第90話 水どろぼう

 2021年4月8日 14時50分。A県B市 B簡易裁判所 第***法廷。


 来月の13日に判決を言い渡すと、法廷の最奥で裁判官が告げた。


 裁判官から見て私は右側。長机に3つの椅子。彼からもっとも近い椅子に私は座っている。

 私の真正面にはD。48歳の男性。小太りな身体の天辺から無造作に伸びる黒光りした髪。黒いパーカー。

 やけに青いジーンズを履いていた筈だ。男の服装なんてものに──それが延滞客なら尚更──興味はないが。

 どんな判決が出るんですか? と裁判官に質問して、当然に一蹴されたD。納得できないといった表情だ。


 判決の内容は容易に予測できた。当社が代位弁済した──契約者の代わりに家主へ支払った──未納の水道代を払ってくれという訴訟。『全部払え』という此方の主張は認められる筈。第3回まで口頭弁論をして、やっと得られるだろう結論がそんな当然のものだとは。更にはそれが何の意味も持たない事を、私は理解していた。まさに徒労。


 判決の取得と実際にカネを回収できるかどうかは全く別問題。カネがなければ、回収はできない。Dに差し押さえるモノは無い。最初からわかっている。それでも単に会社員として『やってますよ』のポーズは必要だった。そしてDとは一度、面と向かって話をしてみたかった。それだけ。判決はたぶん私の──当社の──望むものになる。繰り返すが、その判決には価値がない。


 家賃保証会社の保証内容をしっかりと把握している人は、不動産会社や家主ですらあまり居ないのではないか。

 入居者(=契約者とする)はあまり意識しないし、しても仕方ない。なぜならそれは部屋の貸主が『取りっぱぐれない』点での重要事だから。


 保証内容──何が未納の場合、どこまで家賃保証会社が入居者の代わりに弁済するか──の筆頭は当然、家賃・共益費。未納の場合は保証会社が入居者に代わって弁済する。その他、更新料や早期(短期)解約違約金や原状回復費は、上限はあるにせよ大抵は保証内容に含まれる。もっとも、家賃保証会社・商品によって様々でもあるが。

 その中に『変動費』という項目がある。


 変動費とは簡単に言えば毎月変動する費用──水道代や電気代、ガス代といったもの。ピンと来ない方がいるかもしれない。そんなもの、家賃保証会社と無関係だろう?

 確かにそのケースが一番多い。私も賃貸マンション暮らしだが、不動産会社とは無関係にライフラインの契約をしている。

 しかしそれなりの割合で、家主・不動産会社が変動費を入居者へ請求する物件は存在する。


 一番シンプルな例を書く。水道代のケース。

 1人の家主が所有する1棟のマンションがあるとしよう。水道代は水道局へ一括して家主が支払う。個別の部屋にはそれぞれの入居者が使った分だけ家主が請求する。もちろん適当に請求するわけではない。各々の部屋に設置されたメーターを計測し、多くの場合は水道局が公開する料金表に沿って算出する。入居者への請求は毎月だったり、2カ月に一度だったり。


 ケチな話を書くならば各世帯へ多少の額──数十円から百円程度だが──を水増しして請求している物件も存在する。これが小さく儲かるんだと公言する家主も、いるにはいる。けれども普通は適正な額が請求されている。入居者にとっては損なシステムでもない(ただし毎月数千円単位を水増ししていた家主も相当にレアだが存在した)。


 この水道代を家主が請求するシステムに、家賃保証会社にとって問題が発生する余地がある。

 水道代だけが延滞し続け、にもかかわらず水道が使用され続けるのだ。


 各世帯が個別に水道局へ契約する場合、料金が未納であればいつかは停止する。

 しかし一括して家主が支払う場合は当然、水道局は個別世帯への停止はしない。

 家主が止水栓を回して給水を停止するケースはあるかもしれない。が、家賃保証会社が変動費(水道代)の代位弁済をしている場合、家主には損失が発生していないのだ。それだと家主がライフラインを停めるという手段を取る事はまず無い。そうする理由もない。


 では家賃保証会社として『延滞しているので水を停めてください』と家主へ依頼する事はあるのか? 私は聞いた事がない。もちろん私もそんな依頼をした事がない。

 法的にどうなのか弁護士に確認したわけではないけれども、そもそも停めていいのかとも思う。それに、そんな事を依頼して家主と入居者間のトラブルへと発展した場合、こちら(家賃保証会社)としても困ってしまう。

 家賃保証会社の管理(回収)担当者が止水栓を回して水を停める? ──それこそ『一体何の権利があって?』だろう。


 さてここからが今回の、令和の水泥棒のお話。

 

 例えば6月分の賃料(5月末が支払日)が5万円、水道代が5千円だったとする。支払いはなく、家賃保証会社が家主へ5万5千円を代位弁済した。

 水道代は2カ月に1度、家主から入居者へ請求する物件。7月は家賃5万円のみが家賃保証会社へ代位弁済請求(延滞してるから代わりに払ってねという請求)された。

 7月*日に6万円が入居者から家賃保証会社に支払われたなら、6月分の賃料・水道代から先に充当処理するので水道代の未納自体は消える。7月分の家賃は45000円が延滞として残る。これが普通だ(なお、6月に請求された水道代は、大抵は2ヵ月前などに使った分である。そんなにリアルタイムに計測して請求できないから)。


 では水道代『だけ』を払わないというケースはあり得るか? あるのである。


 これまで何度も書いた生活保護制度の『代理納付』を思い出して頂けたら幸いだ。一言で言えば役所が直接に家主・不動産会社、場合によれば家賃保証会社に家賃を振込するシステムである。

 このケースで毎月、不動産会社・家主へ家賃だけが支払われてしまうと、水道代(変動費)のみの延滞が発生してしまう。

 あくまで役所は家賃として毎月支払っている。家主や不動産会社もそのように取り扱う。実際、その通りといえばその通りなのだ。

 

 しかし家賃保証会社にとっては、ちょっと困った事になる。

 家主から家賃保証会社へ代位弁済請求されるのは変動費のみ。家賃自体は役所から支払われている。もちろん家主自身が信頼関係の破壊という名目で部屋の契約の解除をしたり明渡訴訟をする事は不可能ではないとは思うが、家賃保証会社が入っている場合はまずその対応にはならない。


 家賃保証会社と契約していて賃料等が未納の場合、部屋の契約解除や明渡訴訟は家賃保証会社が主導する。形式的には家主が部屋の契約を解除し、明渡訴訟を行うが、主導し費用を支払うのはあくまで保証会社だ(騒音がうるさいとか隣近所に暴力行為を働いているから追い出したいという賃料未納と関係ない場合は話が別)。


 変動費のみを未納の場合で、部屋の契約解除やましてや明渡訴訟を主導する家賃保証会社というのは、無いのではないか。そもそもできるのか?

 とはいえ、交渉して退去させたくても家賃自体は役所から支払われているのだから材料が乏しい。

 だから、電話したり訪問したりのフツーの督促を延々と家賃保証会社は行うハメになる。

 払えないなら退去を促しもするけれども、そこで改めて『変動費のみ未納』という制限が出てくる。月々の金額としては決して大きな額ではないのだ。管理(回収)担当者にとって、対応がどうしても後回しになる。


 今回のお話は2カ月に一度の水道代が平均2万5千円の兄弟のお話。

 1年半程前からそうなった。入居して3年だが、それまでは2カ月で4千円程度だった。当時は支払っていた。急に水道代が増えた。

 2カ月で2万5千円。物凄い水道代である。だが2万5千円程度ともいえる。私の数字とって殆ど影響しない金額なのだ。だからどうしてもおざなりになる。


 Dは延滞客の常として非常に連絡が取りづらい。部屋の契約者であるDとは1年間、会話ができていなかった。最後に話した時には『水道代が高すぎる。調べる』。それ以前も同じ事の言葉を繰り返していた。たまに払ってきたがそれも数千円だ。


 訪問をすると決まって『Dの弟』と名乗る陰気な男がドアの隙間から視線を寄越す。『兄は不在』。そう言ってすぐにドアを閉める。インターホンを押し、ドアを叩いても出てこない。それから数時間後には部屋の契約者であるDから『脅しだ』『弟の精神病が悪化した』とSMS(SNSではない。念のため)が届く。いつ支払うのか? と返信しても『高すぎるから調べる』。その繰り返し。

 月日は経過し、いよいよ延滞額は20万円を越えた。水道代だけで。男2人の世帯で。たかが1年半で。


  前置きが滅茶苦茶長くなって大変申し訳ない。


 例えば貴方の水道代は月においくらだろうか? 私は男で、独身だ。帰省時や旅行先では別として風呂には──あまり聞こえはよろしくないが──まず入らない。朝・夜2回のシャワーで済ませる。多少は料理もするが、水はそれ程に使わない。だから私の水道代は月に1800円前後。


 家族が居れば多少は増えるだろうが、それにしたって──男兄弟2人で2ヶ月で平均2万5千円も水道代を使うものか? 異常である。しかも生活保護世帯である。


 日本にスラムは無い。少なくとも2022年時点では。ただし大抵の市や区に、やたらと生活保護受給者が集まっているエリアは存在する。D兄弟が住む部屋もそういうエリアにあった。


 水道代の延滞が20万円を越えた時点で次の手段を採用した。支払督促を申立てした。

 支払督促とは物凄く簡単に言えば『郵便で行う裁判』である。相手から異議がなければ判決と同等の効力を持つ支払督促を取得できる。ただし相手から異議が出れば──異議の内容は何でもいい──通常の訴訟に移行する。当然のようにDから異議が出た。『水道代が高すぎる』、だってさ。


 因みにこの支払督促とそれからの訴訟は、単なる『カネを払ってくれ』という請求だ。だから家主は関係しない。債権者はあくまで『未納分の水道代を立替えた』家賃保証会社。


 2021年2月にB簡易裁判所で行われた第1回口頭弁論に出廷した。

 初めてDの顔を見た。正直に言えば、『弟』と名乗る男がD本人ではないかと疑っていたのだ。違った。『水道代が高すぎる』──だったらDがその額ではないと証明しろと裁判官が命じて第2回口頭弁論の期日が設定された。


 小さな話になるが、裁判の開廷曜日は担当する係によって決まる。本件を担当したB簡易裁判所L係は毎週木曜日に開廷だった。とはいえ、毎週毎週本件を行うわけではない。大抵翌月になる。結局3回もの口頭弁論を行った。


 2021年3月、第2回口頭弁論。

 Dが持ってきたのは家主からの──正確には家主が雇った管理人がドアポストに入れた──水道代の請求額。高すぎるでしょう? とDは言った。確かに高すぎる。だがDが出してきたのは単なる請求書面だ。それだけ。安い頃も高い頃もある。それに何の意味があるんだ? 「水道メーターを見ていたんですけど、水道使ってないのに勝手に動いてました」とDは言った。


 請求書面には何の意味もないと裁判官は判断したが、私に視線を移して『調査をしてきてほしい』と言った。

「調査って何をすれば?」

「メーターが勝手に回ってないかとか、漏水してないかとか」

 裁判官は無表情に、ゆっくりと応えた。私は溜息と共に返す。

「普通に考えて、そんな事あると思いますか?」

「それでも異議が出ていますから。今度はそちらが調査しないと」

 無意味だとたぶん裁判官も察している。そのような意識の影が表情に現れた気がした。


 聞こえぬように再度、溜息を吐く。有り得ない。2カ月で2万5千円。そんな量の漏水が起きていれば誰でも気付く。そもそも私は支払督促を申し立てる前に家主側へ確認しているのだ。漏水などという話は無い。Dの部屋は3階だ。そして水道メーターが勝手に回るなど普通に考えて、無い。

 私はD宅へ幾度も訪問している。メーターも都度見ている。水道メーターが回っている事もあれば、回ってない事もあった。回っている時は居留守だし、大抵は『回ってなかった』のだ。


 前述したように第1回口頭弁論ではDに、金額がおかしいというなら調べてこいと裁判官は命じている。その結果は全然『お話にならない』ものだったけれども、それでも次は私に『調べてこいと言わなしゃあない』のだろう。仕方ない。


 裁判所からの帰り道にDの住むマンションに向かった。報告書を出すにしても、一応は体裁を取り繕う必要がある。どんなに馬鹿馬鹿しくとも。


 一般的な『マンション』という単語とはかなりイメージの異なる建物。古ぼけた団地といった方が適当。それが5棟並んでいる。全て同じオーナー。地元の建築会社の持ち物だ。


 外壁や通路のあちこちに『タバコを通路に捨てないでください』『ゴミは決まった曜日に出してください』『粗大ゴミをゴミ捨て場に捨てないでください』『夜中に大声を出さないでください』……等々の注意書きが貼られている。つまりはそういう人間が多く住む物件。

 賃料は生活保護の住宅扶助で賄える額。生活保護受給世帯が多く居住している。

 

 管理人は日曜日を除く日中は常駐していると建築会社(家主)の事務員から聞いていた。

 8畳程度の大きさのプレハブ小屋が駐車場の片隅にある。それが管理人室。

 私自身はこれまで管理人には会った事がない。プレハブの横開きのドアをノックする。カーテンがかかっており室内は見えない。

 訝し気な表情を隠さない、太った初老の男が現れた。名刺を渡す。相手の言葉を待たずに──自分は家賃保証会社の社員で、Dの部屋の件で裁判をやっていて、水道代は家主(建築会社)へ代位弁済しているが延滞し続けているので裁判をしている……と説明する。何なら家主に聞いても良いからとも付け加えた。

 彼は『裁判』という言葉に反応した。そしてDの名前にも。別段こちらを疑ってもいない。もちろん私は全く嘘をついてはいない。彼にしても家賃保証会社が何をしているかくらいはわかってもいたのだろう。


 プレハブ小屋の中は、簡素で清潔だった。ダイニングに置かれるような4人掛けテーブルがあり、促されるまま椅子に腰掛ける。

 管理人が座るのを待つ。彼に視線を合わせたまま「改めてご説明します」──私は訴状を取り出し、丁寧にページをめくった。


「こういう裁判やってます。水道代は弊社が家主さんへ払ってます。Dさん自身は払ってません。仕方ないので裁判となりました。Dさんは水道代が高すぎると裁判所で主張しました。裁判所から調査しろというので、ご迷惑かとは思いましたがお伺いしました」


 彼が各部屋の水道メーターを測り、金額を算出して家主(建設業者の社長)へ報告する。その後は彼が各部屋に水道料金を書いたメモを投函する。その流れを確認した。

 水道代の算出は行うが、カネの管理には彼はタッチしていない。メインの業務は掃除や物件の設備管理。


 彼はしきりに『自分はちゃんとメーターを測っている』と繰り返す。大丈夫。そこは疑ってないから──ただ漏水の可能性はあるか?


「下の階にも人は住んでますけど、何も言ってきませんし。特に漏水しているような様子は無いです」


 彼は、直角で酷く座りにくい木製の椅子に深く腰掛けて続けた。

「Dさんねぇ……(水道代)高いですよね。前任者から聞いてたんですよ」

「何をですか?」

「弟さんいるでしょ?」

「はい」

「精神病らしくて、すぐに水道出しっぱなしにするそうなんです。だから気を付けろって。社長(建築会社の社長=家主)も知ってますよ」

「まぁ、何となく精神病っぽい弟は、私も見た事はあります」

「わたし、たまにDさんと顔を合わせますけど、水漏れなんて言われた事ないですよ」

「次回の裁判で調査報告書を提出する必要があります。管理人さんのお名前を出してもよろしいですか? もちろん、管理人さんはちゃんとお仕事をされていると書くだけです。問題があるなら家主さんを通じてお願いしますが」

「問題ないですよ」

 それからメーターの計測サイクルと金額の算出法を聞く。金額はB市水道局の定める料金表に沿ってだ。問題ない。彼は機械的に仕事をしているだけ。

 もっとも、口調から入居者を『お客様』とは見てない雰囲気だった。そりゃそうか。タワーマンションのコンシェルジュとは違うのだ。


 プレハブを出て、Dの部屋へ向かう。ドアの左には小さな鉄製の扉。開けるとライフラインのメーターが収まっている。水道のメーターを撮影する。報告書に載せるためだ。少なくともいまは水道メーターは動いていない。


 別の1棟に向かう。Dの部屋よりも賃料は安い。Rという25歳の男の部屋へ訪問するためだ。

 周辺にはRの母親と弟も住んでいる。いずれも当社の契約者だ。

 3人共、2ヶ月分延滞を貯める事はないが、毎月延滞する。Rと母親は生活保護だけで生活。Rの弟は日払いの派遣会社で働いてる。

 弟は毎月20日~25日に支払をしてくる。その辺りに家賃が払えるだけのお金が貯まるからだ。今月は25日までには支払いたいと連絡を受けていた。

 母親は既に支払は済ませている。月初めに生活保護を受給しているのだから、本来は遅すぎるくらいだけれども。


 Rは、電話連絡をしても出ない。本来はわざわざ訪問するまでもなく母親に何日か電話を続ければ『Rに伝えて支払わせる』という回答が得られる。しかし別件とはいえRの部屋の近くにいるのだから訪問しようと考えた。

 何せRとは一度も話をした事がない。電話を続けても電話には出ない。母親に連絡すると、前述したように『Rに伝えて支払わせる』という返事をもらって、実際に支払はある。その繰り返しだったから。一度見てみたかった。


 Rの部屋は、Dが住む部屋の隣の棟のその2階だ。

 所々塗装も剥げて錆の浮いた深緑のドアの前に立つ。インターホンを押しても反応がないので、ドアをノックすると、物音が聞こえた。

 ゆっくりと顔を見せたのは背の小さな肥満体。灰色のスウェット。髪は坊主。私がRよりだいぶ年長だという点を差し引いても、かなり幼く見えた。


『家賃の件で』──話を切り出す。

「家賃の事、わからない。いつもお母さんにやってもらっているから」


 彼の言葉を聞きながら室内に視線を這わせる。天井から延びる、垂れ幕のような大きな青地のタペストリーが見えた。長い金髪の美少女キャラがプリントされている。ゲームかアニメ、或いはマンガのキャラクターだろう。それ以上は、私にはわからなったけれども。

「お母さんにお金を渡しているって事ですか?」

「いや、通帳もお母さんが持っているから」

 上の空といった声音。何というか、寝ている人間と話している錯覚を憶える。同時に、コイツと話しても無駄だという確信も──コイツ、どこかおかしい?

「じゃあ今、お母さんに電話してもらえませんか?」


 居室に戻る彼の隙間から室内を観察する。沢山のマンガやフィギュア、ゲームの箱が見えた。

 戻ってきた彼のスマホから母親の声が微かに聞こえた。スピーカーにしてもらって私の前にかざしてもらう。


 今月はまだRの家賃は払ってない。明日Rの通帳からお金を引き出し支払うという結論。実際、お金の管理は母親がやっているという。Rには金銭管理が全くできないと、スマホから音が聞こえた。だったら、今でも徒歩で10分程度の場所に住んでいるのだ。お互い生活保護で生活している。同居すればいいじゃないか? と思ったが、口にはしなかった。

 たぶんこの部屋は彼女らにとって、都合の良い座敷牢みたいなものなのだろう。


 2週間後に『管理人』からメールが届いた。私の名刺にはメールアドレスが記載されている。メールが届くのは不思議ではない。

 彼は私と話したその日から、毎日Dの部屋の水道メーターを撮影していた。頼んでもないのに。『裁判』という単語が彼の好奇心を刺激したのか。日付と時間。ほぼ毎日朝夕2回撮影されている。メールの文面からも、スパイごっこでもしているような楽しげな様子が読み取れた。


 2週間分のメーターの動きを4倍(つまり2ヶ月分)にすると、2万円を軽く越える。メーターが勝手に回っている様子はない。


 調査報告としては、この程度で充分だ。さすがに壁の中は調べようもないし必要もない。下の階から水漏れの苦情はない。

 結論は『D兄弟が確かに水を使ってます』以外に有り得ない。管理人からの写真をプリントした調査報告書を作成。裁判所へ郵送。そして時間は冒頭の日付へ進む。


 2021年4月9日。第3回口頭弁論。


 私の主張は単純。管理人から聴取もした。写真もある。メーターに異常は無い。階下の住人から水漏れの苦情も無い。『使ったものは使った』としか解釈できない。『こんなに水道代が高いのは、弟がキチガイだからなんですよ』──そう付け加えたかったがさすがに止めた。証明できないし、裁判官の心証を悪くして私にメリットは無い。


 判決の言い渡しは来月。出廷する必要はない。郵送で送られてくる。

 閉廷するとDは足早に裁判所2階の法廷から出て行った。


 第1回口頭弁論で私は『当社としては和解する用意はある。支払を分割でしたいというなら検討する』と発言している。結局、全く乗ってこず『金額が高い』とだけ言い続けた。支払う意思はないし、実際問題として2ヵ月で平均2万5千円の水道代が発生し続けているのだ。収入は生活保護のみ。

 この水道代に変化がないとすれば、2ヵ月で2万5千円プラス〇〇円を払わないと負債は減らない。彼(彼ら兄弟)には不可能。

 訴状の額は提訴した時点での延滞額だ。その後も2カ月に一度の水道代の延滞は増え続けていた。既に30万円くらいの水道代が延滞しているのだ。裁判中も一切、水道代は減らなかった。


 裁判官と書記官に一礼、私も法廷を出る。通路を歩きながら振り返ったDと、一瞬だけ目が合う。彼はすぐに前に向き直り、歩調を早めた。


 2021年5月。私の主張が完全に認められた判決が出た。Dから異議は出なかったのは意外ではあった。しかし繰り返すがこの判決自体に意味はない。カネが回収できるわけではない。


 B市役所の生活保護担当部署に電話をかける。水道代を払ってないから払わせてくれとこれまで何度も伝えている。個人情報保護の一点で何も回答しない職員だ。判決が出た事を伝える。差し押さえもできると付け加える。もっとも、できるといったって、差し押さえるものなど何もないのだが。


 相変わらず何も応えない保護課担当者に、裁判で判決もでているんだから、分割で支払いたいなら検討するとDに伝え、指導してくれと3回繰り返した。


 半年後、D兄弟とは連絡は取れず、相も変わらず高い水道代は加算されていった。しかし彼らはその2ヵ月、普通に部屋を解約し、退去した。管理人に裁判の事を知られたので居づらくなったのかもしれない。

 転居費用はどう考えても保護課から支給された筈だ。ともあれD兄弟はいなくなった。後は退去後の債務を猟犬よろしく追跡する部署の仕事。私にとっては解決だ。


 日本にスラムは無い。しかしD兄弟、R兄弟とその母親が住む町内は生活保護受給者が多く住むエリア。念のため明確に書いておくが、私は生活保護制度には全く反対ではない。差別心もない。制度が不足してるとすら考えている。特にシングルマザーへの福祉制度は改善すべき点が多過ぎる。

 そもそも私だっていつ生活保護を受けるのかわからないのだから、制度自体に反対する理由がない。


 生活保護制度は皆の税収で成り立っている。私だって微々たる額だが納税者だ。


 私は生活保護制度に反対ではない。足りないとすら思っている。

 それでもだ。言うてはなんだが、Dのような、こんな、穀潰しみたいな連中まで養える程、日本は豊かな国なのか? 


 そして私は何故、こんな連中のために更に苦労しなければならないのだ? 福祉制度を拡充すべきとは考えている。差別心だってない。それでも、その不満は拭えない。

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