第一話 : 星の間から戻った<鯨> (1)

 目の前に<鯨>がいる。


 身長が高く、肩幅が広い。脚が長く、肩は若干なで肩だ――青と白からなる縦縞模様ストライプのフランネルシャツは、細かく刻んだ波濤をつなぎ合わせて作ったみたいに見える。脚はすらりと伸びて長く、両足は外に向かって開いている。彼は時々、地面の感触を確かめるかのように、爪先を上げ、下ろす。トントン、と音がなる。もう一度――トン、トン。ひょっとすると踊り出したいのかもしれなかったが、それにはまだ酔いが足りないに違いない(そうとも――再会してから、まだそれほど時間は立っていない)。

 地面の感触に、あるいは、自分が二本脚で立っていることに納得がいかないような面持ちで――彼は前髪をすくい上げ、くしゃくしゃとやる。広い額が現れるが、すぐに黒い巻き毛が降りてくる。もうしばらく切っていなかったらしい。学生時代は常に短髪だったから、長髪の姿にはまだ慣れない。無造作な髪型でも不潔には見えないのは、一重に彼の雰囲気のせいだろう。

 気品というのが彼にはある。貴族的。住んでいる時代が異なっているのだ。彼を目の前にすると、伝統とか宮廷に投げ込まれるような気がするーーつまり、彼の世界観、劇場、舞台セットの中に置かれてしまう。

 彼は、相手をその気にさせる。

 彼の視線の前には、何者も抗うことはできない。彼が何かを強制するわけではないが、誰だってその目に――冥界の鏡のような深い黒の瞳に――見つめられてしまえば、フラっと所属する世界を間違える。彼の醸し出す神秘的な雰囲気に当てられて、彼の態度アティチュードに感応し、気がつくと舞台上に立っている。それでも、そのことには気づかない。ただ安らかな気持ちになる。悩みや問題を忘れ、ただ彼と一緒に泳ぐだけだ(それとも彼の作り出す流れに、ただ流されているだけかもしれない――そうでなければ、どうやって彼と同じ速度で泳げるというのだろう?)。

 <鯨> は、地上に生きる人の体に慣れないらしい。どうにも目にかかる髪が邪魔そうだ。彼は「フウッ」と息を吹き上げる。ホンモノのクジラが、かつてそうしたと言われているように。呼気は彼の黒い前髪を押し上げて、その先で白い空気に代わり、夜空の方角に線を引き、やがてネオンサインに散らされる。

 ネオンサイン――「カラオケ」とか「精力増強」とか「飲み放題」などと書かれている。メッセージにしてはあまりに内容に乏しく、あまりに宙に浮いている。誰かに向けて書かれた言葉ではない。強いて言うなら、それは都市の人々に向けての言葉だろうが、真剣に捉える人は誰もいない。空洞の言葉――ブイみたいなものだ。僕らに必要なのは浮上というサービスであり、ブイの名前はどうでも良い。そこを気にすると沈んでしまう。沈んでしまっては元も子もない。ドラマはなく、機能だけがぶら下がっている。都市はそのように運営される。

 そして、僕は今、<鯨>の平面上にいる。海やネオンや都市のことを考えることを凍結して、僕は目の前の男に意識を集中する。

 <鯨>の声が聞こえてくる。

「そういえばさーー」と彼は言う。「お前、最近なにしてんの?」

 彼は大きなジョッキを空にして、代わりのビールを頼むべく、すらりとした腕をあげる。

「何してるんだろうな」

 僕は言いながら、小鉢のエビを突く。茹でエビとセロリのマリネとか言っていた。オリーブのスライスも入っているみたいだ。ビネガーが効いている。一口食べて、ビールを流し込む。そういうことをずっと続けている。小さなサイクルではあるが、自分で作った工程を繰り返していると、安心する。

 おそらく美味しいのだと思う。僕の方は飛び上がるほどではなかったが、<鯨>は感動のあまり二杯も三杯も頼んでいる。彼がそれほど喜ぶからには、きっとこれは信じられないほど美味しいに違いない。そして、それだけわかれば十分だった。この食材が、実は人工的に合成されたものだという事実は、そんなに重要じゃない。

 ビールが届く。僕はまだ飲み終わっていなかったが、そんなことを気にする<鯨>ではない。僕のジョッキが空いていないなら、彼は自分で二杯飲む。そういう奴だ。

「乾杯!」

 彼は大声で叫ぶ。辺りの視線が集まるが、僕らは気にしない。

 僕は飲みさしのジョッキを持ち上げる。グラスをぶつけ、そして飲む。

「ところで何に乾杯したんだ」と僕は尋ねる。

「そりゃあお前――」彼は一杯目のジョッキを飲み干し「ティグリスと――」次いで、二杯目「ユーフラテスに――」これもするすると飲み干す。まるで人生の全ての快楽がその一杯に詰まっているかのように、彼は感動に震える。もうこれで何杯目だ? 覚えていない。しかし彼は全くと言っていいほど、酔っていない。「――だろうが」

「うん」

 空のジョッキをカンマに使われたのは久しぶりだったので、僕は彼の言葉を理解し損ねた。

「もう一度言って」

「また乾杯するのか? じゃあ頼まねぇと……お前の分は?」

「僕は要らない」まだビールは残っている。「ただ、他のも食べたいよなーーメニュー取って」

「あいよ。――あ、お姉さん、ビールと……」

 串料理を何点か頼み、僕らは小鉢とフライドポテトの山に向き直る。ここのフライドポテトは美味しい。これは単に好みの話だ。ほとんどが人造食材だとしても、美味いものは美味いし、好きなものは好きだ。

「なんの話だった?」唐突にポテトから解放された彼が、僕に問う。それは霜柱を踏むのに夢中になっていた子犬が、ふと顔をあげるような表情に似ている。

「ティグリスとユーフラテス」僕はポテトで忙しい。

「そうそう、<船>の話だ――シヴィライザ二連船メソポタミィ……」

 うっとりしたような声で彼は言うが、それは果たしてフライドポテトの油とバターによるものか、それとも本当にそう思っているのか、僕には判別がつかない。そしてそれはどうでもいい。

 とにかく、彼が、僕らの住んでいる都市の名前を発したのは確かだ。

 シヴィライザ・二連船・メソポタミィ。

 人類が母なる故郷を捨て、宇宙放浪の旅に出たのはかなり昔のことだ。曰く、かつて僕らの祖先は、たった一つの惑星に住んでいた。曰く、それは緑豊かな水の星(どういう意味だ? 蓮の上にでも住んでいたのだろうか)であった。しかし、その惑星がもはや居住に適さなくなったので、祖先は次の惑星を探す旅に出た。結局は、長い宇宙放浪の果てに、今僕らのいる惑星にたどり着いたわけだが、ここが本当に適当な惑星であるかはまだわかっていない。目下、学者達が研究調査中――というのが僕らの現代史だ。

 <シヴィライザ>というのは、宇宙放浪時代には大型宇宙船のことであったという。立派な推進機構を備え、星々の間をかっ飛ばした。新しい惑星に腰を据えてからは、意味も少し変わり(あるいは元々の意味を取り戻し)、それは<都市そのもの>を示す。<二連船メソポタミィ>が、<都市名>つまり<僕らのいる街の名前>だ。人で言うならば、<シヴィライザ>に相当するのが<人類>で、<二連船メソポタミィ>に相当するのが、<鯨>とか<僕>ということになる。

 <二連船>というのは、つまり僕たちの都市がどういう形をしているかを示す。足の短いアルファベットのHのような形だ。二つの船体の内側に僕らは住んでいる。僕らは都市の細胞であり、あるいは電気信号だ。難しいことはわからないが、とにかくこの船を通うものである。

 とはいえ、

「街に乾杯ねぇ」と僕は言わずにはいられない。

 自分たちの住んでいる街に乾杯すること。

 そもそも僕らは、どうして乾杯をするのだろうか。大きなジョッキに並々と注がれたビールを見ると、持ち上げたい衝動に駆られる。これは習慣の結果だろうか。それとも……パブロフの犬の説話を僕は思い出す。あれは確か、解釈としては「ひとは知らず知らずのうちに習慣づけられているものだから、そのことに気をつけなさい」というものだった。

 耳すませば、聞こえてくるのは周囲の人々の歓談する声と、食器のすれ合う音だ。店員のローラーブレードが滑走する音、ジョッキ同士が頭をぶつけ合う音も聞こえている。パキケファロサウルスの決闘のように(パキケファロサウルスは、本当に頭突きをしたのだろうか。僕が幼い頃に見た古い恐竜図鑑にはそう書かれていた。その後の研究でどういう解釈が正統とされたのか、僕は追っていない)。

 乾杯、乾杯と、それぞれが何かに対して(それとも対象なるものが本当にあるのだろうか)盃を掲げている。”乾杯!”――ベルが目の前に出されて「押してみなさい」と言われたようなものだ。

 特定の波形を耳にすると、僕の口内に唾液が湧く。餌は出ない。そこでようやく、僕はベルを鳴らすとヨダレが出るようになっている自分に気づく――それはどんな気分だろう。少なくとも、ショックであることは間違いない。やがては、餌を見る度に頭の中でベルが鳴るようになる。”ごはんですよ!”――”ジリリリリリン!”――これは、控えめに言っても、悪夢だ。

 そして悪夢は半分現実になっている。僕は”乾杯!”という声、グラスのぶつかる音を聞くと、無性にビールが飲みたくなる。これが習慣づけの成果なのだとしたら、いつ博士は満足するのだろう。世界中のビールを飲み干すまでか。(無数にありうる<変奏的人間>の一人、パブロフ博士はビール会社に雇われ、シェア拡大のために<電波塔>を用いて全国民をビール好きあるいは乾杯嗜好症にするよう依頼された。この特定の音声に対応して特定の行動を起こさせることを、俗にパブロファイズと呼び――)

 いや、いい、博士のことなどはどうでも良い。僕はまた連想の網に囚われている。

 <鯨>の話だ。

 ティグリスとユーフラテスに、と<鯨>は明言した。

 都市に対して乾杯する気持ちが、僕にはすぐにわからなかった。僕は今までそうしたことがなかったし、他の人がそうするのも聞いたこともない。地元のフットボールチームを讃えるときに、「ティグリス!」と叫んだりすることはある。しかし、両方を並べて乾杯することはほとんどない。

 しかし彼はそうした。

 なぜだろう、と僕は思った。

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