宮殿潜入(7)

 当時の貴族は、便意を催したら、場所を選ばずに用を足した。それが宮殿の中であっても。とはいえ、大便を顔にかけられて、喜ぶ人間はこの時代にも存在はしない。


「この糞野郎!」


 シャルルとアトスは、お尻の主が「フン」と気合を入れる前に、彼を花壇の中に引きずり込んだのであった。


 貴族らしき男は暴れたが、シャルルに口を塞がれ、アトスに短剣を喉元に突きつけられて、抵抗を止めた。


「いいか。大声を出すなよ」


 シャルルが押し殺した声で恫喝すると、細面の貴族は目に涙をためて頷く。見た目通りにひ弱な男らしい。


 この男、大した人物ではなさそうだが、身分はかなり高いようだ。もしかしたら、マリー太后のお気に入りの貴族で、シャルロットの居場所を知っているかも知れない。シャルルはそう直感した。


「昨日、ブロンドの少女が、この宮殿に連れられて来たはずだ。いまどこに隠されているか知っているか」


 こくん、こくん、とあっけなく首を縦に振る。マリー太后も、こんな情けない男を重用しているとは、見る目の無い人だ。


「そこまで案内してもらおうか」







 シャルルとアトスは、前を歩かせている茄子顔貴族の従者のふりをして、リュクサンブール宮殿の大廊下を堂々と歩いている。男の背中にはアトスの短剣が突きつけられているが、アトスと並んで歩くシャルルの身体で隠れていて、すれ違う衛兵たちには見えない。


「おはようございます。王弟殿下」

「う、うん。おはよう」


 恐怖と便意に耐えながら、王弟殿下と呼ばれたその男は、何とかして家来たちへの自分の威厳を保とうと努力している様子だ。


(王弟殿下ということは、国王陛下の弟か)


 兄のポールから教わった知識によると、国王ルイ十三世に幾度となく逆らい、王座を欲している王弟がオルレアン公ガストンだという。そして、マリー太后は、ルイ十三世が病に倒れたとき、ガストンを即位させようと画策したことがあるのだ。


(太后様のお気に入りの家来どころか、自慢の息子だったのか)


 後々のことを考えると、王族をこんな目に遭わせたのはまずかったかなと思いつつも、国王に背いている人間なのだから、賊は賊だとシャルルは自分に言い聞かせるのであった。


「こ、ここだ」


 絢爛豪華な部屋がたくさんあった中で、ガストンが指し示した部屋だけ、ひどく異質だった。まるで囚人を閉じ込めるためにつくったような、いかめしく冷たい鉄製の扉から、血なまぐさい雰囲気をシャルルは感じ取ったのである。


 扉をガストンに開けさせると、部屋の中は、シャルルがパリにやって来て初日に入れられたコンシェルジュリー牢獄を彷彿させる悪臭が漂っていた。その臭いの正体は男物の服を着た腐った死体で、床に一体、転がっていた。亡くなってから数十日程度だと思われるが、彼はなぜこんな部屋で死んだのか。


「こ、この部屋は、母上に逆らった人間が入れられる罪人の部屋だ」

「もう喋るな。胸糞悪い」


 シャルルは、ガツンとガストンの後頭部を殴り、気絶させた。


(この王弟の役目はこれでおしまいだ。俺たちの捜していた子が見つかったのだからな)


 いったん部屋の扉を閉めると、シャルルとアトスは、あちこち穴が空いてボロボロのベッドに駆け寄った。


「シャルロット、助けに来たよ」


 シャルルが優しく声をかけたが、ベッドに横たわるシャルロットは反応しない。もしかして、すでに死んでしまったのかと、一瞬、肝を冷やしたが、シャルロットがかすかに目を開けて唇を動かそうとしているのを確認して、シャルルはホッとした。アトスがシャルロットを助け起こそうと、その身体に触れる。


「この子、身体が熱いぞ。病気なのか?」

「コンスタンスの話によると、高熱でうなされているときに攫われたらしい」


 シャルロットが、弱々しく呟いた。「……シャーロットは、わるくない。いじめないで。だいっきらい」。マリー太后に折檻をされている間、気丈なシャルロットは、フランス語で太后に食ってかかっていたのだった。


 シャルルは、シャルロットがフランス語を話せることをコンスタンスから聞いていたので、驚かなかった。そして、シャルルとコンスタンスだけが友だちなんだとシャルロットが言っていたことも聞かされていたのである。


「シャルロット、俺だよ。君の友だちのシャルルだ。さあ、一緒に帰ろう」


 シャルルが穏やかな声で語りかけると、シャルロットはようやく正気を取り戻したらしい。こくんと小さく頷いた。ほんの少し、笑っているように見える。


「この子は私が背負うよ。シャルルは隠し通路までの警戒を頼む」


 アトスがそう言って、シャルロットの左肩に手をかけた。わずかに服がめくれてシャルロットの白い肌が外の空気に触れる。


(…………?)


 百合の烙印が、十歳の少女の肩に?


 アトスは思わずシャルルのほうを見たが、シャルルは気がついていない様子だった。


「急ごう、アトス」

「あ、ああ……」


 いまは急を要するときだ。アトスはそう自分に言い聞かせ、シャルロットの服のめくれを直す。さっき見たものは、この子のためにも、誰にも言うまい。

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