第3話

 折しも夏の終わりの夜半。

 盛んだった太陽の余韻よいんが熱となり、少女の眠る、野営地の天幕の中に忍び込んでいた。

「う……ん」

 少女は羅紗らしゃの敷かれたベッドの上で身をくねらせ、その白皙の肌に玉のような汗を浮かび上がらせる。

 夢を見ていた。

 少女の身体はまるで仙人のように空中に浮かび、はるか眼下に日差しのさんざめく長江ちょうこうを見下ろしている。

 一匹の竜が、長江の淵に潜んでいる。その大きさは途方もなく、中原全体を包み込んでも余りあるほどの巨体を、長江のうねりに窮屈そうに押し込めていた。

 やがて、その竜は目を見開き、少女を睨みつける。

 大地をどよもす咆哮が木霊こだまし、少女の鼓膜を震わせた。

 にわかに空が掻き曇り、無数の雷鳴が、閃光と共に大地を穿った。

 竜がその体躯たいくをくねらせる。

 長江から溢れた水が、洪水のように周囲の田畑を覆いつくす。

 そして竜が飛んだ。

 ついに雌伏の時を終え、天を昇り始めたその竜は、大きく顎を開き、まっすぐに少女へと襲い掛かってきた。

 それでも少女は、臆することも声を上げることすらもなく、ただ静かに腰にはいいた宝剣――倚天いてんを抜き放つ。

 竜の爪牙が、少女の金の巻き毛に触れるか触れないかまでの距離に接近したその瞬間、突如、竜は動きを止めた。

 翡翠ひすいのような美しいみどりだったその鱗が、濁った紫になり、竜は真っ逆さまに地面へと墜落した。

 瞬きするほどのわずかな間に、竜の身体が朽ちていく。

 それと共に、雲は遥か彼方に駆逐され、蒼天が戻ってきた。

 少女は、拍子抜けしたような心持ちで剣を腰の鞘にしまう。

 もはやただの屍となった竜の頭蓋から、小さな双葉が芽吹いていた。

「はっ」

 そこで目が覚めた。

 少女は上体を起こし、額の汗を手の甲で拭う。

「お目覚めですかー。曹操さまー。お水をどうぞー」

 近くに侍っていた少女の部下が、間延びしたなまりのある声で言う。

 鉄鋲てつびょうを打ち付けた棍棒を背負い、豊満な肉体をした彼女は、その手に木のコップを捧げ持っていた。

許褚きょちょ、見張り番ご苦労様。頂くわ」

 少女――曹操はコップを受け取ると、気持ちを落ち着けるようにその中身を一気に飲み干す。

「大丈夫ですかー? なにやら、うなされておられましたけどー」

「大したことはありませんわ。ただ、少々気になる夢を見ただけですの」

 曹操は淡々と答えた。

「ほえー。曹操様が、夢なんかをお気になさるなんてー、珍しいですねー」

 許褚が目を丸くして言う。

 彼女の言う通り、曹操は日頃占いなど気にする方ではなかったが、先ほどの夢だけは妙に気にかかった。

 曹操は、占いや託宣を始めとする迷信の類は民を惑わす悪習だと信じている。

 しかし、それ以上に深く信じているのが、自らの直感であった。

「確か、私の幕下に夢占いに秀でた者がおりましたわね」

 たとえ曹操本人は胡散臭く思っていても、部下や民衆の中には占いなどの神頼みが好きな人間もたくさんいる。政治に口を出すなどの弊害へいがいさえなければ、曹操は広く民心を得るために、そのような存在も受け入れているのだった。

「はいー。確かー、管輅とかいう人がいますよー。なんでもー、夢占いだけじゃなくてー、天文占いでも易でも人相学でも、通じてないものはないというほどの名人だとかー」

 許褚がのんびとした声で答えた。

「では、その管輅を呼んできてくださいな」

「かしこまりましたー」

 曹操の命令に、許褚がその見た目に似つかわしくない敏捷しゅんびんさで天幕の外へと出て行く。

 やがて曹操が寝間着から見苦しくない程度の服に着替えている間に、許<891A>が一人の小男を連れて戻ってきた。

管輅かんろと申しまする」

 小男は曹操の前に平伏する。

 いかつく風采のあがらない男だった。

「顔を上げなさい。先程私が見た夢について、あなたにお聞きしたいことがありますの」

 曹操はそう前置きして、夢の仔細を管輅に語った。

「なるほど。簡単なことでございまする。淵に潜む竜とは伏竜。すなわち、未だ世に出ていない有望な人材を指しております。長江でも足らぬほどの竜となれば、中原でも二人といないほどの人物でしょう。それが曹操様に牙を剥いたということは、その者が、将来曹操様の前に立ちはだかるはずだったことを示唆しているに相違ありません」

 曹操の話を聞き終えた管輅は、静かに答えた。

「では、吉兆ですのね。なにせ、その竜は私に襲い掛かる前に勝手に滅びたのですから」

「確かに、曹操様の将来の難敵が一人没したという意味では吉兆です。しかし、その屍を糧に出た芽というのが気になります。おそらく、その竜の後を継ぐ者がいるのでしょう。弟子か、はたまた子か」

「その者も、私の覇道の邪魔になりますの?」

「残念ながら、それがしにはそこまでは分かりかねます。曹操様のお話を伺えば、その芽はまだ双葉ということ。おそらく、将来の運命さだめがまだ決まっていないのでしょう。どのような花をつけるかは、これから次第ということかと」

「ふう。そうですか」

 曹操は若干失望しなら頷いた。

 占い師という輩はいつもこうだ。

 思わせぶりな言い方をして、いかにも自分だけが神秘を独占している風を装い、こちらをコントロールしようとする。

「あっ!」

 その時、天幕の入口で警備をしていた許褚が、短く声を上げた。

「どうしました? 許褚」

 曹操は許褚を横目で見る。

「お話し中すみませんー。今―、空にピカッて、綺麗な流れ星が走ったんですよー。すっごく大きなやつだったのでー、びっくりして思わず声を出してしまいましたー」

 許褚が恥ずかしそうに頭を掻く。

「なんと! 今、流れ星とおっしゃいましたか! それはどちらに?」

 管輅が声を荒らげて許褚に詰め寄る。

「えええー? 大体ですけどー。襄陽じょうようのー。西の方ですかねー」

「なるほど。――曹操様。分かりましたぞ。没した巨星の正体は、諸葛孔明。別名『臥竜がりょう』とも呼ばれ、手にすれば天下を治めることも不可能ではないという、名軍師です!」

 管輅が確信に満ちた声で叫ぶ。

「そうですの。よくわかりましたわ。下がりなさい。あなたの申すことが真実であったと判明した際には、必ず褒美をとらせます」

「はっ」

 管輅がかしこまって退出する。

「……」

 曹操は顎に指を当てて、考え込んだ。

「やっぱり、夢のことが気になりますかー?」

「ええ。襄陽といえば、確か、あの草鞋売わらじうりの小童こわっぱの劉備が身を寄せている所の近くでしたわね……」

 曹操は寝台の羅紗をきつく握りしめた。

 その名前を口にするだけでも、曹操の腸は煮えくりかえる思いだった。

 劉備は漢王室の末裔を自称してはいるが、実態はただのチンピラな傭兵だ。

 口からでまかせを並べて節操なく幾人もの有力者の下を転々とし、旗色が悪くなればすぐにそこから逃げ出す。曹操だって逃げてきた劉備を面倒みてやったにも関わらず、後にあの卑劣漢はボンクラの袁紹えんしょうと結んで公然と反旗はんきひるがえしてきた。もちろん、曹操は今までの数回の戦で一度たりとて劉備などに負けたことはない。しかし、劉備は戦には弱いくせに逃げ足だけは一流で、結局今まで奴の息の根を止めることはできていないのも、また事実だった。

 本当に喉に引っかかった小骨のように鬱陶しい存在である。

「そういえばそうですねー。じゃあ、その孔明と劉備が組んで、曹操様に歯向かうつもりだったんですかねー」

「かもしれませんわね。とにかく、まだ双葉とはいえ、劉備という虎に翼を生やしてしまうかもしれない人物を放ってはおけません」

「ですねー。せっかく、あの劉備から徐福とかいう軍師を引き離す計略を程<6631>さんが立ててくれたのに、別の軍師が出て来たら困りますからー」

「その通りですわ。このまま進軍して襄陽を奪取してさっさと劉備を殺し、ついでにその孔明もどきも手に入れてしまいましょう」

 曹操はベッドに大の字に寝転がり、そう宣言する。

「はえー。本当にー。曹操様はー。人材を集めるのがお好きなんですからー」

 許褚が棍棒を素振りしながら呟いた。

「当然です。また関羽の時のような悔しい思いをしてたまるものですか」

 曹操は目を閉じ、唇を尖らせる。

 自分は名将を手に入れるために、金や土地をくれてやり、戦争で実力を示し、時にはへりくだって名士たちの機嫌を取って、必死の思いで努力している。

 なのに劉備はどう考えても君主として仰ぐにはふさわしくない人物だし、敗戦続きで結果も伴っていないくせに、なぜか何も持っていない彼女の下には不思議と名将が集まってくるのだ。

 それがまた、曹操は気に食わなかった。

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