第3話

「どうもありがとうございました。あとお店の外観だけ撮らせていただきますね」

 頭を下げて「三田村」をあとにする。「三田村」はこのあたりじゃ有名な和菓子屋で、創業六十年になる。

車の来ないことを確認してから道路に出て、カメラを構え、シャッターを切る。

使われなくなりオブジェとして置かれている水車は目印となるだけじゃなく、古めかしいお店の雰囲気と馴染んでいた。念のため多めに撮影をしてから駐車場へ向かった。ある程度の覚悟はしていたものの、一時間ほど放置していたその車内は蒸し風呂状態だった。私はうんざりしながらエアコンを最大にし、窓を開けた。快適な温度になるまで少し待とう。助手席に置いたカバンからスケジュール帳を取る。このあとは「茶トラ喫茶」と「ドクターカフェ」に行く。

地元情報誌の、夏の甘味特集。私の担当は五店舗、二ページぶんだった。今日は取材の日。お店の人にインタビューし、出しているスイーツとお店の外観を撮影する。これらの記事は本当は先輩とともに作成する予定だったのが、その先輩が産休に入ってしまったため私が一人で担当することになった。人数のそれほど多くない会社だから、新しく人員を割くことができなかった。いくらほかの先輩たちからのフォローがあるといえ、その重圧にちょっと胃が痛くなる。

大きく息を吐く。車のシートが背中に張り付いているような気がして気持ち悪い。じっとりと、汗が噴き出てくる。太陽は真上、日陰はどこにも見当たらず、その灼熱の光線を避けるすべはなかった。

 スケジュール帳の五日後のところには大きく「〆切!」と書かれていた。それまでに記事を完成させ、上司からオーケーをもらわないといけない。

私の背後にはいつもこの「〆切」というものがある。そいつに追いつかれないように必死で走る毎日だ。たまに疲れて速度を落とそうものなら、そいつはあっという間に私の肩をタッチしてこうとする。

文章を書き情報を伝えるということの責任は大きい。少しの間違いも許されない仕事だ。だから任された記事を仕上げるのは最大限に慎重になる必要がある。誰だってそうなのだろうけれど〆切前というのは神経質になる。それはどうやら身体の外側にも表れるようで、君島に「ぴりついているなあ」と言われることも少なくなかった。

 今の仕事はきらいじゃない。しんどいこともあるけれど、投げ出したり辞めようとしたりしたことはない。

 文章を書くのがすきだった。小学生の頃読書感想文でコンクールに入賞したのがきっかけだったように思う。文章は自由だ。不正解がない。それがいい。

毎日日記をつけていた。誰にも見せない詩や小説を書いていた。本を読んでいてすきな文章があれば蛍光ペンでそこをなぞって、意味もなく何度もノートに書き写しもした。実家の本棚に収められた本たちには、多くのラインが引かれている。

この仕事に就けたときは本当に嬉しかった。すき放題文章を書いていいし、それを読んでくれる人がいる、しかもそれでお金までもらえる。これほど素晴らしいことなんてほかにはない。カバンにスケジュール帳をしまって、代わりにハンカチを出して汗をぬぐう。ようやく車内が冷えてきた。

本日も晴天なり。飛行機雲が空を二つに分断している。雨の降る気配はない。

アクセルを踏んで、次の店に向かった。


 夜。

 スーパーで買ってきたレモンを薄く輪切りにしていく。その色はいつも目が覚めるようなほど鮮やかだ。果物ナイフを押し当てると、その表面は少しかたく抵抗感があるけど、でもそこを通過すると、あとはすとんとナイフが落ちる。あらわにされたその果肉の瑞々しさ。私は口の中に唾液が増えるのを感じた。五つ分のレモンを全て輪切りにすると、指先にはレモンのにおいがうつっていた。舐めると酸味が舌に広がった。

 そのレモンを鍋に入れて砂糖とはちみつを加える。最初は強火で、砂糖が溶けてきたら弱火に切り替える。甘ったるいにおいがキッチンに立ちこめてきた。

「また、そんなものをつくって」

 リビングのソファに座っていた君島は実にいやそうな顔をしていた。君島は果物がきらいだ。柑橘系は特に。りんごだけはすきだけど。

「砂糖とはちみつはさあ、ハッピーな組み合わせだと思うんだよ。甘いものと甘いものだから。でもさあ、そこにさあ、どうしてねえ、酸っぱいものを足すのかとねえ、オレはねえ、聞きたいんですねえ」

「酸っぱくないって。こんなに砂糖とはちみつ入れてるんだから」

 振り向いて、ヘラで鍋を混ぜながら君島に説明したけれど、君島は眉をひそめたままだった。

 レモンがくったりとして砂糖が完全に溶けたのを確認したら火を止める。

お手軽レモンシロップの完成だ。レモンもしっかり甘くなっているからそのまま食べてもいい。

本当は冷やしてからのほうがいんだけど、我慢できずにコップにそのシロップとレモンを数切れ入れて、炭酸水を注いだ。特製レモンスカッシュだ。せっかくだし、君島のぶんも用意しよう。私は二つのコップを手にリビングに戻った。残りのシロップは冷えたらタッパーに移して冷蔵庫にしまえばいい。

「だいたいあれだ、レモンっておっかないんだ。爆弾として使われるし」

 君島はまだぶつぶつ言っている。なにそれ、と聞き返すと「本屋に仕掛けるんだよ」と返してきた。梶井基次郎だ。

 私がコップを君島の前に差し出すと、君島は渋い顔をしながら受け取った。そして私とコップを交互に見て、ため息をつく。

「飲まなきゃいけない?」

「数学者たるもの観測は欠かせないことでしょ」

「それは物理学者の範疇だよ」

「いいからいいからほら」

「果物はそもそも苦手だけど、酸っぱいものは輪をかけてダメなんだよ」

「だから酸っぱくないってば」

 君島は唇を突き出して抵抗のポーズをしていたけれど、やがて観念したのかおそるおそるといった様子で口をつけた。とたんに表情が驚きのそれに変わっていく。

「ええ、なにこれおいしい。甘さがちょうどいい」

「そうでしょそうでしょ。試してよかったでしょ」

「へえすごいなあこれ。つまりはこの重さなんですなあ」

「梶井基次郎ね」

満足した私もソファに座る。テレビにはまたトラヴォルタが映っていた。トラヴォルタ特集でもしているのだろうか。フォレスト・ウィテカーとなにやらしゃべっている。

「なんだっけこれ、トラヴォルタが突然天才になっちゃう話だよね」

「そう。フェノミナン」

「あ、それそれ」

「クラプトンの曲が聞きたくなって」

そこから二人で黙って映画を見た。ときおりレモンスカッシュを飲んだ。甘くて、そしてほんの少しだけ苦いレモンの風味が、喉を抜けていく。加わった炭酸が心地よかった。君島なんかあれほど言っていたのにコップの中身が空になっている。

やがて映画は感動的なラストを迎え、エンドロールが流れ始めた。以前も見ていたけどずいぶん久しぶりに見たから初めて見るような気分で楽しむことができた。

「タバコ吸おう」

 君島が立ち上がった。きちんとエンドロールが終わるまで待つあたりが君島らしい。

「やめればいいのに。ほら扇風機だって首を横に振ってる。よくないってさ」

「それは違う。オレがタバコを吸わないほうがいいかっていう質問にノーと言っているんだ」

 君島は網戸を開けてベランダに出た。薄いティシャツから肩甲骨の浮き出ているのが見える。やわらかな夜風が入り込んでくる。川のほうからやってきたのか水のにおいがした。青っぽいにおいも混じっている。肩越しに煙が揺らめいていた。それは捉えどころのない不規則な動きをしてふっと消えた。私はその様子をずっと眺めていた。

「明日はたぶん雨が降る」

振り返った君島は眉をかきながら言った。気圧の変化を感じると耳鳴りがするんだそうだ。

「じゃあ洗濯は明日にしよっか」

 タバコの先端の燃える炎は、君島がそこにいることを証明してくれているように思えた。

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