ダルタニャンとマリー・ド・メディシスの陰謀

青星明良

ガスコンの少年(1)

 ゆらり、ゆらり。

 少年の背の上で、馬は秋風に吹かれている。

 その珍妙な光景を目撃したのは、一六三〇年十一月一日の夕暮れどき、パリのフォブール(市外街区)・サン=タントーワヌを往来する人々だった。


「なんだね? あれは」

「十四、五ぐらいのガキが黄色の小馬を背負って歩いているな」

「そんなの、見たら分かるさ。俺が聞きたいのは、どうして人間が馬を運んでいるのかってことだよ。あべこべじゃねぇか」

「そんなに知りたけりゃ、あんたがあのガキに聞いてみろよ」


 しかし、通行人の誰もが少年と馬に近寄ろうとはしなかった。人間と馬の立場が逆転しているありさまが不気味でもあったし、少年がオーグル(人食い鬼)のような恐ろしい怒りの形相をしていて近寄りがたかったからだ。少しでもからかいの言葉をかけたら、腰に帯びている剣で斬りかかって来そうなのである。


 まあ、無理もない。少年はこの半日、驚くべき怪力と体力で馬を背負い、ずっと歩き続けていたのだ。人相も悪くなるだろう。


 故郷からパリまでの十数日におよぶ長い道のり、この黄色の毛並みを持った小馬は少年をちゃんと背に乗せて運んでいた。しかし、パリまであともう少しというところで力尽き、ぶっ倒れたのである。どれだけ励ましても微動だにしない。捨てて行こうか、とも考えたが、幼いころから我が家の厩舎で世話を焼いてきた馬を見捨てるのも忍びなく、「ええい、ままよ!」と少年はへばった馬を背負い、ここまで来たのだ。


「ロシナンテ、そろそろ限界だ!」


 ついに根をあげた少年は、小さな旅籠の前で我が愛馬ロシナンテを背から降ろした。ヒヒン! とロシナンテは抗議するように鳴く。「なぜ降ろした」とでも言っているのだろう。


「こいつ、あるじ気取りか。もう旅はおしまいだよ。パリに着いたのだからな。ああ! 我が希望の都市パリよ!」


 少年は、歌劇の舞台上で熱演する俳優のように力いっぱい叫び、天を突き破らんばかりの勢いで両腕を上げた。道行く人々に変な目で見られているのも、お構い無しである。


 華やかなるフランス王国の首都パリ。ここで一旗上げて、俺は立派な軍人になるのだ。少年はその当時の田舎の若者の多くが抱いていたささやかな夢とともに、上京してきたのである。


「そこの若い衆、人の旅籠の前で大声をあげてもらったら困りますよ。泊まっていくの?」


 少年が振り向くと、丸々と太った中年親爺が困り顔でこっちを見ていた。どうやら、少年の喚き声に驚いて飛び出してきた旅籠の主人らしい。


「あ、悪い、客だ。泊めてくれ」


 少年は素直に謝った。そして、腰の皮袋をごそごそと漁り、財布を取り出して中身を旅籠の主人に見せた。全額で十エキュある。


「ほら、ちゃんと金もあるぜ」

「なるほど、なるほど。さあ、中へどうぞ。馬は私が小屋につないでおきますよ」


 少し警戒ぎみだった主人の顔が営業用の笑顔になり、少年は歓迎された。これは旅をしていて得た経験だが、年少の者が一人で旅籠に宿泊しようとすると、(こいつ、ちゃんと金は持っているのか?)と怪しまれることが多々あったのである。そんなときは、さきほどのように金を見せてやると、態度をころりと変えるのだ。


 今日はまずこの旅籠で泊まり、明日の朝一番に起きて父の知り合いに会いに行こう。その人物がきっと少年を導いてくれるはずなのだ。


「きゃあ!」


 少年が旅籠の建物に入ろうとしたとき、かすかに若い女性の声が聞こえたような気がした。ぴたり、と少年は足を止める。どこからだ? あれは悲鳴だったのでは? 少年は目をつむり、耳を澄ます。


「お客さん、どうかなさいましたか」

「しっ!」


 少年は故郷で「あいつは犬よりも耳がいいのでは?」と噂されたことがあるくらいの地獄耳で、人間が豆粒に見えるほど遠くで自分の悪口を喧嘩中の友人に囁かれたとき、相手のところまで走っていって、ぶん殴ったことがある。


「誰か……助けて!」


 今度は、はっきりと聞こえた。西の方角で誰かが助けを呼んでいる。


「親爺、馬と荷物を預かっていてくれ! 無くすなよ!」


 少年は皮袋を旅籠の主人に手渡すと、女性の声が聞こえた方角へと走り出した。この皮袋には大事なものがたくさん入っている。少年の全財産十エキュ、父が書いてくれた銃士隊長トレヴィルへの紹介状、我が家の家訓を記した巻物、母がくれた膏薬などだ。


 ひとけの無い、迷路のように入り組んだ小さな路地を少年は何の迷いも無く疾走する。


(あそこの角を左に曲がったところだ!)


 いくら地獄耳とはいえ、声ひとつを頼りにこの躊躇の無さはどうであろう。後々、少年はこう思うのである。あのときの俺は、運命に背中を押されていたのだと。


 案の定、少年は角を曲がった先で、ただならぬ場面に遭遇したのである。

 黒マントの男が、二人の少女を路地の行き止まりまで追いつめていた。


「無体なことをするのはやめてください!」


 少女の一人は少年と同じ年齢ぐらいだろうか、連れの十歳前後の女の子を背に隠すようにして庇い、黒マントの男と対峙している。旅籠で聞いた声の主は彼女のようだ。


 少年はすぐにでも助けに行こうと思ったが、その気丈な少女の美貌に心を奪われてしまい、金縛りにかかったように固まってしまった。鮮やかな栗色の髪が美しく、顔は少し気弱そうに見えるが、青い瞳には意志の強さを宿した輝きがあり、健康的な薔薇色の肌をしている。どれだけ芸術的な絵画を見ても心動かさぬ野蛮人の少年が、恍惚として感嘆の声をもらしていたのである。


 少年が出遅れてしまったその間にも、黒マントの男は「あなたに危害を加えるつもりは無い」と言いつつ、一歩、二歩と少女たちに歩み寄っていく。低く、冷厳な声だ。


「ただ、あなたの背に隠れている子どもをこちらに引き渡していただきたい。その娘はフランスにいてはいけないのだ」

「それ以上、近寄らないで!」


 栗毛の少女は黒マントの男をキッと睨み、叫んだ。しかし、非力な彼女にはそれ以上の抵抗はできるはずもなく、男と少女たちの距離はじりじりと埋まっていく。男があと五歩も歩けば、少女の後ろで震えている哀れな子どもはあっけなく捕まってしまうだろう。


(いけない! 見惚れている場合か!)


 ようやく正気を取り戻した少年は、「待て!」と怒鳴り、地を蹴って駆け出した。

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