第5話

 笹原と別れて自宅に帰ったあと、私はソファに腰かけパソコンを立ち上げて例の情報誌の記事を書いた。〆切が近いというのもあったけれど、なんだかモヤモヤする気分をなにかに打ち込むことで払拭したかった。普段は情報を間違わないように必要な記述をしてから、文章と写真のバランスや配置を考えつつ読者の興味をひくような内容を書くことに心を砕くのだけれど、今回は流れる滝のようにずっと、止まることなくキーボードの上を指が動いていた。いつもなら時間のかかる食べ物の味に関する記述なんかもばっちりだった。余計なことを考えないようにしていたせいで作業に没頭できたらしい。タイプミスも変換ミスも誤字脱字も確認できる範囲にはなかった。よし、これでいいと時計を見たら八時間ほど経過していて驚いた。

道理であちこちが痛むわけだ。すっかりかたまった身体を伸ばしながら、だけど私は自分がそれほど達成感を味わえてはいないことに気づいた。私はそのことに衝撃を受けた。自分の中では大きな、それもとても大きな仕事をひとつ片づけたのに、この手ごたえのなさはどうしたことだろう。もっと心地よい疲労と満足感が押し寄せてきて、ビールでも飲んじゃおうかしらなんて気分になるはずなのに。

文章を改めて見直してみると、自分で書いたはずなのにまったく覚えのない文字の羅列のように感じられて、それが不気味だった。これは本当に私の書いた文章なんだろうかというバカみたいな疑問さえわいてきた。きっと疲れているせいだ。とにかく完成させたのだから明日、上司へこれを提出しよう。

日付の変わった午前三時。私は一人ため息をつく。なにか食べようかとも思ったけれどなにを食べたいかわからなかった。洗濯物を干しっぱなしにしていたことを思い出して、だらだらと取り込んだ。そうしてまたソファに腰かけて、何時間前に用意したのかすっかり冷めてしまった泥水と変わらないコーヒーをずずずと啜る。それは昼に飲んだアイスコーヒーの味に似ていて、落ち着かない気分になる。

 孤独になっちゃうよ。孤独になっちゃうよ。孤独になっちゃうよ。

 笹原のやつのせいだ。あの言葉が頭から離れない。

 私、君島のことを、実は大して、あるいはなにも、知らないのでは、ないだろうか。名前や年齢、身長に足のサイズ、すきな映画のタイトルに愛読書、生で見たい絵画、興味のあるスポーツ、ペットとしてほしい動物、コーヒーの好み、しゃべり方のくせ、歯の磨き方、そういうものは知っているけれど、そしてそういったものを知っている程度で彼と親しくやっているけれど、パーセンテージにしたら、私はどのくらい、君島のことを知っているんだろう。

 ああ全く、夜はそういう気分になってよくない。

 私はテーブルに置いていたカエルの置物を見た。赤い傘を差しているアマガエルはベンチに座っている。反対側の手は膝の上。てろりと長いカエル独特の手だ。顔は空を見上げるような角度で微笑んでいる。雨が降っているのが嬉しいのかもしれない。そんな風に思ってしまうほど、そのカエルは穏やかに微笑んでいた。

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