【5】

家の外でびゅうびゅうと風が吹いている。秋の粧いもまだ半端なままに北風が吹いて気温は下がり、枯葉は吹き飛び、もう冬ではないのかという雰囲気が街を覆っていた。涼子の部屋には窓がなく、そういった季節の変化も感じられない。テレビがいつも点けっぱなしていて、ワイドショーの天気コーナーなんかから情報を得ていた。

 今日も流れる若いキャスターの爛漫な声を聞き流しながら、涼子は枕元のいちごを見つめていた。それは数日前に父が貰ってきた見舞いの品だ。あの時食べた林檎から、籠から果物はほぼ減っていない。自分で食事のできない娘に、年老いた父母だけの家庭なのだから当然だ。涼子はその籠を眺めながら、先日食べた林檎の味を思い出す。病の進行はだんだんと速くなっている気がしている。つい先日までひじから下が動かなかったものが、だんだんと肩に達してきている。もうとっくの昔に死んでしまう覚悟はしたつもりだったが、『つもり』はあくまで『つもり』だ。実際にただの一人の若者がそんな覚悟などできているはずもなく、辛さと苦しさで過呼吸を起こしそうになる。病気なら病気で、なぜひと思いに殺してくれないのか。一日一日、何もできない長い時間を、怯えながらベッドに寝転んでいるしかないことが、こんなにも恐ろしく苦しいのに。そんな覚悟をするくらいなら、生きることに固執して、みっともなく泣き叫び、八つ当たりをするほうがいくらもましだ。だから失われたと思っている生きるための力の少しばかりを、まだ残っていると証明したかった。

――あのいちごなら、私一人でも食べられるかもしれない。

そんなことを想った。何よりそれはもうすぐ、確実に不可能になるものだったから。自分の命が後どれだけあるかわからないが、肩や腰が本格的に動かなくなれば自分は何の動作もできなくなるし、顎が動かなくなればもう食事は不可能だ。そんな思いつめた感情が、『いちごを一人で食べられるかもしれない』という感情を焚きつけていく。

――這いつくばってでもいい、あれを、いちごを一口、齧ることができれば。何かが変わるんだ。

涼子はまず、寝返りを打とうとした。肩の関節はまだ動いていたから、匍匐前進で籠までたどり着ければ簡単だと考えたのだ。しかし、やはりもうこの体ではそう上手くもいかない。腰をひねり、上半身を持ち上げようとした瞬間、腰から激痛が走る。すでに水晶化した腰から下の皮膚と、そうでない境目の部分がぎりぎりと音を立て、思わず悲鳴を上げそうになるが、ぐっと我慢して思いからだを引き起こす。腰の皮膚がぷつ、ぷつと嫌な音を立てる。まるで紙でもちぎるかのように、皮膚が割れ、血が出る。だがやっとのことで中ごろまで体を持ち上げれば、あとは倒れこむだけで、楽だった。少し呼吸がしにくかったが、両肩をもぞもぞ動かし、硬化した腕をつっかえ棒のようにして上体を起こす。そこまでたどり着くことに数十分をかけ、さすがに汗だくになったが皮膚がちぎれる痛みを伴わないだけ楽だった。あと少し、あと少しと自分に言い聞かせながら涼子は、果物の籠へ這っていく。手は使えないから、犬のように口から迎えに行く。それでもいい、自分でものを食べる、それだけができればいい。それ以外のことは全部、考えないようにした。

 あと少し、あと少し、あと少し。まつ毛に触れる汗が目に入りそうになっても目をつむらない。それを拭うこともできないし、今はまばたきさえ怖かった。少しずつ、まだ遠い。右の肘を引きずりながら少しだけ前へ出す。口から迎えに行こうと首を伸ばそうとしたものだから、鎖骨あたりの肌が引っ張られて痛い。何かがちぎれたような感覚もある。もう少し。左肘を前に出す。心が焦って、体の自由が効かなくて、思ったよりも前へ出してしまう。意識が一瞬途切れ、ぐらりと視界が回る。肩の筋肉だけで支えていた限界で、意識の途切れとともに力が抜け、とっさに手をつくこともままならず、涼子はベッドから転げ落ちる。

がん、がた、がしゃん。

――がしゃん?

思わず耳を疑う。予想もしていなかった嫌な音。きっと、ベッドから転げた拍子にコップかなにかを割ったんだ。そう思いたかった。涼子は、痛みに耐えながら恐る恐る目を開ける。

 下半身が割れていた。

 悲鳴を上げた。そこまで大きな声を出す力があったのかと驚くほどに大きな声で叫んだ。その様子の凄惨さからでも、耐えられない痛みがあったわけでもない。涼子は今までまだ目をそらし続けていた異様な部分を、この上なく実感してしまったから泣き叫び、喚いた。彼女の下半身はもう肉ではなくなっていた。落とした陶器人形のように粉々になった足のかけらたちは散乱し床できらきらと輝いていた。割れたその断面からは血一滴流れておらず、そして痛みも感じていない。涼子の下半身はもう完全に水晶石と化していたのだ。彼女は、もう既に彼女は、

――もう私は、心臓が動くことだけが許された石っころだ。

起き上がることもできず床でなく涼子の顔の近くには、はずみで籠から落ちたいちごや林檎が転がっていた。少し這いずり、口を伸ばせば届くであろうそれは、もう涼子の視界には入っていなかった。

 間もなく悲鳴に気付いた母が駆けつけて、救急車が呼ばれ涼子は搬送された。下半身を失ったことで命に別状はなかったものの、涼子はひとしきり泣いた後、憔悴しきった。粉々になった水晶は、もう元に戻らない。

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