欺かれし者の日(3)

 マリー太后は狂喜した。あの憎き裏切り者のリシュリューをついに退けたのである。そして、それはルイ十三世が太后の毒牙から自分を守ってくれる最大の味方を自ら遠ざけたことを意味した。国王に見捨てられ、権力を奪われ、意気消沈したリシュリューは、これ以降、太后のやることに何の手出しもできないだろう。国王の信任を失ったリシュリューなどただの病弱な中年男であり、リシュリューの後ろ盾を失ったルイ十三世など自分の身も守れない軟弱な国王である。


(リシュリューを解任するという役目を終えた不幸息子には、さっさとあの世へ行ってもらおう)


 あとはアンヌ王妃がルイ十三世の毒殺に成功すればいい。そして、国王の死を秘匿し、国璽を所持している法務大臣ミシェル・ド・マリヤックが、


「宰相の地位を剥奪されたリシュリューが反乱を企てている。彼の一派を討て」


 という偽の王命を下す。すでに謹慎を言い渡されているリシュリューに味方する貴族、軍人などはいないはずだ。リシュリュー一派を壊滅させ、事態が落ち着いた後、王弟オルレアン公ガストンを即位させ、その後見としてマリー太后が政治を行なうのだ。


「急いで新政権の準備をしないと。こんな大事なときにガストンはどこへ行ったの?」


 負け犬リシュリューが宮殿を去り、憔悴しきったルイ十三世が仮宮殿に帰ると、マリー太后はミシェル・ド・マリヤック法務大臣を呼び出して、新マリー政権の大臣を決めるための会議を始めようとした。しかし、肝心の次期国王が宮殿内にいないのである。


「今朝、従者らしき少年二人を従えて、大廊下を歩いていらっしゃるのを見ましたが……」


 玉座の間に集まった貴族の一人がそう言うと、他の人々も「そういえば私も見た」「少年二人と一緒だった」「しかし、どうも様子が変だったような」と口々に言い合った。


 マリー太后が不審に思い始めたとき、一人の衛兵が血相を変えて走って来て、二つの報告をした。


 この報告を聞いて、マリー太后は青ざめた。一つ目の報告は、ガストンが罪人の間で糞をもらしながら気絶していたというもの。その報告に太后は十分驚いたのだが、さらに太后を狼狽させたのは、二つ目の報告である。罪人の間にいるべき人間、シャルロットが消えていたというのだ。







 シャルルとアトスは運がよかった。


 シャルロットを発見して、いざ隠し通路のある広間まで戻ろうとした同時刻、リュクサンブール宮殿に国王ルイ十三世が到着し、宮殿の正門付近ではロシュフォールとポールがジュサックら太后の衛兵を相手に騒動を起こしていた。


「太后様のお部屋の警戒を厳重にしろ、もっと衛兵をこちらに回せ!」


「曲者だ! 正門に侵入者がいるぞ! 強敵だ、正門に衛兵をもっと送れ!」


 宮殿内の人々は国王の警護、曲者の来襲におおわらわとなり、子ども三人が廊下をうろうろしているのを見ても、見咎められなかったのである。


 シャルルたちは無事に隠し通路を使って宮殿を脱出し、画家フィリップの家に戻って来た。あとは、トレヴィルにシャルロット救出を報告するだけだ。


「シャルロット、あとほんの少しだけ辛抱していてくれよ」


 シャルルは、アトスに背負われているシャルロットを励ます。シャルロットは、高熱で苦しいはずなのに、「うん、だいじょうぶ」と笑ってみせた。我慢強い子だ。


 シャルルたちは、トレヴィルのもとへ帰還する前に、仮宮殿へ急ぎ向かった。救い出したら、シャルロットの無事な姿を一目だけでも見せて欲しいとアンヌ王妃が頼んでいたためである。


 シャルルとアトスは仮宮殿の庭で王妃に謁見した。以前、シャルルがアンヌ王妃と初めて会った場所である。


 アンヌ王妃は、ぼろぼろになりながらも生還したシャルロットと対面して、昨日からもう何度目か分からない涙を流して喜んだ。


「ごめんね、シャルロット。私のせいで……」


 シャルルは、アンヌ王妃がシャルロットを力いっぱい抱きしめる光景を見て、ようやく任務の達成を実感した。ほっと一息ついたが、そういえばアトスはシャルロットの素性をトレヴィル殿から聞いているのだろうかと疑問に思い、友人の顔を見た。


「…………」


 ひどく複雑そうな表情でアトスはシャルロットのことを見つめている。おおかたの事情は知っているのかなと一人納得し、今度は一日振りに見る愛しのコンスタンスのほうを向いた。しかし、彼女もシャルロットの無事を喜んではいるがどことなく浮かない顔である。


(シャルロットが戻って来たのに、他に心配ごとでもあるのだろうか?)


 シャルルは、自分がシャルロットを連れ帰ってきたら、コンスタンスはもっと喜んでくれるものだと思っていたので、少しがっかりである。コンスタンスが兄ポールの心配をしていることなど、知るよしも無かった。


 そんなことをシャルルがああだこうだと考えている間にも、アンヌ王妃がシャルロットに別れを告げようとしていた。


「これからは、シャルロットはコンスタンスの家で暮らすのよ」

「…………」

「あなたは私のそばにいたら幸せになれない……。ごめんね、勝手にフランスまで連れて来て。迷惑だったでしょ? でも、私はあなたといられて本当に……」

「あそびにくるね。おうひさまが、さびしくなったら。コンスタンスにたのんで、あそびにくるね」


 身代わりの愛情だったと知りつつも、孤独な王妃のことを可哀想だと思ったシャルロットは、怪しい発音のフランス語でそう言った。


 アンヌ王妃は、シャルロットのその優しさに胸を締め付けられそうになった。シャルロットは王妃とはもう会えない、会ってはいけないのだ。この子はバッキンガム公爵の娘で、アンヌ・ドートリッシュはフランス国王の王妃なのだから……。


「ごめんね、シャルロット。私たちは、もう……」

「会えるときが来ますよ。いつか、きっと」


 コンスタンスが、シャルロットの頭を撫でながら、アンヌ王妃を見つめて言った。


「そのときまで、私が責任をもってシャルロットをお預かりします」

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