第2話

君島は大学院で数学を研究している。どんなことをしているのか何度も説明を受けても私には理解することができない。私の頭でわかる範疇の外側にある。「理解するには前提となる知識が必要だからなあ、恥に思うことはないよ」と君島は言う。

 数学のことを話しているときの君島はカッコいいしかわいい。私はその顔を見るのがすきだった。

 君島の悪癖として、なにかアイディアを思いついたらその場にある紙にペンを走らせるというものがある。文庫本の端っこ、電気料金の振り込み用紙、レシート……。それだけならまだいい。思いがけないところから見つかることもある。私のスケジュール帳だ。仕事の予定を書き込んだ上から数式を書かれたもんだから、私はそのときの三月の予定を把握するのにえらく難儀した。私が怒ると君島は謝りながら、でもちっとも悪びれもしなかった。「そりゃそのときノート持っていたらそこに書くけどさ。でもアイディアって雨みたいなもんで突然降ってくるからさあ」

 その出来事があってから、私はA4サイズのコピー用紙とメモ帳、それから壁に掛ける大きいホワイトボードをプレゼントした。私のカバンの中にも君島用のメモ帳を忍ばせた。それからはいくらか改善したものの、依然としてその場にある紙に書くクセは治まらないらしい。君島の部屋に行く期間を少しでも空けると、一気に室内はメモの海になる。トランプを四セットくらいぶちまけたような光景だ。その度私は世界で一番大きなため息をつく。犬だってこんなに散らかさないだろうに。だから私は足しげく君島の部屋に通う。

「いやああなたがいると部屋がキレイで済むなあ」

 タイヤ付きのイスに座ってくるーり回りながら君島は呑気な調子だった。

「メモ帳のアプリとか使ったらいいのに」

「紙に書くのがすきなんだ。効率的じゃないとかもっと便利なものあるとか、そういうの、関係なくてさ。泳ぎ方だってバタフライとか平泳ぎとかあるけど、どの泳法を選ぶかって自由じゃん。クロールのほうが早いのにって言われても泳ぎたいように泳ぎたいでしょ」

「それは、そうかもね」

 私はメモを本棚の上に積み上げる(書いている本人でさえ順番を把握していないから、その日その日ごとでまるっとまとめている。そもそも取っ散らかりすぎて整理なんて不可能なほどだ)。漬物石サイズのものを置かないと紙の厚さに負けてしまいそうだった。

「でも」

 と私は君島に指を突きつける。

「だからといって部屋をめちゃくちゃにしていい理由にはなりませんねえ」

「いつも片付けてもらって感謝していますありがとうございます助かります」

 私の小さな反撃に、君島は回転を止め、両手を膝の上に置き頭を下げた。

「よろしい」

 とかなんとか言いつつ、結局のところ私は君島に惚れてしまっていた。どんなに慣れて近しい距離になろうが、彼の部屋のドアを開けるとき、私の胸は高鳴る。その向こうにいる君島のことを思うとたまらなくなる。君島がいることが私は嬉しかった。メモの海を片付けることさえ、私だけに与えられた特権のように思えた。

誰かに会いに行くというのは、それだけで素晴らしいことなのだと知った。



 どうして数学だったのと聞いたことがある。数ある学問の中でどうして、と。

「たまたまなんだよ。本当にね、偶然、あんなことがあったから」

 君島は高校生の頃、よく近所の図書館で勉強していた。ひとつひとつスペースが仕切られた机もあったけど、大きな円卓を使うのがすきだったという。そのほうが広々使えるからだと。いつもの席に座って勉強をしていると、二つ離れた席にある男が座った。その男の髪は金色で、瞳は青かった。ああ、留学生だろうなと思って、君島は気にも留めなかった。留学生は何枚ものプリントを取り出し、それを見ながらノートにペンを走らせた。互いに自分のことだけに集中して、邪魔することなく、ペンの音だけが聞こえていた。ある程度の時間が経って、君島はトイレに立った。その間も留学生は一心不乱に書き込みを続けていた。用を足し戻ってくると、その留学生の手が止まっていた。なんとなく気になってちらりとノートを見たら、そこにはずらりと数式が並んでいた。君島は思わず立ち止まった。

「オレ、英語もしゃべれないのに気がついたらそいつの肩をトントンってしてたんだ」

 留学生は怪訝な表情を浮かべたけど、君島の表情とジェスチャーから理解したようで持っていたノートを見せてくれた。目を通してみると、それはある問題を証明しているのだということに気づいた。そしてそれが間違っていることにも。証明が途中で止まってしまっていたのは展開に無理があるからだった。君島は自分の座っていた席に戻りノートを持ってくると、留学生の前でつらつらと数式を書き上げた。すると途端に留学生の顔がパッと明るくなり、その数式に続いて式を並べた。

「そこから二時間くらいかな。二人で証明を完成させたんだ。そいつはオレと握手したあと、サンクスってだけ言って帰っていった。そんときにオレ思ったんだよね。あ、数学って言語だなって」

 英語も日本語も必要なかった。そこに並べられた数式がなによりも雄弁に語っていた。留学生の考えをすぐさま理解するができたし、留学生も君島の考えを即座に理解した。

「数学に本格的にのめりこんだのはそこからだったなあ。答えに導かれるように、オレもまた数学に導かれたんだと思うよ」

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