ガスコンの少年(2)
背後から聞こえた声に対し、「何奴だ」と黒マントの男が振り返る。しかし、その声の主である少年は、いままさに男を通り越すところだった。さきほど聞こえた声は十数歩向こうから発したものだったはず。驚異的な足の速さである。
(この小僧、ギリシア神話のアキレスか!)
黒マントの男が驚いている間に、少年は少女たちを守るようにして男の前に立ちはだかっていた。
「農民の子倅が何の真似だ」
黒マントの男が吐き捨てるように言うと、少年は佩剣をバンバン叩きながら激昂した。
「お前は目が悪いのか? この剣を見ろ! 俺は貴族の息子だ!」
なるほど。着ている服は農民と大差無い粗末なものだが、腰に帯びたそのレイピア剣には美しい装飾が施されており、ひと目で高価な剣であることが分かる。旅立ちの際、貧乏貴族である父の唯一の宝だった伝家の宝剣を少年がくすねたのだが、それは内緒の話だ。
少年の容貌を見てみよう。褐色の髪に日焼けした面長の顔、ギラギラとした鋭い目つきやツンと筋の通った鼻は勇ましい美男子の典型と言える。ただ、全体的な外見はまだまだ幼く見え、可愛らしい小さな唇などあどけない子どものようである。
(こんな小僧を相手にしていられるか)
と、黒マントは思ったのだろう。やれやれといった雰囲気で肩をすくめた。
「悪かったよ、ガスコーニュからやって来た田舎貴族のお坊ちゃん。おじさんは仕事中なんだ。そこをどいてくれ」
ガスコーニュとは、フランスの南西部の地方である。西に大西洋と面し、南のピレネー山脈を越えたらスペインだ。ガスコーニュはフランス領土の最前線ということもあって、昔から勇猛な軍人が産出する土地という評判があり、この時代にはガスコーニュの多くの若者が軍人になるべくパリに上京していた。シャルルもその中の一人である。しかし、自分の生まれ故郷を黒マントの男に教えた覚えはない。
「なぜ俺がガスコーニュ出身だと分かった」
「言葉を少し聞いただけで分かるさ。そのひどい訛り……私が大嫌いなガスコーニュの田舎っぺどもの言葉だ」
「……お前、ガスコン(ガスコーニュ人)を馬鹿にしたな」
少年はふつふつと燃えたぎる闘志を剣に込め、鞘から抜き放った。
黒マントの男は鼻で笑い、「やめておけ。命知らずめ」と言う。
「その美しい娘を助けてお近づきになりたいだけなのだろう? いいだろう、その栗毛のお嬢さんは坊ちゃんにくれてやる。用があるのはお嬢さんの後ろの」
「剣を抜け、黒マント野郎」
「……邪魔をするのならば、殺す」
黒マントの男も剣を抜き、ゆったりと構えた。
「わ、私たちに構わず、早くお逃げください。あの男は本気です。彼はおそらく、枢機卿の……」
栗毛の少女が声をわななかせて言った。恐怖のあまり、うまく言葉が出ないのだろう。
「ご安心を。『ガスコンは命を十回捨てても一人の女を守れ』。我が家の家訓です」
落ち着き払った少年の言葉には、小石ほどの恐怖も焦燥も含まれていない。ついさきほどまで興奮して怒っていた少年とはまるで別人のように、冷静かつ慎重な剣士になっていた。
「我が名はシャルル・ド・バツ・カステルモール。ガスコーニュの貴族にしてカステルモール城の主、ベルドラン・ド・バツ・カステルモールの四男だ。近衛銃士隊に入るために、はるばる故郷からやって来た。さあ、俺は名乗ったぞ。決闘の前にお前も名乗れ」
「いまから死ぬ貴様に、名を教える必要など無い」
「ほほう? さっきは散々、俺の出自を馬鹿にしたくせして、そういうお前は名無しの権兵衛さんか! これは面白い、これからは名無しマントと呼んでやろう」
我らが主人公シャルルは、高笑いして「やい、名無し! 名無しマント!」と口汚く黒マントの男を罵るのであった。
無表情な男の顔からは彼の感情はよく読み取れない。だが、剣を握る右手がかすかに震えていることをシャルルは見逃さなかった。
「おや、名無しマントさん。手が震えているぜ。俺が恐いのなら、さっさと剣をおさめて帰りな」
「死ねい!」
びゅっ!
刃が空気を裂く音。黒マントの男の突きがシャルルを襲ったのである。直後、地面に血が数滴したたり落ちた。
「いやぁぁ!」
栗毛の少女は、シャルルがやられたのだと思い、悲鳴をあげた。しかし、負傷した右腕をおさえてうめき声をあげていたのは、黒マントの男のほうだった。
シャルルは敵に罵詈雑言を浴びせつつ、注意深く男の目や手足の動き、呼吸を観察していたのである。挑発に乗った男が憎々しい小僧に一撃を加えんと右足を前に出した瞬間、シャルルは(いまだ!)と相手の動きを読み、五体を躍動させた。
横に踏み込んで男の渾身の突きをかわし、電光石火、敵の右腕を突き刺したのだ。
ただ、黒マントの男も相当な手練れであるようだ。右腕に激しい痛みが走るのを耐え、剣をけっして落とさず、後方に飛び下がってシャルルと距離をとったのである。
(油断をしすぎたわ。血の気の多い若造のこと、てっきり猪突猛進の喧嘩剣法だとたかをくくっていたのだが、何という老獪な戦い方をする少年なのだ)
先に攻撃をさせて相手の戦法を知る。そして、敵の攻めの間隙を突き、反撃する。いずれも並の剣士ではできないことだ。実戦経験の浅い十代にしてこの力量、二十年もすれば恐ろしい剣の使い手になるだろう。
(殺すには惜しい小僧だ。いや、利き腕を負傷したいま、俺が逆にやられるかも知れぬ。リシュリュー枢機卿のお叱りを受けるだろうが、ここはいったん退こう)
黒マントの男は剣を鞘におさめると、マントを翻してシャルルに背を向けた。
「おい、逃げるのか」
シャルルは男があっさりと退いたことを意外に思い、呼び止めた。黒マントの男は振り向かずに立ち止まり、こう言った。
「小僧。シャルル・ド・バツ・カステルモールといったな。その名、覚えておこう」
「お前も名乗れ、名無しマント」
「……次に会ったときには、教えてやる」
まるで再会することが決定事項であるかのような台詞を残し、男は去って行った。
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