第4話
笹原から連絡があって、いつもの喫茶店で落ち合うことになった。
私がお店に到着するときにはすでに笹原は席に座ってキャラメルミルクを飲んでいた。私はアイスコーヒーを注文した。
「はいこれ」
「なにこれ」
笹原は私に紙袋渡してくる。中身を見ると縦に長いなにかが包装紙で包まれていた。
「カエル」
「カエル? なんで?」
「すきでしょ?」
「そんなこと言ったことあった?」
「そうだっけ。まあとにかく受け取ってよ買ってきたんだし」
笹原はバイトをしてお金が貯まるとあっちこっちに出向き、絵を描くという生活をしている。そして行った先で必ず私になにかしらのお土産を買ってくる。あるときはコーヒー豆、あるときは象の形をした貯金箱、ドリームキャッチャー、貝殻の装飾品、サンダル、映画のポスターなどなど。私のおうちの一角には、笹原のお土産用スペースがある。
包装紙を外すと木彫りのカエルが出てきた。傘を差していて、コミカルな感じ。塗られている色からするとアマガエルだろう。気に入った。
「ありがとう。それでどこ行ってたの」
「箱根」
「え、近くない? いつも海外なのに」
「たまにはね」
笹原想子。
絵を描くのに邪魔だからという理由で、髪の毛は短い。いつもと同じ太めのオーバーオールはところどころ絵の具で汚れている。トマト缶の絵がプリントされたティシャツを着ていた。
「どうして箱根?」
「古本屋にさ、行ったの。適当な本でも買おうかしらなんて気分で。棚を眺めていたら一冊、棚からこぼれそうになっている本があって。私はそれを元の位置に戻したの」
アイスコーヒーが運ばれてきた。氷がグラスに当たって音が鳴った。
「ふらふらしているうちに、その棚のところに戻ってきて、そしたら不思議なことにさっきの本がまたはみ出ていたの。それが星の王子様だった。で、だから」
行くのは当然でしょう? という顔をしてキャラメルミルクをのむ。絵の具が入り込むからと、爪はいつも短い。そのくせやたらきれいに磨かれている。
笹原という女はやたら運命論を信じる。たまたまや偶然で片づけていい事柄に特別な意味合いを持たせるのだ。
たとえばこんなことがあった。彼女がある日駅前でもらったチラシは、乗馬教室の宣伝だった。次の日は祝日で、甲冑を着た人々が街中を練り歩くというイベントがあった。そこには馬に跨った人もいた。そして同じ日に行きつけの喫茶店へ行くと、オーナーの娘さんが最近書道に凝りだしたといい、使っている筆は馬の毛でできているという話を聞いた。笹原は「私は今きっと馬に触れなくてはならない、外側にも内側にも」と言い、翌週にはモンゴルに飛び立った。そういう女だ。安直かもしれないけど行動力は人一倍ある。
今回は「二回も星の王子様がはみ出していたということは、私はこの作品についてより知らなければいけないということだ。調べたら箱根には星の王子様ミュージアムなるものがあるらしい、行かねば!」といったところだろう。作者の故郷であるフランスに行けばいいのに、温泉に浸かりたいという理由で近場を選んだそうだ。
「それで収穫は?」
「どうだろね。泊まった宿の温泉はよかったけど。ただ、なんていうかさ、私君島君のことを思い出したよ」
「君島を? どうして」
笹原はグラスを傾け、今度は氷を噛みだした。やめなさいと注意してもこれだけはやめられないという彼女の悪癖。ゴリゴリと音を鳴らしながら「星の王子様の有名な一文があるじゃんか」と言った。
サン=テグジュペリの作品は、全てではないけれどいくつか読んだことがある。もちろん星の王子様だって繰り返し読んだ。
「本当に大切なことは目に見えない、てやつ?」
「そう、なんかほら数学ってそういうところあると思わない?」
私は紙に数式を走らせる君島を浮かべた。私には内容の一切理解できない異国の文章のように見えるあれらは、まだ発見されていないこの世の真実のひとかけらで、君島はそれを追いかけている。
「すごいことをやっているのかしれないけど、普段の様子を見ているとまったくそんな感じがしない」
「君島君ってなにについて研究しているわけ?」
「さあね。でも聞いたところでわからないと思うって言ってたし、実際そうだろうし」
「わからなくてもそういうの、聞いておきなよ」
「どうして」
「君島君、孤独になっちゃうよ」
なんともないふうに言う笹原の言葉は、なぜだか私にずっしりときた。
水を掴むようなものなんだ。以前君島がそう言っていた。
水はとても身近にある。蛇口をひねねば流れてくるし、空から降ってくる。両手をお椀の形にして掬うこともできる。でも触れることはできるのに、どうしてか掴むことはできない。水って不思議だよね、と。私はその意図をくみ取れず、ふうんと聞き流してしまった。
あれは数学のことを言っていたんだ。
氷の溶けたアイスコーヒーは、味が薄くなってしまっておいしくなかった。
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