるしかない。しかし蛇の化物はどうも智貴よりも足が速いらしい。確実に音が迫ってくるのを感じて、智貴は冷や汗が流れるのを感じた。イチかバチか、と智貴は近くにあった廃車に向かって走り出す。
そしていざ智貴に食らいつこうと蛇が大口を開けた瞬間、智貴は今出せる最大速度で跳躍した。
そのボンネットを転がるように車を乗り越えて道路に着地。そしてそのまま走り出す。直後、智貴を捉えるはずだった蛇の牙が廃車に突き刺さった。
蛇が牙を抜こうとジタバタあがく。それをしり目に確認して、智貴は思わず速度を緩め、そして足を止めてしまう。
後ろの化物が蛇に似ているなら、新たに現れたそれはワニとそして人に似た形状をしていた。
頭と尾がワニで、他の部分が人のそれに似ている。ただし全身は黒いウロコで覆われており、両手には巨大なかぎ爪が備わっている。大きさは蛇より小さいものの、それでも智貴に比べるとはるかに大きい。
「はぁ?」
思わず頓狂な声を上げて立ち止まってしまう智貴。その声で興味を持った、と言うわけではないだろうが、ワニ頭の化物が智貴に向く。そしてご馳走を見つけたとばかりに舌なめずりをしてみせた。
更に背後には廃車から牙を抜いて自由になった蛇の化物が追い付いてくる。
絶体絶命。まさに生きた心地のしない現状に、智貴は頬を引きつらせるのだった。
*
化物に板挟みにされてから五分後、智貴は近くの廃墟に潜んでいた。
今も五体満足でいられるのは、全くもって運がよかったと言わざるを得ない。
どうして無事でいられたかと言えば、二匹の化物と遭遇した後、その化物二匹が喧嘩(と言うか殺し合い?)を始めたからだ。原因はおそらく智貴である。
つまり智貴を取り合って、二匹の化物は争い出したのだ。
これが化物ではなく美少女二人が智貴を取り合っているのなら、嬉しいハプニングと言ってもいい……いや、やっぱり美少女でも自分を食料として取り合うのであれば勘弁して欲しいと思い直す。
とにかく二匹が盛大に争い出した隙に智貴はその場を脱し、今に至る。
とりあえず安全圏まで脱したことを確認して、智貴は全身を弛緩させる。そこで自分が予想以上に疲れていたことに気が付いた。ずるずると背中を壁にこすりつけるようにして腰を下ろす。更に床に手をついたところで、掌に紙の感触があった。
視線を向けると、そこには見覚えのあるゴミが転がっている。
ボロボロになってところどころに穴が開いているが間違いない。新聞紙だ。
智貴はそれをなにげなく手に取って、目を見開く。新聞の発行日時が2030年の三月になっていたからである。
「なんだよ、これ……?」
智貴の記憶が確かなら、今日は2022年の五月だったはずだ(細かい日付までは覚えていない)。ならばこの新聞の日付はどういうことなのか。未来から過去に向かって送られてきたのか。はたまた誰かが作った冗談の産物か。……それとも智貴の方が未来にやって来たのか。
仮に最後の仮説が正しいのだとすれば、しかし街が廃墟化しているのも頷ける。
それでも虹色の空や、化物が廃墟にはびこっている理由、智貴がどうやって時間を超えたのかはわからないが。
なにが起きたのかはわかってきたが、しかしその原因や過程はわからないままだ。
再び混乱してきた智貴は再び頭を抱えようとして、そこで腹の虫が鳴る。
「……そう言えば、今日はまだ飯を食ってないんだったな」
思い出した途端、悩んでいたことが馬鹿らしくなってくる。
このままいけば空腹で動けなくなる。
家族のことは気になるが、智貴の推測が正しいならここが廃墟化してから数年が経っているはずだ。それだけの時間が経っているなら、東京にいた人間は既に安全なところに避難している、と考えるのが妥当だろう。
そうでないケースも考えられるが、そのケースの末路は……考えても仕方ないし、考えたくもない。
とにかく智貴は余計なことを考えるのを止めて、食料を確保する方法を考える。
思いつく方法は二つ。
一つはこの廃墟内で食べられるものを探す。
もう一つは人がいると思われる安全圏まで行くか、だ。
前者は現実味がなく、後者は確証がない。
「……でもそこは、信じることにしたばっかなんだよなぁ」
人間が無事であるとは限らない。だが無事であって欲しい、そう願う。信じている。
ならば、取る選択肢は一つしかない。智貴は大きく一息ついてから立ち上がった。
もちろん、廃墟内の探索をするためではない。この廃墟から出るためである。
「避難するなら学校か……?」
どだい適当に決めた行先だが、下手に悩むよりはましだろう。
智貴はそう決めると、いざ歩き出そうとした。しかしそれを阻むように蛇の化物が壁を突き破って、再び智貴の前に現れた。
「……あー、そう言えば蛇って結構鼻がいいんだったか……てか、もう一匹の化物と戦ってたんじゃ」
ワニ頭の化物と戦っていたから、智貴を追うどころではなかったのではないか。
そんな智貴は半分正しく、しかしもう半分は正しくなかったようだ。
蛇の体は赤黒く染まっているが、どうやらそれは蛇自身の血と言うわけではないようだ。壁に開いた穴にかすかに視線を向けてみれば、頭のなくなった元ワニ頭の化物が、道路の上に転がっている。
つまり、蛇の化物は競争相手を殺すことに成功したから、こうして智貴の追跡を再開した、と言う事らしい。
一度視界から消えれば撒くのは簡単と思っていたが、どうやらそれは智貴の勘違いだったようだ。
「できれば話し合いによる交渉がしたいなー、とか思うんですが……」
ダメ元で声をかけてみるが、返ってくるのは威嚇のようなが「ガララララ」と言う音だった。
蛇が襲い掛かってくる予兆を感じて、智貴は死ぬ気で横に跳んで回避する。
しかしさっきの廃車の時のようなへまを、蛇の化物はしない。壁に突っ込んだ蛇は噛みついた壁材を噛み砕くと、即座に智貴に向き直った。だが蛇が智貴に襲い掛かることはない。
何故ならその直前、智貴が取り出したスマホのシャッターを連続で切ったからだ。
蛇の目はあまりよくないらしい。それでも暗がりの中で強い光を浴びせかけられれば、怯まずにはいられない。
のたうち回る蛇。そんな蛇の隙を突いて、智貴は外へ飛び出した。
わずかに遅れて蛇の化物も壁を壊して追いかけてくる。予想はできていたことだが、しかしだからと言って対応策があるわけではない。
せめて鉄パイプの一本でも転がっていれば多少は違ったのかもしれないが、しかし今のところ智貴の視界にそういった物は映らない。つまり今は全力で逃げるしかないと言うことだ。
なにかいい案はないだろうか。走りながら智貴がそんなことを考えていると、不意に視界の隅でなにかが煌く。
本能が、直感が警鐘を鳴らす。それは後ろから迫っている物より危険だと。
意思、と言うよりも生存本能がそれに反応した。ほぼ意識することなく、神経の奥深くにまで染みついた経験がその攻撃を避けてみせた。
それは文字通り槍の雨だった。
少なく見積もって五十。それだけの槍がまるで智貴たちを狙ったかのように降り注いできたのである。直後、槍が地面を穿つ音が、爆発音のように轟く。
踊るように華麗に、とは言わないものの、曲芸のような動きで智貴はかろうじて槍の雨を回避してみせた。しかし後ろの蛇はそうもいかない。なにせ降り注ぐ槍に気付いていなかった上に、智貴よりもはるかに巨大な図体をしているのだ。
結果、全身を槍で貫かれて、蛇の化物は昆虫標本のように無残な最期を遂げたのだった。
「た、助かった……」
奇妙な体勢のまま、蛇が動かなくなったのを確認して、智貴は大きく息をついた。
ひどく手こずらされた蛇の化物だったが、どうやら全身を貫かれてまで活動はできないらしい。これで蛇のことはもう気にしなくもいいだろう。
しかし今のはなんだったのか。槍の隙間を縫うように這い出して、智貴は思う。
周りを見渡してみれば、槍が降り注いだのは蛇の化物がいたところと、その周辺のみ。まるで狙いすましたかのような局地的な雨である。いや、そもそも槍の雨が降ること自体で異常なのだが。
それにさっきのは蛇だけを狙ったと言うよりは、むしろ智貴も巻き込もうとしたような――――
「避けたわね」
そんな智貴の危惧を肯定するように、鋭い声が空から響いた。智貴は反射的に声のした方を見上げ、息を飲んだ。
廃墟の屋上に、その少女はいた。
スラリとした長身を包むのは、軍将校の制服に似た紺色のブレザーに、白のプリーツスカート。風にさらされる長い髪は太陽のような金色で美しい。エメラルドグリーンの瞳は警戒するように鋭く智貴に向けられているが、そんな敵意にも似た瞳や、美しい金髪よりも目立つ特徴が彼女にはあった。それは両耳に当てられた黒のヘッドホンである。メカメカしくていかつい、音楽を聴くための物、と言うより、兜やヘルメットのように見える。
そしてそんなヘッドホンと同じぐらいに目を引くのが、少女の周りを旋回する槍だ。先端を外に向けて、威嚇するように時計回りで飛翔しているそれは、先刻蛇を屠ったそれと同一のものだ。
詳しい原理こそ不明だが、状況から見るにさっきの蛇を屠った攻撃は、この少女が行ったものなのだろう。
「直感通り……アナタ、人間じゃないわね。なら悪いけど、この場で死んでもらうわ」
さっき蛇の化物ごと智貴を殺そうとした犯人は、どうやらこの少女であるらしい。智貴はそれを理解して、再び、いやさっきよりも強く頬を引きつらせた。
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