牢獄と仮宮殿(4)

 シャルルは、


(ああ、やはり俺はまだ臭っているのだ)


 と泣きたくなった。せっかく着替えたというのに、臭いが身体に染み付いていたらしい。


 コンスタンスも慌てて取り成そうとするが、「王妃様……」と彼女が言うよりも早く、アンヌ王妃の第二声がシャルルに投げかけられた。


「コンスタンスからあなたのことは聞いたわ。シャルルはガスコーニュ出身なのよね。ガスコーニュのお人は、みんな馬糞のような臭いがするの?」


 シャルルはそっと王妃の顔を見た。何ら悪意のこもっていない、無邪気な微笑みをたたえている。


(このお方には悪気はいっさい無いのだろうな。こう言ったら他人は傷つくなどという配慮をこれまでせずに生きてこられたのだ)


 いくら短気なシャルルでも王妃を相手に怒るわけにもいかないし、そもそも悪意が無い人間に腹を立てること自体が虚しいことのように思える。逆に、彼女のあけっぴろげな性格のおかげで、王妃に拝謁しているのだという張り詰めた緊張感は消え失せてしまっていた。ここまで一方的に好き放題に言われて、馬鹿みたいに呆けているのは情けない、この屈託の無い貴婦人を笑わせてやろう。そこまで考える余裕がシャルルには出来ていた。


「王妃様。これはガスコーニュの臭いではなく、パリの臭いなのです」


 シャルルは、ガスコン特有のふてぶてしさと厚かましさを大いに発揮して、昨日と今日、この仮宮殿に来るまでに自分がパリで体験した話を雄弁に語り始めた。その話の中で、我が愛馬をパリまで背負ってきたことや謎の黒マントの男と対決したことなど、自分の力自慢、腕自慢もあったが、大半は牢獄で馬糞まみれになったこと、パリの街で危うく汚物をかけられそうになったことなど、傍らで聞いているコンスタンスがはらはらするような下品な話題に多くの時間を使った。


 コンスタンスが冷や汗をかくのも無理は無い。貴人というのは自分の言葉に責任は持たないが、下の身分の者には厳しいのである。アンヌ王妃が先に下品なことを言ったからといって、無位無官のシャルルが糞だの汚物だのと王妃の前で口走るのはとんでもないことだ。もう一度、牢獄行きになっても文句は言えない。


 だが、この日のアンヌ王妃はすこぶる機嫌がよかった。また、シャルルの語り口調がとても巧みで、ときには大げさな表現や滑稽な仕草を交えて話すものだから、王妃はにこにこ微笑みながら、茶目っ気たっぷりなガスコン少年の話芸を傾聴した。


 アンヌ王妃に抱かれるようにして馬に乗っていたシャルロットが、いつの間にか馬から下りてシャルルのすぐ横に座っている。どうやら、昨日助けられたこともあって、シャルルのことを気に入ったらしい。強く抱きしめられたら簡単に折れてしまいそうな細い身体をぴったりとシャルルにくっつけて、無邪気に笑っていた。シャルルの身体から漂う悪臭は気にならない様子だ。


「……というわけで、このシャルルに染み付いた臭いはパリのものなのです」


 シャルルが語り終えると、アンヌ王妃とシャルロットがパチパチと拍手をしてくれた。そのときに気がついたことなのだが、王妃は両手に白く美しい手袋をしていた。その手袋に包まれた手首には金のブレスレットが輝いており、国で一番高貴な女性ともなるとたかが手袋一つにも凝るのだな、とシャルルは素朴な感想を抱くのであった。


「コンスタンス。面白い少年ね」

「は、はい……」


 コンスタンスも認めてくれた、とシャルルは心の中で胸を張ったが、シャルルの後ろにいるコンスタンスの笑顔はひきつっていた。


「そうそう、忘れるところだったわ」


 アンヌ王妃はそう言って、ふいに左の手袋を外し、馬上からシャルルの顔の前に手を差し出した。シャルルはきょとんとしながらも、真珠のように美しい手だと息を呑んだ。王妃が手袋をしているのは、この玉のごとき手が傷つかないようにするためなのだろう。


「この子を……シャルロットを助けてくれた、ご褒美よ」


 つまり、王妃の手の甲にキスをする栄誉をシャルルは与えられたのだ。

 シャルルは、自分のそばをぴったりと離れないシャルロットに、ちょいと目をやり、


(怪しい男に狙われたり、王妃に大切にされていたり……このイングランド人の女の子は何者なのだろう?)


 と、不思議に思った。そういえば、最初に出会ったときも、コンスタンスに「この子と会ったことは、誰にも言わないで」と口止めされている。このシャルロットというブロンドの女の子にはどんな秘密が隠されているのだろうか?


 いや、それよりも、だ。


 シャルルがいま最も厄介だと感じているのは、王妃様のご褒美だった。

 厄介、というのも語弊がある。騎士が見目麗しき王妃様や王女様に忠誠の証のキスをして戦場に出向く、というロマンに満ち溢れた騎士の物語を円卓の騎士ランスロットの末裔だとか名乗る故郷の長老から、幼いときにたくさん聞かされて目を輝かせていたシャルルである。このご褒美を名誉なことだと思わぬわけではない。


 しかし、すぐ後ろで愛しのコンスタンスが見ているのだ。生まれて初めて愛した女性の目の前で、いくら王妃とはいえ、他の女性にキスをすることにシャルルは激しい抵抗を感じた。あと数歳、分別のできる年齢ならば、王妃様のご褒美を断るのは無礼だと判断できたのだろうが……。


「それがしのごとき地位無き者には、あまりにもったいなく……」


 と、シャルルがなるべくガスコーニュ訛りをおさえて、武人らしいいかめしい言葉遣いで遠慮すると、アンヌ王妃はあからさまにつまらなさそうな顔をした。

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