カッコつかない夜の途中
動き出そうとしていた足を無理やり止めて、デブたちの背後に目線をやる。暗闇の中を、誰かが歩いてくる。
いつの間にか頭の中の熱は引いていた。
デブは瞬時に体を反転させた。ノッポは気にしたそぶりもなく、おれを見つめている。だというのに、グラシアさんが駆け寄ってきて、おれの前に立った。
「今のうちにお逃げ下さい」
「……はい?」
なにをいきなり?
「彼らの狙いはどうやら私のようです。あなたを巻き込んでしまったことを、申し訳なく思います……どうか、今のうちに」
おれは肩の力がどっと抜けるのを感じた。
なんでおれの方が心配されてんの?
あれ?
おれが助けに来たっていう構図のはずじゃなかった?
グラシアさんの気遣いが嬉しくもあり、しかしそれよりもただ、情けなかった。
――ビビった。ああ、認めよう。おれはマジでビビってた。
おれは深く深呼吸をしてから、無理やり顔に笑みを浮かべた。思い切り頬を吊り上げ、気持ち悪いくらいに笑った。
「なに言ってんすかグラシアさん。男は逃げられないんですよ。逃げちゃいけないんです。そういう生き物なんです。少なくとも、そう挑み続けなきゃいけないもんです」
グラシアさんは、我がままを言う子どもを見つめるようにおれを見た。
ノッポはなにも言わず、デブは新しい闖入者と対峙していて、返事をくれたのはその闖入者だった。
「その心意気、お見事です。状況は分かりかねますが――私の母を守ろうとしてくれたこと、感謝致します」
「……母?」
月にかかっていた厚い雲が流れ、闖入者の足元を光が照らしていく。
白い外套に包まれた体、そして、ひとつの三つ編みに結われて、胸の前に垂らされている灰色の髪。揺ぎ無く、この場を眺める切れ長の瞳。
「エリーゼ!?」
グラシアさんが言った。
エリーゼ? ピアノ曲みたいな名前だな。場違いにも甚だしいが、そんなことを思った。
「エリーゼ……おいおい、まさか」
デブがぼそりと呟いた。呆れたような声音だった。
ノッポですら、ぴくりと眉を動かした。
「ノクトの聖堂騎士――エリーゼ・クラストスなんて、言わねえよな?」
デブが笑いながら言った。
「少々違いますね」
あっさりと応えて、エリーゼは口元だけに笑みを浮かべた。
「聖堂騎士のエリーゼは休暇中です。今の私は、ただのエリーゼです。シスター・グラシアに拾われ、神の家で育ち、そして今、再び家に帰ってきただけの人間です。――それで」
外套の隙間から、エリーゼの腕が伸ばされた。
その手には、白銀の輝きを放つ柄が握られていた。
「母を狙い、我が家を脅かすあなた方は、どこの騎士でしょうか」
きぃんと、冬の朝の訪れのような澄んだ音と共に、青い光が伸びた。
マジかよ。
「……あのエリーゼに会えるとは、泣けるぜ」
「魔力剣は聖堂騎士の証。赤い魔力光となると、ヴェッキオ派ですか?」
「さてねえ」
歩き出したエリーゼに、デブが身構えた。
おれはそっとグラシアさんを下がらせた。
「危ないですから、そこにいてくださいね」
「ですが、エリーゼがっ」
「大丈夫ですよ」
「は、はあ」
そわそわと落ち着かない彼女を置いて、おれはノッポと向き合う。
デブが駆け出すのに合わせて、ノッポもまたおれに向かってきた。
振り下ろしの一撃。剣で合わせる。すぐさま、逆の刃が掬いあげるように振られた。体を反らし、今度はおれが剣を振る。受け流され、胴体に蹴りが飛んできた。
おれは構わず踏み込んだ。衝撃。しかし痛みはない。
さらに一歩、前へ。
ノッポが魔力剣でおれの首を狙い――おれは、覚悟を決めて、それをつかみ取った。
「――っ!」
「たまげたろ?」
おれもびっくりした。
魔力光はほのかに暖かく、どことなく柔らかく――それだけだった。痛みもなければ、指が切り落とされることもない。びびって損したわ!
驚愕しているノッポの隙をついて、その鳩尾に剣の柄頭を叩き込んだ。体をくの字に折ったその首元に、もう一度、柄頭を叩き込む。
地面に叩きつけられたノッポは、そのまま起き上がってはこなかった。一応、息を確認してみたが、大丈夫、生きてた。
安心してデブの方を見れば、そちらもあっさりと勝負がついていた。
デブの首元に青く輝く剣先が付きつけられている。
「そちらも片付いたのですね。お見事です」
「あ、はい……」
事も無げに言われて、おれはうなずいた。エリーゼは息一つ乱した様子もなく、余裕という言葉しか見当たらなかった。何モンだこの人。
「あーあ、ついてねえなまったく」
デブが赤い光を収め、柄をぽいっと投げ捨てた。
「なぜこの家を、母を狙ったのですか?」
エリーゼが言う。
「……分かってんだろう? 命令だよ」
「誰の命令です?」
「答えると思うか?」
エリーゼは無言で魔力剣を近づけた。
「野蛮だねえ」
「そう褒めないでください。照れます」
顔は無表情だった。少しも照れていなかった。わりとこの人もやばい人だった。さらにぐっと魔力剣を押し付けようとしている。
「わかったわかった! 言うからその剣を下げろって」
エリーゼがすっと剣を引くと、デブは首を確かめるように手のひらで撫でた。
「俺らの雇い主は――パッツィ大司教だよ」
「……そんな」
思わず言葉を漏らしたのはグラシアさんだった。口元を手で押さえていた。
「最近、この街の大聖堂へ着任した男ですね。……なぜ、そんな命令を?」
エリーゼの問いに、デブは肩をすくめた。
「さてねえ。人望のない上に小心者なやつだからな。足元に人望だらけの人間がいるとなると、安心できなかったんじゃねえか?」
そしてグラシアさんを見る。
「それがシスター・グラシアほどの人だと、特にな」
大司教とやらが、自分の権力を守るために、グラシアさんを追い出そうとしていた、ってことか?
権力争い?
ギャングじゃなかったの?
全部そいつのせいですか?
「……話がややこしくなってきた」
思わず息を吐く。
「別にややこしくはありません」
エリーゼが言った。
「パッツィ大司教に会いに行きましょう。ケジメは付けてもらいます」
その瞳の鋭さに、おれはぶるりと震えた。
……かっこ、つかねえっす。
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