欺かれし者の日(4)

 ルイ十三世が仮宮殿に帰還したのは、シャルルたちがシャルロットを伴ってトレヴィル邸に向かった二時間ほど後のことだった。コンスタンスはアンヌ王妃を心配してとどまろうとしたが、


「私はもう大丈夫。マリー太后の味方なんてしないから、あなたもトレヴィル邸に行きなさい。そして、病気のシャルロットの看病をしてあげて。これは命令よ」


 と、王妃が強く言ったため、後ろ髪を引かれる思いで仮宮殿から退出した。王妃は、コンスタンスがポールの身を案じていることを察していたのである。


 そう、シャルルとアトスがシャルロットを救出したことによって、マリー太后の陰謀は崩壊しつつあった。アンヌ王妃は、太后から離反したのだ。


「……アンヌ。珍しいな、君が朕の帰りを出迎えてくれるなんて」


 ルイ十三世が回廊を歩いていると、いつもは夫の帰りなど知らぬ顔のアンヌ王妃が待ち構えていた。


 母の修羅に接して心身ともに憔悴しているルイ十三世と、一晩中愛憎の思いに苦しみ泣き疲れたアンヌ王妃が、数年ぶりに真正面から向き合い、おたがいの顔を見つめ合う。


「何だ、その小瓶は」


 ルイ十三世は、妻が透明な液体の入った小瓶を指し出したので、不審に思いつつもそれを受け取った。アンヌ王妃は興奮しているらしく、過呼吸ぎみである。


「それは、昨日、太后様から渡されたのよ」

「母上から?」


 香水か何かだろうかと思ったルイ十三世は、小瓶のフタを開けようとする。アンヌ王妃が、震える声で、しかし、はっきりとした大きな声で「だめよ!」と叫んだ。


「開けたら、だめよ。それは猛毒なの。太后様が、ルイの食事に混ぜろと私に渡した……」

「まさか。何を言っているんだ、君は」


 悪い冗談だろうとルイ十三世は一笑に付そうとした。愛想の無い妻もたまには面白いことを言う。笑いながら、彼女の顔を見た。


 王妃の美しい顔は異様にひきつっており、恐怖のためか身体は指の先まで震えている。懸命に何かを言おうと、「あ、あ、あ……」と口を開け閉めして、ついに、


「わ、私、お義母様にあなたを殺せって言われたの」


 そう告げたのである。その言葉を聞いて、ルイ十三世はよろめいた。ガンガンと頭が痛くなってきて、母マリーの悪魔のような怒鳴り声が耳の中で壊れた教会の鐘のように響き、「そ、そんな……。まさか……」とうめき声をあげながら両耳をふさいだ。


 そして、少年王だったころに聞いてしまい、記憶の奥底に閉じ込めていたはずの侍女たちの噂話が、ふいに蘇った。


「マリー様が……先王陛下を……した」


 ああ、そうだった。なぜ忘れていたのか。いや、忘れようとしていたのだ。母がそんな人であって欲しくないと願って。


「る、ルイ? しっかりして」


 顔や手足の痙攣を起こしかけていたルイ十三世の肩をアンヌ王妃が揺する。


「触れないでくれ!」


 パシンッと、国王は王妃の頬をぶった。王妃の白い頬が赤く染まる。


「ごめんなさい、ルイ。でも、私はあなたのことを殺したくなんて……」

「殺そうかと迷ったんだろ! まる一日、悩んでいたんだろう!」


 ルイ十三世は、取りすがろうとするアンヌ王妃を突き飛ばした。

 倒れた王妃は、童女のように号泣して、「だって、だって」と連呼した。


「だって、あなたは私を愛してくれないじゃない!」

「そんなこと、よく言えたものだ。朕をこんなにも苦しめているくせに」


 国王は自らの頭部に手をやると、人前にいるときはけっして外さないそれをもぎ取るようにして外し、床に叩きつけた。それは、国王の頭を覆っていた黒髪のカツラだった。


「この禿げ頭を見ろ! 君がイングランドの公爵と浮気している間、朕が苦しんでいないとでも思っていたのか? 嫉妬のあまり、物狂おしい夜を送っていないとでも思っていたのか?」


 ほとんど毛髪のない頭を両手で覆い、ルイ十三世は叫んだ。


「ああ! これだから、女は信用できない!」


 アンヌ王妃は、夫が去った後の廊下で泣き崩れることしかできなかった。


 愛も、恋も、最後には人を傷つける。十四歳で出会った、同い年の若き国王と王妃が抱いた初恋の甘い感情は、十五年の歳月の間に、嫉妬と憎悪によって黒々と塗り潰されてしまっていたのである。


 永遠の愛など、この世には存在しないのだろうか。







 一方、ポールの報告により、ルイ十三世がマリー太后のもとにいることを知ったトレヴィルは、国王の身を案じつつ、じっとシャルルたちの帰還を待っていた。マリー太后が、リシュリューの言う通り国王に害意があったとしても、自分の宮殿内で国王殺害に及ぶ心配は無いだろうが、あの女性は逆上したら暴挙に出る可能性がある。


「トレヴィル殿、シャルルとアトスが無事に任務を果たして戻りました」


 側近の銃士がそう報告したのは、国王がリシュリューに謹慎の命令を下したという情報が入った三十分ほど後だった。正午までに帰還するようにという命令だったが、正午になるちょうど一分前であった。


「そうか……。やりおったか……」


 焦り、苛立ち、不安など様々な感情を押し殺して、トレヴィルはこの吉報を待っていたのだ。トレヴィルは大きく頷き「シャルルたちをここに呼びなさい。君たちは出撃の命令が下るまで待機するように」と銃士に指示を与えた。そして、興奮した声で「勝ったぞ……」と呟いたのである。


(マリー太后はリシュリューに勝ったが、シャルルに負けた。あの少年、リシュリューが固執するだけのことはあるな)


 トレヴィルは、机の引き出しから小瓶を取り出して、窓から屋敷の外に放り投げた。瓶は庭で跡形も無く砕け散り、ルイ十三世の命を奪うはずだった毒はトレヴィル邸の庭の一輪の花だけを枯らして地中に消えた。昨日のうちにコンスタンスが、本物と偽物をこっそり取り替えて、トレヴィルに毒入りの小瓶を渡していたのである。


 いまごろ、ルイ十三世はアンヌ王妃から何もかもを聞かされ、リュクサンブール宮殿でマリー太后と約束したリシュリュー罷免の決断を翻しているはずだ。近衛銃士隊の出番はもうすぐである。

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