ガスコンの少年(3)
(上京して早々、とんでもない奴と遭遇してしまったぜ)
ふう、と息を吐いたシャルルは剣を鞘にしまった。シャルルの剣の師匠は、ガスコーニュ一の猛者(自称だが)の父ベルドランである。ベルドランは、四人息子の中で末弟のシャルルが最も剣の才能があると見込み、七歳からシャルルに徹底的に剣技を叩き込んだ。熱が入りすぎ、シャルルは父に半殺しの目に遭わされたことも数度あった。
厳格な父であり、苛烈な師匠だったベルドラン。
黒マントの男の剣は、そのベルドランと同等もしくはそれ以上の早業だったのである。あの時、一秒の半分でも反応が遅れていたら、シャルルの胴体は串刺しになっていたであろう。いま無事に呼吸をしているのは奇跡と言っていい。パリには父のように強い剣士がごまんといるのだろうか。シャルルの胸の内は「誰にも負けてやるものか」というガスコン特有の闘争心で満ち満ちるのであった。
が、我らがシャルルの勇敢な姿が見られるのもここまで。
「あの……。危ないところを助けていただき、ありがとうございます」
栗毛の少女がシャルルに歩み寄り、鈴を振るような声で礼を言うと、ガスコンの純情少年はたちまち顔を真っ赤にして「え、あ、う」と、しどろもどろになってしまったのである。
故郷にいたころ、シャルルがまともに接した女といえば、母と姉、妹たちだけ。なかなか端正な顔立ちなので、田舎の娘や婦人たちにもてなかったわけではない。色恋に免疫のないシャルルは、彼女たちの好意を知らんふりして、ひたすら剣の修行に没頭していたのだ。うぶな子どもなのである。
「こ、困っている人を助けるのは、と、当然のことです。それでは……」
ときおり言葉を詰まらせながら、ようやくそれだけ言うと、シャルルはちょいと頭を下げてその場を離れようとした。
(馬鹿、俺の大馬鹿野郎。せっかく綺麗な人が話しかけてくれているのに、逃げるとは何という臆病者だ!)
シャルルは、自分の頬面を思いっきりぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、とりあえずいまは逃げることが先決。おのぼりさんの少年剣士は、悪漢の凶刃よりも美女の微笑みのほうが恐いのだ。
「あ! 待ってください!」
栗毛の少女の呼び止める声。せっかくのひと目惚れ、初恋だというのに。シャルルは後ろ髪を引かれる思いで、駆け去り……。
後ろから抱きつかれた。
いきなり襲いかかった人のぬくもり。シャルルはぎょっとして硬直した。まさか、そんな、パリの女というのはこんなにも大胆なのか。いや、そうではない。ちょっと待て。温かみを感じているのは背中ではなく、腰のあたりだ。
(抱きついているのは、子どものほうか)
いまだ動揺がおさまらぬシャルルは腰にまとわりつく十歳くらいの痩せ細った女の子を見た。黒マントの男に誘拐されそうになっていたときには怯えて小さな身体を震わせていたが、いまはあどけない顔で上目遣いにシャルルを見つめている。ブロンドの長い髪が眩く、肌は白蝋のように青白い。そして、不思議なことに、この子の青い瞳には人を無意識に引き込む魔法めいた力があるようにシャルルは感じた。
彼女が、何か一言、二言喋った。しかし、シャルルには理解できなかった。女の子の言葉はフランス語ではなく、どうやら英語らしい。
「『行ったらダメ』って言っているのですよ」
栗毛の少女は、シャルルににっこり微笑んだ。その聖女のように優しい笑みによって、シャルルの逃走しようという心はすっかり打ち砕かれてしまった。高鳴る胸の鼓動を必死におさえつつ、シャルルは彼女との会話を試みようとする。
「こ、この子はイングランド人なのですか?」
「ええ。ただ、この子と会ったことは、誰にも言わないで欲しいのですが……」
やはり、何らかの深い事情があって追われている子らしい。しかし、シャルルは他人の秘密をあれこれ穿鑿するような悪趣味ではない。
「大丈夫です。私はパリに今日やって来たばかりで、知り合いといえば、私より数年早く上京した兄ぐらいしかいませんから」
「たしか、あなたは近衛銃士隊に入るために上京されたのですよね?」
「はい。六歳年上の長兄も銃士なんです」
「カステルモールという姓の人なんて、近衛銃士隊にいたかしら?」
栗毛の少女が首を傾げた。このとき彼女が発した疑問に対して、シャルルはいくつかの質問をしておくべきだった。「なぜあなたは銃士隊の事情に詳しいのですか? 兄が銃士隊にいるはずなのに、私と同じ姓の人物が隊にいないとはどういうことでしょうか? ポールという名前なのですが、ご存知ありませんか?」
これらの謎をはっきりさせておけば、シャルルは少女と別れた後に起きる悲劇に対してうまく立ち回ることができ、暗い豚箱の中で寒々しい夜を過ごさずに済んだのかも知れないのだ。しかし、ひと目惚れの少女と相対しているシャルルは、すっかり舞い上がっていたのである。普段ならば「なぜ?」と思うことに対して、何の疑問も抱かなかった。
「私の名前はコンスタンスといいます。助けていただいたお礼に、ヴィユー・コロンビエ街までご案内したいのですが、この子をあるところまで連れていかないといけないのです」
「ヴィユー・コロンビエ街というと、トレヴィル銃士隊長の邸宅がある場所ですね。兄の手紙にそう書いてありました」
「はい。ですから、明日の朝、もしよろしかったら道案内をさせていただきたいのですが。今夜はどちらにお泊りですか?」
これはシャルルにとってありがたい申し出だった。ガスコーニュ地方の田舎町とは違ってパリは途方もなく大きい。東西南北も分からず、迷子になってしまうのではないかとシャルルも不安だったのである。
なんと優しい娘さんなのだろう! シャルルにはコンスタンスが天使に見えた。
「この路地を抜けた先の小さな旅籠に宿泊するつもりです」
「では、その旅籠に明朝十時にお伺いします。……行きましょう、シャルロット」
コンスタンスに名を呼ばれて、シャルルにずっと抱きついていた女の子はこくりと頷き、コンスタンスのもとに駆け寄った。この子はシャルロットというらしい。
「また変な奴に襲われたりしませんか? 目的地まで送らせてください」
「……では、しばらくの間、護衛をお願いできますか? ここから十分ほど歩いた、さるお屋敷の前で、迎えの馬車が待っているはずなので」
「分かりました」
「あと、シャルルさん」
と、コンスタンスは手で口をおさえ、急に悪戯っぽくクスクスと笑った。その可愛らしい仕草にシャルルはドキリとする。
「な、何でしょう」
「トレヴィルは、銃士隊長ではありませんよ」
「え?」
「彼は隊長代理です」
その後、目的地に着くと、コンスタンスとシャルロットは、シャルルにお辞儀をして車に乗り込み、馬車は慌ただしくいずこかに走り去った。
(コンスタンス……。あれほど可憐な人がこの世にいるとは!)
夢見心地のシャルルは、スキップをしながら旅籠へと帰る。
俺はなんと運のいい男なのだろう。パリに来て初日で、あんな素敵な人に出会えるなんて。しかも、明日にはまたコンスタンスと会うのだ! ひょっとすると、あの人とは深い縁があるのかも知れない。出世して立派な軍人になったら、俺のお嫁に来てくれるかしら。
生来の楽天家であるシャルルの妄想は止まるところを知らず、旅籠に着くころには「子どもは何人にしよう」などと具体的な家族設計に頭を悩ましていたのである。
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