ガスコンの少年(4)
しかし、そんな浮かれた夢は、思いがけない悲劇によって吹き飛ぶのであった。
「親爺、すまない。さっきの客だ」
と、シャルルが旅籠に入って旅籠屋主人にそう言うと、その福々しく太った中年親爺は、
「おや? おかしいですな」
などと首を傾げたのである。
「何がおかしい? 俺の馬はちゃんと小屋につないでおいてくれたか? 預けていた皮袋を返してくれ」
「あの黄色の小馬も、あなたの荷物もありませんよ」
「は?」
言っている意味が分からず、シャルルは思わず間抜け面になって聞き返した。
「無いって、荷物が勝手に逃げ出すわけがないだろう。ロシナンテは命令されなければ、世界が滅びる日まで一歩も動かない怠け馬なんだぜ。脱走なんてありえない」
「いえいえ、あなたの従者と名乗る人が、『我があるじは宿泊場所を変えるので、馬と荷物を返してくれ』と言って来ましたので、その人にお渡ししましたよ」
「俺に従者なんていない! やられた! 泥棒だ!」
シャルルは、旅籠の主人から泥棒の特徴とどっちの方角に行ったかを聞き出すと、旅籠を転げ出て、フォブール・サン=タントワーヌの街路を飛ぶように駆け抜けた。
(畜生! 都会はコソ泥が多いから気をつけろと母ちゃんが言っていたのに! 迂闊だった!)
きっとその泥棒は、シャルルが旅籠の主人に馬と荷物を預けてどこかへ走り去るのをこっそり見ていたのだろう。
ロシナンテは役に立たない馬だが、家族同然の存在だ。皮袋の中に入っている全財産十エキュ、父直筆の我が家の家訓状、母がくれた膏薬。これらも大切なものだし、何よりも失ってはまずいのが、父から授かったトレヴィル殿への紹介状である。
シャルルが生きた時代は、現代の我々が想像しているよりも縁故が物を言った。偉い人がガスコンなら、信頼のできる同郷ガスコーニュの人間を積極的に採用するのである。縁故に頼るのは当たり前であったし、それは恥ずかしいことだという発想はなかった。
(父親からもらった紹介状を道中で紛失するような阿呆が、銃士隊に採用されるだろうか?)
くそ、くそ、くそ。シャルルはついさっきまでの甘い夢想も忘れ、絶望と焦りにとらわれて走り続けた。
すでに日も暮れ、通行人もまばらである。家々の明かりだけを頼りにシャルルは泥棒を捜した。がむしゃらに走ったため、いま自分がどこにいるのかも分からない。無事にロシナンテと皮袋を取り戻したとしても、コンスタンスと明日の朝に待ち合わせしている、例の旅籠に帰れるだろうか?
ヒヒィィン!
「あ、痛ぇ! この野郎!」
馬の鳴き声と男の悲鳴。もしやと思い、シャルルは二つの声がした方角に目を凝らして見た。シャルルは視力がよいだけでなく、夜目も利くのである。
小さな馬は死んでも動くかとばかりに座り込み、男は必死になって立たせようとしていた。手綱を力いっぱい引っ張るが、びくとも動かず、馬は男の頭をかじった。
「また噛みやがったな、こん畜生!」
暗がりのため毛の色までは判別できないが、あの怠惰で傲慢な馬は我が愛馬ロシナンテに違いない。シャルルは「おい、あんた!」と叫んで駆け寄った。
近づいてみると、やはり、その馬はロシナンテだった。ロシナンテの横でかじられた頭をおさえて痛がっている男をシャルルはギロリと睨んだ。背が低くて陰険な目つき、頭に白髪がまじっていて五十歳くらい、と旅籠の主人から聞いた泥棒の特徴そのままだ。
「やい、コソ泥。俺の馬と荷物を返せ!」
シャルルは泥棒の胸倉をつかみ、唾を飛ばして怒鳴った。すると、陰険な五十男は悪びれもせずに、
「けっ。油断して人に物を預けるあんたが悪いのさ。世の中、自分以外の人間を信用したら地獄を見るぜ。それにしても、あんたの馬はまったく使えねぇな。こんなやる気の無い馬、馬市場で売っても大した金額にはならないだろうよ。二度も儂の頭を噛みやがって、忌々しい。動物の裁判にでもかけてやろうか」
と、せせら笑ったのである。
シャルルは小さからぬ衝撃を受けた。どんな悪事を働いた者でも、心の中では罪悪感に苦しんでいる。それが人間というものだとシャルルは母のフランソワーズに教えられた。だが、目の前の泥棒は「盗まれたほうが悪い」と居直り、まったくおのれを恥じていない。それどころか、盗んだ馬の文句を持ち主に言うという始末だ。
「お前、罪の意識は無いのか?」
「罪? このパリにはな、母親を幽閉する国王、イングランド人と不倫する王妃、貧しい農民から金を巻き上げる枢機卿、といったように貴い身分になるほど罪深くなっていく決まりがあるのさ。そのくせ、あいつらは三食美味いものを食って、毎晩温かいベッドで寝るんだ。儂のようなケチな泥棒が犯す罪なんて、可愛いものじゃねぇか」
「雲の上の人の話など俺には分からん! ただ、俺の物を盗んだお前だけは引っ叩いてやる!」
「ははん! 面白いね。この口八丁のジャック様に暴力を振るったら、どうなるか知っているかい? やってみな。さっき儂をかじったあんたの馬もろとも、牢獄にぶち込んでやる!」
「馬が牢獄に入れられるわけがないだろ! この大風呂敷野郎!」
シャルルは力任せに、ジャックと名乗る泥棒を殴り倒した。ジャックは体をひねるようにして後方に吹っ飛ぶ。
「ぎゃぁぁ! 助けてくれー! 暴漢だー! 追い剥ぎだー!」
倒れたジャックは海老のように地面を跳ね回り、ジタバタともがきだした。一心不乱に叫び、「誰かー! 殺されるー!」と助けを呼ぶのである。
(何だ、こいつ。一発殴られたぐらいで)
シャルルはジャックの大げさな反応に呆れ、唖然としてその滑稽な海老ダンスを眺めている。まさか自分に危機が訪れているとは露ほども思わずに。
「おい、外で誰かが叫んでいるぜ!」
「見ろ、ガキがおっさんを襲っている!」
「年寄りが倒れているぞ!」
あちこちの建物から、騒ぎを聞きつけた人々が出てきた。彼らはあっという間にシャルルとジャックを包むように人だかりをつくる。
すると、ジャックはさっきよりもさらに声を張り上げ、まるで哀れな老人のように、
「こ、この若者がいきなり『金をよこせ』と言って、儂を殴るんじゃ! しかも、自分の馬をけしかけて、儂の頭を二度も噛ませたんじゃ! ほれ、誰か儂の頭と頬を見てくれ! ひどい怪我なんじゃ!」
と、野次馬たちに助けを求めた。
シャルルは狼狽した。これでは俺が悪者みたいではないか。
「違う! このおっさんが俺の馬と荷物を奪ったんだ! こいつは泥棒なんだ!」
必死に弁明するが、人々はシャルルに厳しい視線、口八丁のジャックに同情のまなざしを向けている。
「どけどけ、暴漢はどこだ?」
「我々は近衛銃士隊です。一般市民のみなさん、後は私たちにお任せを」
「まったく……。国王陛下直属の俺たち銃士が、どうして追い剥ぎを捕まえなきゃいけないんだ。この地区の巡邏隊はどこを見回りしているんだ?」
黒山の人だかりをかきわけ、立派ないでたちをした三人の男が現れた。
(国王陛下の銃士? あの人たちが近衛銃士隊か!)
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