ep8.雨とグレープフルーツ

 部活が終わるまでは持ちこたえてくれた空も、コート整備の最中にとうとう雨を降らし始めて、俺達が部室を閉める頃には結構な大粒になっていた。

「充、傘持ってる?」

 涼が俺に尋ねる。その左耳には何もない。

「チャリに差してる」

 サドルの後ろの細いスペースにビニール傘を差し込むのは、高校生になってから学んだ技だった。駐輪場には同じようにしている自転車がいくつもある。

「それさぁ、生活指導のセンセーに怒られるやつだぜ」

「うるせぇな。涼は持ってないんだろ。入れてやらないからな」

「いいよ、別に」

 涼は部室棟の庇の下から外に出ると、走るわけでもなくノロノロと歩き出す。俺はそれを追いかけると、背中を軽く手で小突いた。

「なぁ、怒ってる?」

「別に、怒ってないけど」

「悪かったよ」

「何が」

 俺はそう聞き返されて、謝罪の言葉を飲み込んだ。なんとなく、涼に悪いことをしたのはわかるのだが、その正体まではわからない。ピアスをあげたのが悪かったと言っても、涼は納得しないだろう。それに、多分そういうことじゃない。

「怒ってないって」

 雨に濡れながら進む涼は、妙に穏やかな顔をしていた。

「買い物行くんだろ?」

「行くけど、一度帰って着替えなきゃ」

 俺は自転車で通える距離だが、涼は電車に乗って三駅ほど離れたところに住んでいる。着替えてから出かけるとすると、少し遅くなりそうだった。

「じゃあ、買い物終わったら飯食ってから帰らねぇ?」

「いいよ。丁度、行きたいところあるし」

「決まりだな」

 話している間に、俺のジャージもすっかり濡れてしまっていた。少し先に駐輪場が見えるが、そこにある傘はもう役に立ちそうにない。

「傘、貸してやろうか?」

「いや、いい。もう手遅れ」

 濡れた髪を掻き上げながら涼が言う。

 俺はその顔を見ながら、本当に怒っていないかどうか見極めようとした。だが、強まる雨足が涼の表情を険しくしたので、結局何もわからないままだった。


 駅前は多くの人が傘を差し、肩を竦めるようにして歩いていた。雨に濡れたら毒状態になるんだろうか、と思うぐらいに皆忙しない。雨の向こう側には、前に涼と行った家電量販店や、映画館が見えた。

 この辺りの中高生は、大抵この駅の周りで遊ぶ。都会と言うには少し野暮ったいし、田舎というには近代化されすぎた駅は、俺達みたいな年齢にはぴったりなんだと思う。

「お待たせ」

 涼が、駅の出入り口に立っていた俺の肩を叩いた。私服姿に着替えているけど、髪はまだちょっと湿っている。タオルで適当に拭いただけなのは、俺も一緒だからよくわかる。

「さっさと買って、さっさと帰ろうぜ。あまり遅くまでいると、補導されるし」

「確かに。じゃあ別日でよかったんじゃねぇの?」

「思い立ったが吉、って言うじゃん」

「……あぁ、吉日な?」

 丁寧に間違いを指摘してやったのに、肘で脇腹を打撃された。解せない。

「何処に買いに行くんだ?」

「来る途中で調べたんだけど、此処の駅地下にあるらしいんだよ。髪飾りとか売ってる場所。雨にも濡れないし丁度いいだろ?」

「それ助かる。毒状態になるの嫌だし」

「何の話だよ」

 涼の疑問に、俺は答えなかった。答えたところで馬鹿にされるのがオチだ。勉強は出来ない癖に、涼の口はハムスターの回し車みたいによく回る。

 入口に立っていた俺は、涼に導かれるまま踵を返して駅の中へと戻る。雨に濡れた床とスニーカーが擦れて動物みたいな音を出した。地下鉄のある区画に続く階段を降り、人混みの中をすり抜けて行く。外が雨だからか、いつもより人が多い気がした。湿気も多いから、余計にそんな気がする。

「こっちだよ」

 普段、使うことのない通路へ涼が進むのを、俺は律儀についていった。私鉄の改札の前を通り過ぎ、コンビニの前も同様に通過すると、甘い匂いが鼻をついた。何の匂いかわからずにいる俺とは違い、涼はすぐにその匂いの正体と発生源を見つけ出した。

「グレープフルーツ」

 指差した先にはドラッグストアがあった。その店先に白いテーブルが置かれ、瓶のようなものが並んでいる。傍らには若い女性が立ち、前を通りかかる女性たちに何やら話しかけては、細長い紙のようなものを渡していた。手にした人たちが鼻先に持って行くのを見るに、匂いのサンプルを渡しているらしい。

「香水、かな?」

 涼が自信なさそうに言う。男子高校生にとって香水というのは無縁に等しい。付けている奴が周囲にいたら、間違いなく一歩引く。

「……みたいだな」

 涼に負けず劣らず、俺も曖昧な返事をした。小さな瓶を手にとって目を輝かせている女子高生やOLの姿は、どうにも理解不能だった。匂いなんかつけて何が楽しいのだろう。身体から薔薇や果物の匂いを出す意味が、どうしても見いだせない。

「香水も欲しかったりすんの?」

 俺が念の為聞いてみると、涼は俺の方を振り返って頷いた。

「そのうち買おうと思ってるけど……、あれじゃない。グレープフルーツなんて初めて見た」

「涼が欲しいのってどういう系?」

「うーん……、何だっけ? フローラルブーケとかそんな種類だったけど、忘れた」

 ドラッグストアの向かい側に、俺達が目指す駅ビルの入口があった。涼はそちらに進みながら、一度だけ後ろを振り返る。一人のOLが大事そうに瓶を持って、レジへと進む姿が見えた。

「でも、あぁいうのにしようかな」

「路線変更?」

 理想像を変えるのかと思って俺が尋ねると、涼は「そうじゃない」と呟いた。

「そこはまだ、決めてないだけだ」

「決めてない?」

 涼の中に確固たる理想像があると思い込んでいた俺は、その言葉に首を傾げた。だが背を向けてしまった相手に、俺の疑問は届かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る