第6話
雨上がりのキャンパスだった。まだ夏の来る前の五月。前日の雨がうそのような快晴だった。
並木道を歩いていた。銀杏の木だ。秋の顔とは今は全く違う姿をしている。葉はまだまだ青い。ところどころにベンチが置かれている。木製のペンキが剥げているそれは、雨の残りで濡れていた。私は数時間後にゼミの発表会が迫っていて、内容に欠陥はないかレジュメを見ながらゼミ室へ向かっていた。ああ、ここ突っ込まれそうだななんて思っていると、突然「ストップ!」という声が聞こえた。
私は思わぬ声にびっくりしてその場で小さく悲鳴を上げた。反射的にうつむき目をつむって動きを停止して数秒、なにも起きないことにおそるおそる顔をあげてみると、目の前にはそれほど背の高くない男の子がいた。私と同じくらいか、私より小さいくらい。
「いやあ、いやいやいや危ないところだった」
屈託ない顔で私に声をかけてきたその男の子は、どうやら「ストップ」と言った声の持ち主らしかった。
「なに? なに?」
私が戸惑いながらもなんとか答えると、男の子はほら、あれ、と指さした。指の示すその先には水たまりがあった。私が要領を得ずなおも表情を崩さずにいると、「つまりさ」と話し始めた。
「このままのあなたの歩幅でいくとさ、あの水たまりのちょうどど真ん中に足をつっこむことになるんだよ。レジュメに夢中で気づいてなさそうだったからさあ。余計なことだった?」
彼は両手を広げて片方の眉だけを上げた。洋画のキャラクターのような動きだった。
どういうわけかそのあたりだけアスファルトが大きくくぼんでいて、広いうえに少し深い水たまりができている。迂回するか飛び越えようとしないと、確かに足を突っ込んでしまいそうに見えた。
そのやり方には驚いたけれど、彼はどうやら親切心で声をかけてくれたらしい。警戒してしまった自分を恥じた。彼はそんな私に構わず話す。相手の反応をあまり気にしないのかもしれない。
「オレはねえ、お昼を食べたらこのベンチに座ることにしてるんだ。ちょうど木の陰があって気持ちよくてね。でそしたらあなたが通ったもんだから思わずね」
「つまり、助けてくれたということ?」
「あなたが助けられたと思えばそう。でなければただのおせっかいかな」と言って肩をすくめてみせた。
落ち着いて彼のことを見ると、ああ、と私は思い出した。ゼミ室へ向かうこの並木道を通るとき、確かにいつもこのベンチにはこの男の子が座っていた。大きなリュックを隣に置いて本を読んでいた。それはあまりにも自然な光景だったように思う。一切の違和感なく、彼はそこに溶け込んでいた。絵画の一部のように。だから私は常に彼の存在に気づいていながら、だけど意識をしていなかった。
「あの、うん、ありがとう。水たまり、気づいていなかったから、助かりました」
「そうか。それならよかった」
彼は子供っぽく微笑んだ。それはちょうど今日という日にふさわしいような微笑みだった。
ところで、と彼は続ける。
「ひとつ聞いてもいい? ハンカチかタオルって持ってないかな。ベンチが濡れているってことを確認せずに座っちゃって。お尻のあたりがひどいんだよ」
「あ、ええとね、持ってる。ちょっと待って」
私はカバンから使っていないハンカチを取り出した。笹原からのお土産の一つである、イエローのハンカチ。
「きれいだな。ありがとう。けど、これ、使ってもいいの? 高そうに見えるよ」
「もらいものだから。それにハンカチも使われたほうがいいでしょ」
「じゃあ遠慮なく」
「遠くの水たまりのことは気づいたのに、近くのベンチのことは気づけなかった?」
「そう、ほんとにね」
私が冗談めかして言うと、彼は軽く笑った。よく笑う人なんだなと思った。
私たちの間を心地よい風が吹いた。両手に並んだ木々の枝が葉が小さく音を立てる。瞬間私はその風になにかを攫われたのがわかった。閉め切っていた部屋の窓を開け放ちそして通り過ぎていくように、その風は確かに、私の身体を換気した。雨上がりのそれは瑞々しくて、濃い緑のにおいがした。それにほんのわずかに柑橘類が混じっている。
葉の先端から垂れてきたのか一滴の雫が私の頭に落ちてくる。
「あ、そろそろ行かないと」
「ハンカチ今度返すよ、助かりました」
じゃあ、と踵を返したところ、すぐに呼び止められた。
「名前、なんていうの。オレはね、君島朝仁。言いにくいでしょ」
「駒野彼方。男みたいでしょ」
水たまりはやっぱり大きかった。その水面は並木をさかさまに映していた。向こう側にもう一つ世界があるように思えた。私は勢いをつけてえいやと飛び越えた。どこからかアカペラ部の練習の歌声が聞こえてきた。アラジンのホールニューワールドだった。
変な人だった。彼の印象。でも悪い気はしなかった。直観というのは意外と正しいもので、それが特に人に対するものだと外れることは少ない。
「キミシマアサヒト」
こっそり呟いてみる。言っていた通りちょっと言いにくいかも。
彼の学年も学部もなにも知らない。というのに、名前一つ知っただけで、ひどく身近になったように感じる。名前一つ知っただけ、じゃなくて、名前一つ知ったから、なのかもしれない。
次に彼を見かけるときには、彼はもう絵画の一部なんかではなくて、そこから飛び出している君島朝仁になっている。そしてきっとまた洋画の人みたいに大げさにボディランゲージをしながらハンカチを返してくれる。そのまま食堂に行って、販売機のコーヒーを飲みながらいろいろ話をする。そんな予感があった。
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