出て行くか、払うか──家賃保証会社の話
0207
第1話 死体部屋
玄関ドアが開いた瞬間──あ、意外。そう思った。
14時。東京都T区。
締め切ったカーテンのせいもあって暗い部屋。
電気が停まっているのはわかっている。玄関からすぐにダイニング。居室との境を仕切る横開きの戸は開いていた。
玄関に立つ警官の肩越しに、寝姿のシルエットが見える。
直角に硬直した左肘から先は、宙を指していた。掌は宙で開いている。
仮に何も見えなかったとしても室内に何があるのかは、強烈な臭気が知らせてくれる。死体。間違いなく。
「どうします? 入るんですか?」
目の前の警官に話しかける。定年間際といった年齢の、事なかれ主義を体現したような風貌。死体があるといっても、どうせ事件性などない。それはお互い、なんとなくわかる。よくある状況だ。
何の事件でもない。自殺か病死か。それはわからないが。
とはいえ仮に殺人事件だったとしても私には、だからなんだという話でもあるが。
死体の第一発見者になる、などという面倒な事を回避する為に、警官をわざわざ呼んでいる。
何の問題もない。仕事を一つクリア。それだけ。
「いやいや、ちょっと連絡してくるよ」
身を翻して警官はマンションの外へ向かった。
少なくとも1時間半はここに拘束される。憂鬱になる。案件が「解決」したのは悪くないが、仕事は他にもあるのだ。
この思考はたぶん、何かが間違っている。だが、仕事なんてそんなもんだ。
臭いがきついし、単なる会社員の私が警官より先に入室するメリットもない。第一、するべきでもない。彼の後を追ってマンション入口へ向かう。
4回は来ているマンションだが、改めて見なくても旧い。1DK。23区内で家賃7万円。旧くて当たり前。その割に大した気密性だ。ドアを開けるまで全く臭いに気付かなかった。
これは珍しい事だ。機密性が高すぎるのも、あまり良い事でもないと思う。『腐りきった死体』になりたい人は、そんなにいないだろう?
1階で通信を終えていた警官に話しかける──「いやぁ全然気づきませんでしたねぇ」
「本当だね。驚いたよ。やっぱり……多い?」
何が? 孤独死が? 病死が? 自殺が? いや、死体を発見する事は多いのか? という事か。
「多いですね。特にこの辺りは、独居老人とか生活保護の人も多いですし。自殺もそれなりにありますし」
部屋に死体が一つありました──なんて事は、警官の彼にとっては『よくある事』だとは思う。しかし他の区や市と比べてどうなのか?
これは、数字の上ではともかく実体験としては把握できていないのかもしれない。
「目黒区では、あんまり『死体部屋』の話は聞きませんけどね」
業界用語ですらないが、私や同僚は遺体──特に腐乱死体──が見つかった部屋を『死体部屋』と呼んでいる。どうやらその語感は警官に通じたようだった。
正確には、実際には、何区だろうが孤独死も自殺も存在する。
成城マダムや世帯年収が日本で最も高い特別区にだって当然に、ある。超高齢化社会だ。
豪邸の傍に家賃5万円のアパートがあるのが日本だ。同じエリアに貧乏人も金持ちも住んでいる。貧困からの自殺も当然ある。
「そりゃ、あんな都会には少ないだろうね」──警官が嘆息混じりに笑う。
あまり「死体の臭い」が平気なタイプではないのかもしれないと、思った。
改めて死体──間違いなく『当社の契約者』──についての情報を話していると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。1ヵ月以上ドアの開閉がなかった部屋へ向かって。
どう考えても、サイレンまで鳴らして駆けつける意味は既にない。
死体の腐敗が進んでいる事は、臭いだけでもわかる。
ただ、どうせ葬式らしい葬式も行われないのだと思う。だったらこれが葬送曲代わりかもしれない。
死者──契約者の母親は、長いあいだ連絡も取っておらずどこに住んでいるのかさえ知らないと言っていた。
もっとも、集合ポストに溜まった沢山の通知からは、借金もそれなりにあったと推察できる。もしかしたら金融会社から親元へ頻繁に連絡があるため、嘘をついたのかもしれない。
救急隊員に私自身の身分と状況を簡単に説明する。担架を抱えて彼らはすぐに部屋へ向かう。警官と一緒に私も再度マンション内に入る。エレベーターは無いので階段。
カギは開いている事を告げる。靴をビニールでカバーして、彼らは室内に入っていった。振り返ると──たぶん刑事課だろう。男性が2人、階段を上ってきた。
室内から飛んできたハエを手で遮り、挨拶する。
名刺を渡して、なぜ警察に安否確認の要請を行ったか伝える。既に警官に説明している内容なので面倒なのだが仕方ない。救急隊員の1人も話に加えて、居住者の情報を話す。
まだ5月も半ば。今月3度目の死体部屋。
私は家賃保証会社の社員で、滞納している家賃の督促をする人です。
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