牢獄と仮宮殿(3)

(これは、ひょっとすると宮殿なのでは?)


 「ここよ」とコンスタンスが言った場所は、シャルルがこれまでの人生で一度も見たことが無いような、広大な敷地内に絢爛たる建物が建ち並ぶ大邸宅だった。


 シャルルは最初、大貴族の屋敷、もしくは近衛銃士隊の隊長(トレヴィルが隊長代理なら、本当の隊長がいるはずだ)の屋敷に連れて来られたと思っていたのだが、城館の奥深くに入れば入るほど、これはただの人間が住む場所ではないのではと考えたのだ。ガスコーニュの田舎者でも、それぐらいのことは察しがつく。


「コンスタンス……ここはもしかして」


 果てし無く続く長いながい回廊で、古代の王や英雄、聖人たちの彫刻像に見下ろされながら、シャルルは恐るおそる質問した。


「国王陛下の宮殿なのでは」


 すれ違った一人の衛兵が、「何だ、このみずぼらしい少年は」と小さく呟いたが、一緒にいるコンスタンスに気づくと、シャルルを不審尋問することもなく通り過ぎて行った。


「ちょっと外れ」

「え?」

「国王陛下の本当のお住まい、ルーヴル宮殿はいま工事中なの。ここは、陛下の仮のお住まいで、昔、コンチーノ・コンチーニという元帥の屋敷だったところよ。……陛下の怒りを買い、粛清された人だけれど」


 この規模で臣下の屋敷だと言われて、シャルルは驚きを隠せなかった。では、ルーヴル宮殿はどれだけ巨大で華麗なのか。シャルルには全く想像できない。


(とはいえ、国王様のお住まいであることには変わりない。午前中に豚箱にいた俺が、午後には仮宮殿にいるなんて、喜劇作家でも思いつかない筋書きだ!)


 ということは、俺がいまからお会いするのはルイ十三世国王陛下なのか? 恐れを知らぬガスコンの少年も、さすがにこの急展開な事態に逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。


 やがて、シャルルとコンスタンスは大きな噴水のある庭園にたどり着いた。


「しばらく、ここで待ちましょう。もうすぐしたら、お見えになるはずだから」


 コンスタンスはそう言うと、「ここは素敵なところでしょう?」とシャルルに笑いかけた。シャルルは庭園を見回す。なるほど、猥雑としたパリの街中とは別世界だ。


 大きな噴水の水しぶきがここまで飛んできて、涼しく気持ちいい。均等に植えられた樹木は青々として爽やかだ。花壇には赤と白のバラが、香り立つ美しさで咲き乱れている。


 緊張のあまりカチコチになっていたシャルルも、おかげで多少は気分が落ち着いて身体の強張りもほぐれてきた。


「あ、蝶々」


 シャルルは、目の前を舞っていたつがいのキアゲハの片方を両手で包むように捕まえ、コンスタンスに差し出した。幼いころ、妹にそうしてやると、すごく喜んでいたことを思い出したのだ。しかし、コンスタンスは少し困ったように笑いながら、


「恋人と離ればなれにされて可哀想よ。放してあげて」


 と、シャルルをたしなめたのだった。


 そうか、俺は蝶たちのデートの邪魔をしたのか。それは無粋なことをしてしまった。シャルルは、コンスタンスに子どもを諭すように言われたことを恥ずかしく思いつつ、蝶を解放してやった。そのときだった。


 馬の蹄の音がした。







 シャルルがハッと驚いて蹄の音が聞こえた方角を見ると、繚乱たるバラの海の彼方、芦毛のアンダルシアン馬を駆る貴婦人の姿があった。こちらに近づいて来る。


 高貴な女性は馬を嫌がって、乗馬などできないだろうとシャルルはこれまで決めつけていたのだが、あの美しい貴婦人の見事な手綱さばきはどうであろう。さらに驚いたことには、貴婦人は前に女の子を乗せており、その子が昨日出会ったブロンドの少女、シャルロットだったのである。


「王妃アンヌ・ドートリッシュ様です。失礼の無いように……」


 コンスタンスが小声でシャルルの耳元に囁いた。


(ということは、俺を牢屋から出してくださったのは、王妃さまだったのか!)


 王妃の馬は、シャルルとコンスタンスの数歩前で止まった。シャルルは淀みない動きでベレー帽を脱ぎ、右手を胸に当てて貴族の礼儀作法通りにお辞儀をした。そして、王妃に声をかけられるまで、じっと待った。ついさっきまで、あまりにも奇天烈な展開に気後れしていたシャルルだが、「大事な場面で礼儀作法を忘れる人間はガスコンではない」という我が家の家訓第八十一条の言葉を思い出したのである。


 馬上のアンヌ王妃は、優しげにシャルルに微笑んだ。十四歳で故国スペインを離れてフランス国王ルイ十三世に嫁ぎ、フランス国民を感嘆させたその美貌は、二十九歳のいまになっても衰えるどころか、ますます成熟して匂い立つばかりの美しさを誇っている。


 しかし、どうもこのお方の美貌は俺の大好きなコンスタンスとは違う。無礼な話ではあるが、シャルルは心中で首を傾げた。王妃とコンスタンスは同じ栗色の髪、青色の瞳、白い肌をしていて、かなり共通点が多いのだが、いったい何に対して違和感がするのか、シャルル本人にも分からない。


「あなた、馬糞の臭いがするわね」


 アンヌ王妃の唐突な言葉に、シャルルの思考は吹っ飛んだ。さっきまで何を考えていたのかも忘れて、思わず「え?」と聞き返してしまったのである。若干、声も裏返っていた。王妃の第一声でまさか「馬糞」などと汚らしい単語が出てくるとは夢にも思わなかったのだ。

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