第8話

「それで急いで帰ってきたって?」

 君島はそばをゆでていた。テーブルの上には多くの「お供」が用意されている。刻みのり、みょうが、ねぎ、おくら、シソの葉、白ごま、大根おろしに同じくすりおろしたしょうが、わさび。ラー油とごま油。

「だって、いやな予感がしたから」

「どんな?」

 席に座って私はうなだれていた。君島の家に弾丸のように飛び込んだら、あまりにもいつも通りの君島がいたから、安心と羞恥で疲れがどっと襲ってきたのだった。

「わかんないけど、君島が、なんか、どっかに、行っちゃうような」

「行きませんよお。外、暑いし。夏だし」

 軽い口調でそう言うと君島はコップに麦茶を注いで置いてくれた。私はそれをくいーっと一息で飲む。香ばしさがふわっと鼻に届いた。その冷たさに、私は貫かれる。ふーっと長く息を吐きだした。落ち着いた? 君島はそう言って髪の毛に触れてきた。私はようやく顔を見ることができた。ちゃんと、君島だった。

「思い込みっていうのはやっかいなもので加速するんだ。思い込んでいるときには気づけず、どんどん良くない方向に考えを進めてさ。よくあることだよ、数学でもね。そんなときは一服するのが大切なんだよ。効いたっしょ、麦茶」

 そばのゆで時間を知らせるタイマーが鳴った。君島はちょっと待っててと鍋に戻り、素早くざるにそばを移動させると、水を流して速やかに冷やしていく。すぐさま白く大きい平たいお皿に移し、氷をいくつか落とした。それをテーブルの中央にとんと置く。さらに冷蔵庫から出てくる、茄子の醤油の煮びたし、トマト、きゅうりの浅漬け、ゆでた豚肉、千切りキャベツ。テーブルにお皿がいっぱい並んだ。

 一度そばをゆでるとなると、君島は俄然張り切る。「薬味を食べたいがためにそばを用意するところ、あります」とはよく聞く言葉だ。

 めんつゆの種類も甘いものと辛いものと二つそろえ、濃さは好みで調整することになっている。たいてい君島は器を二つ用意してどちらも使用し、片方にごま油をたらし中華風にする。私はいつも甘いほうを使っている。

「まあ食べなよ。腹いっぱいになって幸福を感じない人はいないんだから」

「うん、ありがとう」

 私はすりおろしたしょうがをスプーンで掬って容器に入れた。数本そばをつまんで半分ほどめんつゆにつけて勢いよくすすった。しょうがのピリッとした辛さが私の食欲を刺激した。

「ああー」

 たまらず声をもらすと、君島は満足げだった。

「さて、食べよう」

 二人して無言で、そばをすすった。このそばもまたほどよいコシで噛み応えがいい。しっかり締まっているという感じ。氷を同じお皿に盛るのは欠かせない工程なのだということを思い知らされる。ねぎを入れて、シソを入れて、白ごまを入れて、たまにナスやトマトを食べた。あまじょっぱさや酸味がさらに麺をすすませる。大根おろしのほろ苦さもよし、みょうがの香りもよし、そして山盛りにあった麺の山はどんどん低くなり、平らになり、ついになくなった。でも「お供」はまだまだたくさん残っているから、明日もそばをゆでにことになりますと君島は宣言した。これだけ「お供」があると全く飽きが来ない。おくらを入れ忘れていたということもあって、私はそれに賛成した。

 二人でそばゆを飲んだ。

「私、君島のことあまりわかってないような気がしたの」

「そうかな。オレが果物きらいだって知っている人は少ないよ」

「もちろんパーソナルな部分は知っているけれど、そういうのも大事だけどそうじゃなくて、数学」

「ああ」

 君島は残っている浅漬けをつまんでポリポリと咀嚼したあと、

「いいんじゃない、知らなくて」とこともなげに言った。

「数学って君島にとって切り離せないものでしょ。君島を構成するのに欠かせない成分でしょ。今までは知らなくてもいいと思っていたけれど、それじゃよくないと思った。数学を知らないと私、君島から離れて行ってしまうように感じる。だから教えて。あの、できるだけわかりやすく」

「知らなくたって離れはしないよ。言ったでしょ、思い込みだって」

「でも知りたい」

「笹原ちゃんに言われたことを気にしているの?」

「それも、ある」

「孤独なんかじゃないよ。数字はいつでもどこでも側にあるんだから」

「水をつかむみたいって言ってたのも」

「研究が思うようにいかなくてナーバスになっていただけだよ。あなただって落ち込むことあるでしょう。それとなんにも変わらないよ」

「私は私の不安要素を完全に消したいの」

「わかった。わかったよ話すよ」

 君島は降参だと言わんばかりに胸の前で両手を広げてみせた。

「今までは研究内容を説明していたけれど、さらにその前段階で言っちゃうととてもシンプルになる。オレの研究しているのは素数だよ」

 これでわかったでしょと言いたげなように片方の眉を持ち上げた。

「素数って、一とその数自身でしか割れないってやつ?」

「そう。三とか五とか七とか」

「それのなにを調べているの?」

「現実世界と抽象世界をつなごうとしている、って感じ」

「なにそれ」

「まあまあ、もういいじゃない。そばゆが冷えちゃったよほら」

「はぐらかそうとしてる」

「んーだって説明が難しいよ。ゼータ関数とか言ってもなにそれってなるっしょ。だからとにかく素数を研究しているんだってことだけ、ね」

 君島は立ち上がって後片付けを始めた。私は気分がすっきりしない。研究対象が素数ってことだけじゃあなにもわかっていないのと同じだ。

 その後も何度か尋ねてみたけど、君島はのらりくらりとかわすばかりでちっとも答えてはくれなかった。

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蜃気楼 進藤翼 @shin-D-ou

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