マジで怖いゾーン



 尻尾巻いて逃げ出したいのはやまやまだったが、おれはそこまで恥知らずではなかったらしい。

 突然のイベント戦に心は追いついていないが、なんとか気合を入れた。

 両手に剣を握り、山羊頭との戦いの場に踏み込んだ。


「――ッ」


 訳も分からず、背筋がぞくりと震える。脚から力が抜けそうになる。歯がかみ合わない。


 ――怖い。


 なぜなのかは分からない。ただただ、恐怖だけがこみ上げてくる。ぞっとするほどの冷気が足元から立ち上ってくる。心臓が暴れるように鼓動し、息を吸うことすらままならない。


 山羊頭が上半身を捩じり、大鎌を構えている。

 避けなければ。

 頭ではそう思った。

 しかし体は動かなかった。


 ただぼんやりと立ち尽くして、山羊頭がそれを振り下ろすところを眺めていることしかできない。

 ――死ぬ。

 

「……っ!」


 突き飛ばされた。

 ぎりぎり眼前を、風が通り抜けた。山羊頭の大鎌だ。地を這うように振り抜かれた大鎌が、山羊頭の頭上高くで静止していた。


 そこでようやく体に自由が戻る。肺に酸素が回る。まるで白昼夢を見ていたかのように、おれは目を覚ました。


「わるい、助かった」

「……」


 瀬戸際で突き飛ばしてくれたノッポに礼を言う。ノッポは何も言わなかった。おれの肩を叩き、再び山羊頭に挑んでいった。

 右腕からは出血していた。

 おれを庇って、怪我をしていた。

 歯をかみしめる。なに呆けてんだよ、おい!


「無事か?」


 デブが戦いから抜け出て、おれに話しかけた。荒い呼吸を整えようとしているようだった。


「……ビビってた」

「ははっ、そりゃしょうがねえよ。高位の【魔】には【死の領域】っつーもんがあるんだ。心を強く持たねえと、体が動かなくなる。俺たちは専門用語で【マジで怖いゾーン】と呼んでるけどな」

「ばかなの?」

「うるせ。いいか、あの恐怖には慣れるしかない」


 デブがおれを見た。真剣な顔だった。


「死にたくないなら引っ込んでろ。早く逃げろ。だが、もし戦おうなんて考えてるなら――」


 デブが笑って見せた。


「俺のようになれ。筋肉は心を守ってくれる」


 ――は?

 それだけ言い残して、デブは再び戦いに戻った。


 え、いや、は?

 冗談なの? 本気なの?


 分かりづれぇんだよ……。

 けれど、強張っていた体から力が抜けたのは確かだった。


 三人は縦横無尽という言葉のように、山羊頭と戦っていた。ダメージらしいダメージがあるようには見えなかった。それでも、戦っていた。

 おれは深呼吸をして、それから歯の間に舌を挟んだ。

 こわい。こわいけど、行く。

 ビビりのまま終われるかよ。


 まるで長縄飛びの順番を待つように、三人の動きの余白を探した。ノッポが後ろに下がったタイミングで、おれは戦いの輪に飛び込んだ。


 ――恐怖。


 体が重くなる。心臓が跳ね上がる。ただただ、怖いという思いだけが頭を埋め尽くす。

 おれは舌を噛む歯に力を込めた。

 痛みが頭を支配する。恐怖よりも、痛みが神経を駆け巡る。体が動きを取り戻した。


 大きく2歩踏み込んで、山羊頭の足元に入り込む。腰を捻り、思い切り柄を握る。ぱきりと、何かが割れる音が聞こえる。


「っっらぁぁぁあああ!」


 その足首に剣を叩きつけた。ただ全力で、ただ一心に。

 手ごたえはあった。骨にぶつかった瞬間、剣は粉々に砕け散った。山羊頭の足はダルマ落としのように跳ね飛ばされ、その場にどしりと倒れ伏す。


「――やるじゃねーか馬鹿力!」


 デブが叫び、地に付した山羊頭の、その頭蓋骨へ剣を振った。


「頭を狙え! 核はその中だ! 頭さえ切り離せば――」


 おれも駆け寄ろうとしたが、それよりも山羊頭が吠えるのが早かった。まるで狼の遠吠えのように。しかしその鳴き声は、おぞましい金切り声だった。音そのものが質量を持っておれを押し飛ばした。


「衝撃破!? 卑怯だろっ」


 体制を立て直す頃には、山羊頭もまた立ち上がっている。足首に目をやるが、骨はぴんぴんとしていた。傷跡すら見えなかった。

 しっかりカルシウムをとっているらしい。


「素晴らしい。まさに圧倒的な力だ。これこそ! これこそが! 私の望んでいたものだ!」


 大司教が大声で笑いながら言った。本当にうれしそうで、本当に楽しそうだ。イラつきしか感じなかった。

 大鎌をぐるぐると回す山羊頭と、向かい合う。


「……あのおっさんを倒したらどうにかなったりしない?」


 よくあるパターンだと思うんだけど。

 しかしエリーゼは首を振った。


「下級ならそれでも良いのですが、あのレベルになるとほぼ自律しています。術者を倒したところで、どうにもならないでしょうね」

「……さいあく」


 今まで、ファンタジーの猛獣とは数多く戦ってきた。

 翼の生えたライオンやら、足の長いサイやら、ドラゴンやらだ。


 おれはいつだって怖かった。だってそうだろ? おれはずっと平和にアホ面さらして生きてきたんだ。急に英雄ごっこができるわけもない。


 それでもやってこれたのは、この体が頑丈だってことが分かったからだ。

 どんな猛獣の牙も、爪も、吐かれた炎も、この体には傷一つつけられない。


 けれど、体がいくら強くなったって。

 おれの心は、急には強くはならないんすよね。


 ホラー映画は苦手だった。

 深夜の帰り道は駆け足だった。

 あの山羊頭の攻撃だって、たぶん、平気だろう。


 でも、怖いもんは、怖い。

 理由もなく、死の恐怖がぞくぞくと背筋を駆け上がっている。

 おまけに攻撃が効かない。剣で殴っても、傷一つつきやしない。

 三人が山羊頭と戦っている。

 おれは深く息を吸う。


「――よし」


 認めた。おれはびびってるってことを充分に認めたし、恐怖に体を任せてやった。

 だから、泣き言をはくのはここまでだ。

 残った剣を鞘に納める。どうせ折れるだけだ。

 拳を握る。力を込める。


 行こう。

 力を込めて足を踏み込み、二歩目で跳んだ。

 一瞬で視界が流れ、眼前に羊頭がいる。おれは思い切り腕をひく。


「チート舐めんなくそったれぇぇっ!」


 山羊頭の顔を、全力で振りぬいた。拳に衝撃。山羊頭が吹っ飛んだのを見ながら、おれは落ちた。

 どてっ。ごろごろ。

 ……着地に失敗すると、恰好、つかないよね……。


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