欺かれし者の日(1)
ルイ十三世の馬車が、リュクサンブール宮殿の正門をくぐった。
(国王陛下が、太后様のもとへ!)
何ということだ、とポールは舌打ちした。わざわざ粗末な馬車に乗り、隠密でマリー太后の宮殿に入ったということは、リシュリュー枢機卿の目を欺くためだろう。
勘のいいポールは、太后がいまから国王にリシュリューの罷免を迫るのだなと察した。そして、国王がリシュリューから宰相の地位を剥奪した後に、太后はマリー政権を復活させるのだ。
(これはいかん。急いでトレヴィル殿に報告せねば)
ポールは馬首をめぐらして、トレヴィル邸に向かおうとした。そのときだった。
ズダーン!
弾丸が、ポールの左頬をかすめたのである。驚いたポールは落馬してしまった。
「ちぇっ、外したか。五年前にも、こんなことがあったな。あのときは、お前の馬に命中したはずだが」
その声は、イングランドへの決死行を経験してからの五年間、ポールにとって恐怖の存在となっていた、あの男のものだった。
「な、なぜジュサックが? お、お前はバスティーユ牢獄に……」
ポールは何とか身を起こして剣を抜いたが、さっき仰向けに倒れた衝撃のせいで、背中の傷口が開いたらしい。痛みが邪魔をして、満足に剣を振るえそうにない。逃げようにも、馬に乗る暇をジュサックが与えてくれるはずがなかった。
「俺はどうも銃の扱いが苦手だぜ。自分の手で殺しているという実感を味わえない。やはり、殺しは剣でズブリとやるのに限るな」
短銃を懐にしまったジュサックは、右手にレイピア剣、左手にマンゴーシュをだらりと垂らして、ゆったりとポールに近づいて来た。太后の衛兵が五人、ジュサックに付き従っているが、彼らは味方であるこの殺人狂のことを恐れ、ジュサックとは一定の距離を保っていた。
「ポールよ。殺そうとして、二度も取り逃したのはお前が初めてだ。今日こそ俺の剣の餌食になってもらうぞ」
コンスタンス、すまん。どうやら逃げられそうにない。ポールは心の中で、両想いになって半月も経っていない恋人に謝った。そして、ぎゅっと目をつむる。
ジュサックは冷酷な微笑とともに、レイピアをポールの左胸に突きつけた。
「さらばだ、ポール・ダルタニャン!」
「キャンキャンと宮殿の外がうるさいと思ったら、枢機卿に捨てられた犬がこんなところにいるではないか」
背後で聞き覚えのある声がして、驚いたジュサックは振り返った。
「ロシュフォール伯爵!」
ロシュフォールが、傲然たる態度でジュサックをねめつけていた。彼の足もとでは、太后の衛兵たちが血を流して倒れている。
シャルルたちと別れてから、ずっと宮殿内で太后と近臣たちの様子を探っていたロシュフォールは、国王が宮殿に入ったのを見て、リシュリュー枢機卿にこのことを報告するためにここを脱出しようとしていた。だが、正門で銃声が聞こえて、
(もしや、シャルルがやられたか?)
と思い、駆けつけたのである。助ける義理など無かったが、あいつとは勝負がお預けになっている。俺の腕に一突きを食らわせておいて、勝手に死なれては困ると思ったのだ。
が、いたのはシャルルの兄と脱獄者のジュサックだったわけだ。
「貴様、太后の命令で仲間だった護衛士たちを殺したな」
「俺を見限ったのは、枢機卿のほうが先だ」
護衛隊にいたころは、枢機卿の腹心であるロシュフォールのことをうわべは敬っていたジュサックだが、もはや敵と味方である。ロシュフォールに対して、殺意を剥き出しにした。
「俺はおのれのためにしか剣を振るわない。ロシュフォール、お前こそ枢機卿の犬ではないか!」
ジュサックは大きく踏み込み、ロシュフォールの喉元を狙って、渾身の突きを入れようとした。
だが、突然、ジュサックの視界が暗闇に覆われたのである。ロシュフォールが自分の黒マントをジュサックの顔に投げつけたのだ。(何が起こった!)とさすがのジュサックも狼狽し、慌てて自分の顔にまとわりつく黒マントを取り除いた。
その間が、命取りだった。
ロシュフォールの俊敏な一突きが、ジュサックの右目を襲ったのである。
「こ、この! よくも俺の目を!」
ジュサックは怒り狂ったが、右目に激痛が走り、剣を構える余裕すら無い。
ロシュフォールはとどめを刺そうと、血刃をジュサックに向ける。しかし、そこで十数人の衛兵たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「曲者だ! 捕らえろ!」
あと三十秒もすれば、衛兵たちはここに駆けつけて、ロシュフォールとポールを取り囲むだろう。
「やむを得ないな。ポール・ダルタニャン、逃げるぞ」
ロシュフォールはポールの馬に飛び乗ると、呆然と決闘を見守っていたポールに手を貸し、自分の後ろに乗せた。
「プチ・リュクサンブールまでは、俺が運んでやる。振り落とされるなよ!」
「はぁ!」と叫び、ロシュフォールは馬を走らせた。
リュクサンブール宮殿は、にわかに騒々しくなった。
自室で息子のルイ十三世を責め立てていたマリー太后のもとに、「宮殿の正門にロシュフォール伯爵が現れ、ジュサックに重傷を負わせて逃走した」という報告が入ると、彼女は髪の毛をかきむしりながら、激怒した。
「ルイ、聞きましたか! リシュリューの犬が私の宮殿を嗅ぎまわっていたのよ! あの男は、国母である私を陥れようと躍起になっているんだわ!」
ルイ十三世は、げんなりとした顔をして何も答えない。「内密な話があるから、リシュリューに気取られぬように来なさい」と、夜明け前にマリー太后からの手紙が届いたときから嫌な予感はしていたが、やはりこのことであったか。
母とリヨンで交わした約束を果たせ、リシュリューを罷免しろ、あの男を宰相にしていてはフランスが滅びる。リヨンで危篤状態にあったとき、発狂したくなるほど執拗に聞かされた言葉をマリー太后は再び喚き続けているのだ。
「ルイ。あなたはもしかして、母よりもリシュリューをとる気なの? あれだけ毛嫌いしていた陰険な男を?」
マリー太后は声を震わして、息子の両肩を指が食い込むほどつかみ、叫んだ。太后も必死である。いまごろロシュフォールがリシュリューのもとに走り、国王と太后が密談をしていると報告しているに違いないのだ。あのずる賢い男は、奇策を使って事態をひっくり返す天才である。いますぐにでもルイ十三世にリシュリューを罷免すると言わせなければならなかった。
「リシュリューは無謀にも、『太陽の沈まない国』スペイン・ハプスブルク家と対決しようと考えている。そんなことをしたら、フランスは疲弊するばかりよ。私が摂政だったころのように、ハプスブルク家とは和睦するべきだわ。リシュリューにこの国の舵取りを任せてはいけない。ルイ、もう一度、母の手を取りなさい!」
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