蜃気楼
進藤翼
第1話
「誰も知らない場所にいきてえ」っていつも言っていた。「そんでもってそこで、あなたとヘタクソな踊りを踊るんだ」って。
彼は私のことを「あなた」と呼ぶ。私は「君島」と呼んでいた。他人からすると少し奇妙な距離感があるように見えるかもしれない。でもそれが私たちの関係だった。
「でもさ、ヘタクソでもいいんだ。だってそこは誰も知らない場所でほかに誰もいないんだから、人目を気にすることなんてないんだよ」
「君島、踊れるの?」
「さてね。実際ステップなんてどうでもいいような気がする。音楽が流れて、それで自由に身体を動かせば、それはもうひとつの踊りだよ」
君島がテレビを指さした。隣で旅行雑誌を読んでいた私は、そこから目を離してそっちを見る。
パルプフィクションを流していた。君島はいつもなにかしらのDVDを再生している。画面ではユマ・サーマンとジョン・トラヴォルタがツイストを踊っている。彼らはただ思いつくまま手足を動かしているように見えた。このあとユマ・サーマンはドラッグで意識がぶっ飛ぶはず。
「えーでも私、シャルウィダンスみたいな、ああいう社交ダンスのがいいなあ」
「へえ、そうなの。意外」
「でも君島背が低いからなあ」
「あなたが高すぎるんだよなあ」
君島は百六十九センチ、私は百七十二センチ。ちょっとヒールでも履こうものなら、その差はさらに広がる。だから君島とでかけるときはいつもペタンコのスニーカーばかり履いていた。自分より背の低い男はごめんだと思っていたけれど、すきな相手だと許せてしまうものらしい。
「まあいいや。いつかあるかもしれない披露の機会に備えて密かに練習しておくことにしよう」
「ある? そんな機会」
「ないと言い切れないなら、あるってことよ」
君島は立ち上がって冷蔵庫を開けると、いつものものを取り出して戻ってくる。瓶詰めされたココナッツジュースだ。
君島の部屋のクーラーは古いせいでぬるい風しか出なかった。夏を乗り切るには厳しい環境だった。窓を全開にしているもののその効果は薄くて、ときおりカーテンをふわりと膨らませる程度で、あとは黙っているばかりだった。意外にも活躍したのは扇風機だ。これがあるだけでずいぶんと室内の気温が下がる。今もゆっくりと首を左右に振りながら、私たちに涼しさを提供してくれていた。
瓶を傾けて、君島はたまらないといった表情でココナッツジュースを飲んでいく。彼ののどぼとけが上下に運動する。こめかみのあたりには汗が一滴浮かんでいた。そういう私の鼻の頭にも。
君島はクリーム色のティシャツに、リネン生地の膝くらいまでの短パンをはいていた。うすいすね毛と、筋肉のついた脚は、彼が男性であるということを意識させる。私は白いシャツにスカート。暑いから髪の毛を上のほうでまとめて、コンタクトじゃなくてメガネをかけていた。
ふうと一息ついて、君島は私の雑誌を示した。
「今度はどこ行ってんの?」
私は鼻を手でこすった。
「石川」
「あー、兼六園?」
「そうそう。あとひがし茶屋街とか」
旅行雑誌を読むのがすきだった。そこに書かれている情報をもとに疑似旅行体験をするのが私の楽しみだった。私の脳内では、国内は三十以上の都道府県をめぐっていた。実際に行けばいいなんてことは指摘されるまでもなくわかっている。だけどそんなお金も時間もない。ならばせめて、気分だけでも、というわけ。
君島は大学院生。私は社会人一年目。著しく変化する環境に、私はついていくのがやっとだった。あっという間に夏が来ていた。桜の花を見る余裕もなかった。
「私もなんか飲む」
「サイダーあるよ。まだ開けてないやつ」
「いいねえ」
ガラスのコップに氷を流し込み、キャップを回してサイダーを注いだ。開けたばかりだから炭酸が強い。白い泡のかたまりが表面にできた。しゅうううと気持ちの良い音を立てながら、いくつもの泡が弾けていく。氷が溶け、崩れる。フチに当たって軽やかな音が鳴る。グラスを持ち上げて底からのぞきこんだ。小さい頃からの私のクセ。そこには透明な宇宙が広がっている。炭酸飲料の宇宙だ。数えきれないいくつもの泡が氷やコップにくっついて、幻想的な様相を呈していた。いつも見慣れているものも角度を変えてみると驚くほど別の一面を見せる。コップの中はミラクルに溢れている。
私は中身を何度かかき混ぜ、その指をぺろっとなめたあと、一気にそれを飲み干した。甘さと刺激が喉と脳天に直撃する。
「ああ生き返る」
「夏ですから」
古いマンションの三階。窓から見える空には果てのない青い空と白く輝く太陽があった。
「あなたはいつもうまそうに飲むねえ」
「ココナッツもひとくちちょうだいよ」
「いいよ」
そう言ったのに君島は、そのまま自分で飲んでしまった。抗議の声を上げようとしたら、その前に彼は私の顔を両手で挟みキスをしてきた。ココナッツジュースが口内に流れてくる。口移しだ。私は驚いて少しばかりこぼしてしまう。ソファに垂れる。
「びっくりしたなあもう」
「ドキドキしたっしょドキドキしたっしょ」
君島はへらへら笑っていた。その笑顔がかわいらしくて、でもやられたことが悔しくて、私は肩を叩く。
君島とするキスはいつも甘い味がする。ココナッツのにおいがして、私はたまらなくなる。
「夕方になったら菊花亭の水ようかん買いにいこ」
君島は私を押し倒し、私のかけていたメガネを外してからもう一度キスをしてきた。
「うん」
と私は答えた。
「そのおでこがすきなんだよね」
と言って、額に三度目のキスを。
蝉しぐれが降り注ぐ。こちらを向いた扇風機の風が当たってまた離れていく。君島の身体はかたくて、それでいて熱を帯びていた。その熱さが私はいやじゃない。間近で見つめあう。あごに赤いポツリとしたものがあるのは剃刀負けのせいだ。肌の弱いせいでいつも炎症を起こしている。薄いくちびる、細く形の整った鼻、黒々とした瞳、男にしては長いまつげ、平坦気味な眉。額にはふつふつと汗がふいていた。その汗のにおいに、私はくらりときてしまう。
今度は私からキスをする。やっぱりココナッツのかおりがする。耳、首筋にも口づけをする。首筋は汗の味がした。そのまま私たちは身体を重ねた。
水ようかんのついでにスーパーにも寄った。夕飯の食材を買うためだ。今夜は冷しゃぶと冷やしトマト、あとは夏野菜を使ったなにかにしよう。
行為のあと二人して寝てしまい、起きる頃には空は紺色になっていた。くっついていたせいで寝汗がひどかった。いっしょにシャワーを浴びてさっぱりしたあとで、家を出た。服は君島のを借りて、髪の毛はおろした。
私はサンダル、君島は下駄を履いていた。身長のかさ増し目的ではなくカラコロと鳴る音がお気に入りなんだと本人は言い張っている。鬼太郎がすきというのもあると思う。
買い物を済ませ、袋の持ち手を片方ずつ持つ。帰り道を川沿いに歩く。この街には大きな川がある。どこに行こうにもすぐ近くにあって、切っても切れない関係だ。幅は五メートルほど、限りなく平坦でのっぺりとしている。水の流れも止まっているかのように見えるくらいだった。急斜面の土手があり、侵入防止用のフェンスがずっと遠くまで並んでいる。
川の向こう側は隣県だった。人口も道路の広さもけた違い、夜になっても光の消えない不夜城。おとなしいこちら側と違う。
一方通行の細い道を並んで歩いていると、ちょうど電柱の街灯がぽつぽつと灯り始めた。
「スポットライトみたいだなあって、いつも思うんだ」
下駄を鳴らしながら君島は言う。
「なら、明かりの下を歩く人はみんな役者ってわけ?」
「この世は舞台だよ。みんな自分という役柄を演じている」
「気取った物言い」
「たしかシェイクスピアにあったような気がする。でもありふれてもいるセリフだ」
「この世が舞台なら、それは悲劇? 喜劇?」
「せめてオレの周りだけは喜劇であってほしいと望みますなあ」
川の流れる音がする。水の流れる音というのはそれだけで涼しさを感じさせてくれる。ひんやりとした風が、ティシャツから伸びた私の生白く細っこい腕をなぞっていった。
命が溢れている。ナツアカネが私を追い越していく。土手に咲く小さな花々が競うように空を目指していた。どこからか子供たちの声が聞こえてきて、鼻には青々とした草と、水のにおい。アスファルトが削るサンダルの音。
劇的なことの起こらない退屈な私たちの舞台。だけど私にはじゅうぶんだ。じゅうぶんハッピーで、コメディチックだ。
君島は足をぶんと振り上げて下駄を前方に飛ばした。それはくるくると回りながら放物線を描き、地面に着地した。そう、見事に着地した。ひっくり返ることも横に倒れることもなく、そのまま足を通せる状態に。
「おお、こりゃ明日は晴れるね」
「下駄占い?」
「当たるんだよこれが」
ちょっと袋持っててと、君島は片足で跳ねながら飛ばした下駄を目指す。
下駄はちょうど街灯の真下にあった。ライトの中に君島が入り込んだ。そのとき私は彼が遠のいていくような感覚に襲われた。心がきゅうとしめつけられ、苦しい。でも君島が遠くに行くことなんてあるわけなくて、下駄をはいてきちんと戻ってきた。
いつものへらへらした顔で、「ようし帰ろう」なんて言う。冷しゃぶにかけるドレッシングはゴマダレか和風かで争いながら、私はひそかにホッとしていた。
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