ep6.素手とペンチ

「腫れてんの?」

「違う。隠してるだけ」

 涼の左耳に貼られた絆創膏は、机の上に伏すようにしていた俺からはよく見えた。癖を抑えるために、涼の髪は元々少しだけ長い。だから髪を耳に引っ掛けたりしなければ、そこにあるピアスを人目から隠すことが出来る。

「はい、古文の教科書。貸してくれてサンキュ」

 朝練の時に貸した教科書が、机の上に戻される。俺は仕方なく身体を起こすと、それを掴んで引き出しの中に押し込んだ。

 休み時間の教室は騒がしく、別のクラスである涼が紛れ込んでいることに誰も気付いていない。そもそも別に気付かれたからといって、咎められるようなことでもない。

「お前、教科書よく忘れるよな」

「うーん、なんか休み明けはぼんやりしちゃってさ」

「そんなんだから、テストの前に騒ぐ羽目になるんだろ」

 俺の指摘に、涼は欧米人みたいに首を竦めた。ブレザーの肩に皺が寄って、そして解れていく。

「期末試験も手伝ってよ」

「やだね」

 そう言いながらも、俺は結局手伝うことになるのを知っていた。

 涼は勉強が苦手で、行き詰まるとすぐに俺に頼ってくる。両手を合わせて拝むように頼まれると、どうしても断れない。多分俺が三人兄弟の長男で、いつも弟の面倒を見ているせいだ。涼の背が俺より高ければ、そんな気にもならないが、不幸なことにすぐ下の弟と背格好が似ている。

「それって、いつまで付けとかなきゃいけないんだ?」

 左耳を指差して問うと、涼は少し困った顔をした。

「一ヶ月ぐらいって、ネットには書いてあった。でも、どうしようかと思って」

「どうしようかって?」

「本当は、あの日のうちに外すつもりだったんだよ。でもこのファーストピアスってやつ、固くてさ。ペンチで外そうかと思ったけど、やっぱり見えないと怖いし」

「ペンチぃ?」

 思わず少し大きな声を出してしまった俺は、慌てて周囲を見回す。誰もこちらには意識を向けていない。胸を撫で下ろした俺は、少し声量を下げて改めて訊ねた。

「ペンチで外せるのか?」

「そう書いてあった。力の強い男なら、指で両方を持って引っ張ればいいらしいけど」

 涼は自分の両手を広げて、俺に見せる。どうやら何回か試したらしい。指先の皮膚が擦り剥けていた。

「上手く出来なかった」

「だからペンチか。でも折角開けたのに、勿体なくね?」

「開けたかっただけだから、これ以上ピアスぶら下げてる必要もないし。今度ペンチ持ってくるから、この前みたいに見ててくれない?」

「またファストフード店に行くのか?」

「別に休み時間の屋上でもいいけど」

 俺は大仰に眉を寄せて首を左右に振った。

「ペンチ持って屋上、なんてヤンキーの喧嘩かよ」

「ヤンキーって、言い方がオッサンくせぇな。っつーか、喧嘩ですらないだろ」

「うるせぇ。……多分、俺なら素手で外せるぜ。前に友達の外したことあるし」

 細い金属の両端を持ち、思い切り引っ張って外す。単純だけど面白い作業だったから覚えている。去年の夏に出来たから、今も楽勝だろう。

「マジで? じゃあ外して」

 涼が机に両手を付けて、身を乗り出す。ピアスに何の執着もなさそうな仕草を見て、俺は少しだけ不満を覚える。その左耳に穴を開ける時に、見守っていたのは俺だ。開けた後に紙ナプキンを取ってきて、血止めにしたのも俺。

 それを嬉々として外されたら、なんだか俺のやったことが全部無駄みたいに思えた。

「明日な。もうチャイム鳴るから」

「え、何で? 部活の前でもいいから外してよ」

「俺にも気分ってもんがあるんだよ。明日の昼休みに、屋上で飯食おうぜ。その時に外してやるから」

 涼は不思議そうにしながらも頷いた。ピアスが外せるなら何でも良い。そう言わんばかりの表情だった。

 面白くない、と俺の心の中に一つの感情が芽生える。友達と諍いをする前に訪れる、あの燻ったゴチャゴチャした気持ち。涼に対しての苛立ちにも似たそれを、俺は笑顔の裏に押し込めた。

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