欺かれし者の日(2)

 早朝に仮宮殿へ出仕したリシュリューは、国王不在と知って、


(マリーに、してやられたか!)


 と、歯噛みした。国王はどこに行ったのか。可能性として高いのは、リュクサンブール宮殿だ。しかし、宮殿に忍び込ませた護衛士たちは、ことごとく帰って来ず、何の情報も得られない状況だった。また、気まぐれな性格の国王なので、本当に約束をすっぽかして狩りに出かけた可能性も捨てきれない。


(確実な情報が得られないまま下手に動けば、自分の首を絞めかねんぞ)


 焦燥感を募らせながら、ひとまずプチ・リュクサンブールに戻ったリシュリューだったが、おのれの勝負運がまだ尽きていないことをすぐに知るのである。


 謹慎中だったはずのロシュフォールが、「陛下はリュクサンブール宮殿にあり」という確実な情報をもたらしたのである。


「ロシュフォール、それはまことか!」

「はい。粗末な一頭立ての馬車から、国王陛下がお降りになるのをこの目で見ました」


 ということは、マリー太后はいまごろルイ十三世にリシュリューの罷免を迫っているのだろう。これを阻止しなければ、マリー派一掃計画が失敗するどころか、リシュリュー自身の身が危うくなる。


「リュクサンブール宮殿に行かねば。あのイタリア女の陰謀を止めてやる」

「お待ちください、叔父上。行ってはなりません」


 リュクサンブール宮殿に向かおうとしたリシュリューを制止したのは、リシュリューの姪、コンバレ夫人だった。この年若い姪はリシュリューと同居しており、叔父であるリシュリューとは秘密の恋人関係にある。そのコンバレ夫人が、愛する叔父の身を心配して、敵地に飛び込んではならないとリシュリューを諌めたのだ。


「太后様が叔父上の顔を見たら、あの方はきっと癇癪を起こされるでしょう。私を行かせてください。女同士なら、少しは冷静に話し合えるでしょうから」


 そう言い、コンバレ夫人はリュクサンブール宮殿に向かった。だが、すでに狂乱状態だったマリー太后は、夫人を叩き出してしまったのである。


「やはり、私が行くしかない」


 馬車の用意をせよ。リシュリューが召使に指示すると、


「このロシュフォールめも、お供させてください」


 と、どこまでも忠実な剣士がそう願い出た。しかし、リシュリューは頭を振った。


「私は、戦うために行くのではない。陛下に我が身を投げ出すのだ。だから、身の安全を心配して剣士を連れて行くわけにはいかん」


 朝から膀胱の痛みが甚だしい。心労からか、目眩もひどかった。家族内の問題が原因で母に聖職者になってくれと頼まれたとき、大人しく頷いて軍人の道を諦めたのも、この身体の弱さが原因の一つだった。


(だが、私はここまで登りつめたのだ。諦めてなるものか。這ってでも、陛下に拝謁するぞ)


 リュクサンブール宮殿に到着すると、太后の衛兵たちがリシュリューを遮ったが、


「私は枢機卿であり、宰相だ! この私に鉄槌を下せるのは、神と国王しかおらん!」


 死にかけの老人のような病体のどこにそんな力が隠されているのか、大喝一声、邪魔する者たちを退けた。


「リシュリュー枢機卿がこの宮殿に?」


 報告を受けて、まるで妻に浮気がばれた夫のように動揺したのは、ルイ十三世だった。


(まずい。リシュリューをこの部屋に入れてはならない)


 マリー太后は侍女たちに命じて、自室の扉を全て閉じさせ、リシュリューが侵入できないようにした。


 ルイ十三世は、聖職者なくせして陰険で傲岸不遜なリシュリューという人間が嫌いだ。しかし、政治家としては彼のことを尊敬している。ルイ十三世とリシュリューが、切っても切れぬ関係にあることをマリー太后は知っていた。だから、国王と宰相を会わせてはならない。


「陛下、太后様。どうかここを開けてください。リシュリューでございます」


 ドン、ドン、ドン。ドン、ドン、ドン。マリー太后の部屋で、扉を叩く音が響く。


「り、リシュリュー……」


 国王が迷っているのは、はた目からもよく分かった。この息子は、母を信用せず、あの成り上がりの聖職者を頼みにしているのか。コンバレ夫人に罵詈雑言を浴びせたときよりも、さらに狂おしい怒りがマリー太后の心を支配した。


「そんなにリシュリューと会いたいの? だったら会ってもいいわよ。ただし、あの男に宰相職の解任を通達するときにしてちょうだい!」

「は、母上。落ち着いてください。扉を叩く音がおさまりましたぞ。き、きっと、リシュリューは諦めて帰ったのでしょう。で、ですから、少し冷静に……」


 ルイ十三世は、野獣のように吠える母の狂気に震え上がり、このまま絞め殺されるのではと危険を感じた。早くこの部屋から逃げ出さないと。いったいどうすれば?


「陛下、私はまだ帰ってはおりませぬ」

「り、リシュリュー、あなた……!」


 太后は驚愕した。ルイ十三世も呆然としている。赤の僧衣を着た宰相が、いつの間にか目の前に立っていたのである。


「太后様。礼拝堂からこの部屋へと通じる、秘密通路の存在をお忘れでしたか?」


 カツン、カツンと静かな足音とともに、リシュリューは国王と太后に歩み寄ろうとした。だが、太后はそれを許さなかった。


「リシュリュー! それ以上、近づくな! 恥知らずめ!」


 ルイ十三世まであと五歩というところで、リシュリューはピタリと立ち止まり、「偉大なるブルボン王家の国王陛下」と言って跪いた。


「私は、これまで無私の精神で国家に忠義を尽くしてきました。そして、これからもブルボン王家のためにこの命をなげうつ覚悟です」


 ルイ十三世は、青ざめた顔でリシュリューの言葉を聞いている。マリー太后は、国王の腕を女とは思えない怪力で握り締めながら、リシュリューを睨みすえていた。


「あなたにそんなご大層な覚悟があるとは思えないわね」


「お聞きください、陛下。我が父フランソワは、私が五歳のときに戦争で死にました。父には莫大な借金があり、私たち遺族は危うく路頭に迷うところだったのです。それを助けてくださったのが、陛下のお父君、先王アンリ四世陛下でした。

 先王陛下は、『忠実な臣下であったフランソワの家族を見捨てることはできぬ』と三万六千リーヴルの金を我ら家族に下さり、そのおかげで私は貴族としての教育を受けることができました。いまのリシュリューがあるのは、全てブルボン王家の恩寵あればこそ。私はそのご恩を先王の御子である現国王陛下に全身全霊をもって返す覚悟です」


「先王、先王とうるさいっ!」


 もはや女の声とも人の声ともつかぬ、けたたましい喚き声を上げ、太后はリシュリューに駆け寄った。そして、手のひらが血でにじむほど強く握りしめた拳を振り上げ、リシュリューの右頬を殴った。さらに、左頬を平手打ちし、また右頬を叩いた。


「先王だと! あの女狂いのアンリがどうした! 私を辱めた夫を称えるのか! そうか、お前は最初から私を裏切っていたのか! 私に微笑みながら、私が先王の政策を破棄していくのを憎々しく思っていたのだろう! なぜだ、アンリ! ルイ! リシュリュー! なぜ男どもはみんな私を裏切る!」


 これは死ぬ、とルイ十三世は焦った。早く終わらせないと、母が狂い死にするか、リシュリューが撲殺される。


「リシュリュー! 部屋から退出せよ!」


 夢中になって、ルイ十三世は叫んだ。ようやく発せられた国王の言葉に、マリー太后とリシュリューはハッとする。


「……そなたに謹慎を命じる」


 それは、マリー太后の勝利とリシュリューの敗北を意味する命令だった。

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