牢獄と仮宮殿(2)

 訳も分からぬままシャルルとロシナンテは待合室へと牢番に連れて行かれ、そこでコンスタンスと再会したのである。シャルルの姿を見るまで非常に心配していたコンスタンスだが、一日ぶりにガスコンの少年と対面してパァァと明るい笑顔になった。


「シャルルさん。無事に会えてよかった……」

「ど、どうしてここが?」


 近寄ろうとするコンスタンスに対し、シャルルは一歩下がった。ついさっきまで馬糞まみれの牢屋にシャルルはいたのである。シャルル本人の嗅覚は麻痺してしまっているが、コンスタンスが嗅いだら、鼻が曲がるほどいまの自分は臭いかも知れない。


 が、コンスタンスはずんずんと歩み寄って来る。シャルルは当然逃げる。


「どうしたの? シャルルさん」

「い、いまの俺は臭いですから」


 このまま逃げ惑うわけにもいかないので、シャルルは正直に答えた。


「確かに、くせぇな」


 髭が自慢の牢番が、シャルルをからかった。シャルルはかっと顔を真っ赤にする。ガスコンの少年は、初恋の人の前で臭うと言われたのが、死ぬほど恥ずかしかったのだ。


「あら、そうですか? 私は今日、鼻が詰まっているんです。全然分かりませんわ」


(そうか、鼻詰まりか!)


 それがコンスタンスの気遣いの言葉だとは思いもしないシャルルは、彼女の台詞を額面通りに受け取って、それならぴったりそばにいても大丈夫だと安堵するのであった。疑うことを知らない性格なのである。


 さて、コンスタンスがなぜコンシェルジュリー牢獄に来たのか。彼女がシャルルに説明した内容をかいつまんで話すと、以下の通りである。


 コンスタンスはシャルルと約束した朝十時に、フォブール・サン=タントワーヌの例の旅籠を訪れた。そこで、旅籠の主人から、ガスコーニュ訛りの少年が馬泥棒を追いかけて出て行ったきり戻って来なかったと聞いたのである。また、旅籠に泊まっていたある商人に、


「昨夜、どうもそれらしき少年が、サン・ポール広場で騒ぎを起こして牢獄に連れて行かれるのを見た」


 と教えてもらった。驚いたコンスタンスはあるお方に懇願し、シャルルを釈放してもらったというのだ。


(牢屋の中の人間をそんな簡単に出せるなんて、そのお方とは何者なのだろう?)


 そうシャルルが疑問に思う必要は無かった。なぜなら、コンスタンスが「いまからそのお方のもとに、あなたをお連れします」と言ったからである。


「昨日のお礼を言いたいそうです」







(俺はいったいどこに連れて行かれているのだろう?)


 シャルルは、コンスタンスに導かれるまま、昼下がりのパリの街を歩いている。


 だが、真っ直ぐに歩けない。

 忙しなく街路を行き来する人々。左の通路から飛び出して来る馬車。右の通路から走って来て、危うく馬車に轢かれそうになる豚。……昔のパリでは放し飼いにされている豚が町中をうろうろしていたのである。


 誰かと、何かと、ぶつからないようにするのに必死で、コンスタンスにあれこれと質問する余裕も無い。不思議だ、コンスタンスはどうしてあんなすいすい泳ぐように前へ進めるのだろう。


 ちなみに、ロシナンテはトレヴィル殿の邸宅で預かるということで、コンスタンスの供をしていた下男がヴィユー・コロンビエ街まで連れて行った。下男は気弱そうな顔をしていたので、ロシナンテになめられて噛まれていないかが心配だ。


(俺を牢から出してくれたお方は偉い人に違いないが、コンスタンスもただの娘ではないらしい)


 彼女の話から察するに、その高貴なお方とコンスタンスはつながりがある。また、銃士隊長代理トレヴィルのことも知っているようだ。普通の町娘ではない。


 シャルルは、自分の少し前を歩くコンスタンスの後ろ姿を見つめながら、彼女が俺のような田舎者では手の届かない大貴族の令嬢だったらどうしよう、と不安に思うのであった。


「気をつけな!」


 不意に、頭上から声が降ってきた。


「シャルルさん!」


 次の瞬間、シャルルは振り返ったコンスタンスによって手首をつかまれ、ぐいっと身体を引き寄せられていた。思わずシャルルは前によろめく。


 抱き合うようなかたちになってしまい、シャルルの鼓動は跳ねた。コンスタンスの瑞々しく可憐な唇が目の前にあるのだ。シャルルが少しでも首を前に動かせば、彼女の唇をいともたやすく……


 べしゃ!


 誘惑的で天国のような時間は、背後でした不快な音により一秒で終わった。ぎょっとしたシャルルが振り返って足もとを見ると、シャルルがさっきまで立っていた場所に汚物が飛び散っていたのである。その汚物に、町を徘徊していた豚たちが群がり、がつがつと食べ始めた。


「まだ夕刻でもないのに、こんな人通りの多い時間帯に捨てるなんて、信じられないわ!」


 コンスタンスは、汚物が降ってきた建物の二階の窓から顔を出している、無精髭の男をキッと睨みつけた。


 この時代のヨーロッパの都市は思いのほか不衛生で、一般の住居にはトイレがなかった。代わりにおまるのような物があり、それがいっぱいになると、二階や三階の住人は通路の人間に一声かけて、窓から投げ捨てたのである。放し飼いにされている豚たちは、いわばパリの町の清掃係で、パリ人たちが街路にまき散らした汚物を食べることで処理してくれていたのである。ただし、コンスタンスが怒ったように、人の往来が頻繁な真っ昼間に汚物を捨てるのはマナー違反だった。


「ありがとう、コンスタンス。お陰で服を汚さずに済んだよ」


 シャルルは礼を言った。牢獄の待合室で交わした会話で、二人とも同い年の十五歳だということが分かり、敬語はやめている。


 ちなみに、シャルルは牢獄を出る前に服を着替えた。故郷を出て以来、ずっと着ていた粗末な服はあちこちが破れ、汚臭に慣れっこの牢番たちが嗅いでも顔をしかめるほど臭ったのである。コンスタンスが準備よく持って来てくれていた、ベレー帽、清潔な上衣、半ズボンをいまは身に着けていて、腰には釈放時に返却されたレイピアの剣がぶら下がっている。


「シャルルさん。街を歩くときは、前後左右だけでなく、上も気をつけてね」


 コンスタンスが冗談交じりにそう言うと、シャルルは力無く笑った。糞まみれになるのは、もう懲りごりだ。

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