ep3.赤いガーベラ

 昼間に少し降った雨は、太陽に熱され湿気となって放課後の俺達に襲いかかる。真夏よりは気温が低いが、そのせいで中途半端に蒸発した水分が地面から離れない。

 俺はラケットに載せたテニスボールを転がしながら、その表面にこびりついた泥が乾くのを待っていた。座っているベンチからは、四つのテニスコートが見回せる。そのうち三つは女子テニス部のもので、男子に与えられたのは残った一つだ。部員の数が圧倒的に違うから、この扱いに不満はない。

 俺の足元にボールが一つ転がってきた。それも泥を被って茶色くなっている。新しいテニスボールであれば、まだ泥が付着しても落としやすいのだが、一年以上使った物ではそうもいかない。

「やっぱ雨上がりは駄目だよ。ボール飛ばない」

 コートの方から涼がやってきて、不満を零した。このボールは打ちそこねたものらしい。ラケットのヘッド部分で器用にボールを掬いあげた涼は、苦い顔をしている。

「部長が、あと二セットやったら終わりだってさ」

「ボール飛ばないから?」

「コート整備が面倒になるからだろ」

 コートは皆の足跡やボールの痕跡でグチャグチャになっていた。確かにこれを綺麗に均すのは大変だ。

「なぁ、今日も付き合ってくれねぇ?」

 涼が少し小声で言う。別に隠すようなことでもないだろう、と思いながら俺は小さく頷いた。

「何しに行くんだ?」

「スマフォのカバー買いに行く」

 涼がスマートフォンの機種変更をしたのは、つい一ヶ月前だった。前と同じように、カバーを付けずに使っているのを俺は知っていた。



 学校の最寄り駅から地下鉄に乗って二つ目の駅に、大きな家電量販店がある。地下二階、地上八階建て。家電とそれに関するものを思いつく限り詰め込んだような店舗は、平日の夕方だというのに人が多かった。

「スマフォカバーって何処で売ってんの」

 店に入るなり、涼が困惑気味に呟く。この広さでは無理もない。

「一階の奥」

 俺は目の前のエスカレータの方を指差した。此処からでは見えにくいが、奥にスマートフォンの関連商品が山ほど揃えられている。

 先に歩き出した俺の後ろを、涼は素直に付いてきた。クレープ屋の時とは逆だ。

「どういうの欲しいんだ?」

「……可愛いやつ、かな」

「可愛いの好きなのか?」

「女の子って皆、可愛いカバーつけてるだろ」

「人によるだろ、そんなん」

 大量のカバーが並んだ場所までやってくると、涼は目を輝かせてそれに魅入る。素材も色もデザインも違うカバーは棚に綺麗に整列して、客達に自らの存在をアピールしていた。

「凄い。こんなにあるんだ」

「すぐに新しいデザイン出るからな。……ってか今までカバーなんかつけてなかったのに、なんで急に買おうとするんだよ」

 俺の問いに、涼は棚に伸ばしかけた手を止める。指先にはピンクを強調したマーブル柄のカバーがあった。

「……俺さ、男だろ」

「そうだな」

「でも女の子になった時の理想像ってのが頭の中にあってさ。その理想像は甘ったるいクレープが好物だったり、可愛くてゴテゴテしたスマフォカバー持ってたりするわけ」

 再び涼は手を伸ばしてカバーを取った。

「五万円で、その理想像を模倣しようと思ったんだよ。そうしたら諦められると思ったんだ」

「何で?」

「だって俺にはそういうの似合わないし、好きでもないから。手に入れたら「やっぱり俺には要らないな」って諦められる」

 二日前に甘いクレープを食べながら泣き言を言っていた姿を思い出し、俺は納得する。しかし同時に、あることに気がついて素っ頓狂な声を出してしまった。

「……え? じゃあカバー買っても使わねぇの?」

「使わない」

 涼は躊躇いもなく答えた。思っていた素材と違ったのか、マーブル柄は棚に戻される。

「だってカバーとか好きじゃないから。端末のあの感触が指に触れるのがいい」

 三十分ほど悩んだ末に、涼は一つのカバーを選んだ。

 透明なケースに本物の花とビーズが埋め込まれたもので、沢山の赤いガーベラが雨に濡れているかのようなデザインだった。

「こういうの欲しかったんだ。ちょっと大人っぽいけど可愛くて、ストラップ通す穴がついてるやつ」

 涼は嬉しそうに言って、カバーの表面を指で撫でる。本当に、欲しくて欲しくて堪らなかったのだと、俺はその仕草を見て理解した。

 大事な宝物を扱うかのように、涼はそれをレジへと持っていった。でも俺は、涼がそのカバーを使う姿を、遂に一度も見ることはなかった。

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