牢獄と仮宮殿(5)

 コンスタンスは、「シャルルさん!」とこの不敬なガスコン少年を諫めたが、後の祭りである。


「田舎者はがつがつした人間が多いと思い込んでいたけれど、あなたはとても謙虚なのね。王妃の私にはキスできないと。手になんて、ただのあいさつ代わりなのに」


 王妃の言葉に棘があることを悟り、シャルルは(ああ、やってしまった! やはり俺は迂闊すぎる!)と、ここで初めて自分の王妃に対する対応のまずさに気がついた。


「でも、ご褒美はあげないとね。シャルル、コンスタンスにキスしなさい」

「な!」


 シャルルとコンスタンスが狼狽して顔を見合わせる。シャルルは耳の先まで真っ赤にし、コンスタンスは困惑している様子だった。


「コンスタンスは私の侍女だから、代わりのご褒美よ」


 アンヌ王妃はシャルルに意地悪をしているわけだが、コンスタンスにしてみれば、とばっちりもいいところだろう。しかし、王妃の命令にまた逆らって、これ以上、機嫌を損ねるわけにはいかない。コンスタンスは何一つ抵抗することなく、おずおずと手をシャルルに差し出した。うら若い娘にしてみれば、自分の意思でもないのにこのような行為を人前でするのは恥ずかしいに違いない。


 シャルルはじっとコンスタンスの白い手を見た。小さくて可愛らしい手だが、よく見ると細い指には縫い物でつけたと思われる傷がある。何もかも侍女や召使にさせていて、傷ひとつない王妃のシルクのような手は芸術的と言えたが、生活の温かみが感じられるコンスタンスの手のほうが俺は好きだとシャルルは思った。


(そんなコンスタンスの手を俺は辱めてもよいのだろうか?)


 人に命令されてキスするなど、彼女の自尊心を無視している。宮廷のパーティーなどで貴族たちに日常的にあいさつのキスをされているアンヌ王妃には分からないだろうが、十代の思春期にとって、手へのキスひとつも一大事なのである。


 二度も王妃の命令を拒否するわけにもいかないし、どうやってこの場を切り抜けるべきかとシャルルが固まって悩んでいると、意外な助け舟が出た。


「え? 私は別に二人をいじめてなんていないわ」


 アンヌ王妃が弱った顔で、頬を膨らませて何ごとかを抗議しているシャルロットに弁明を始めていたのである。


『シャルルとコンスタンスをいじめたらダメ!』


 英語でそう言っているらしいことは、シャルルにも何となく雰囲気で分かった。シャルルとコンスタンスが困り顔をしているのを見て、王妃が二人をいじめているのだと察したのだろう。


「分かった、分かったわ。そんなに怒らないで。可愛い顔が台無しよ」


 アンヌ王妃もシャルロットには弱いらしく、「もういいわ」と二人への命令を取り消した。


「そもそも、お礼が言いたくてあなたをここに呼んだのに、大人気無いことをしてしまったわ。ごめんなさいね」


 王妃でも反省はするらしい。いや、気まぐれな王族だからこそ、自分の意見をころころと変えられると言うべきか。


「シャルル。これをあげるわ」


 アンヌ王妃は右手の手袋を飾っていた金のブレスレットを外すと、シャルルに投げ渡した。シャルルは慌ててそれを両手で受け取る。


「コンスタンス。今日はもう家に帰ってもいいわ。トレヴィルによろしく」

 そう言い残すと、アンヌ王妃はシャルロットを再び馬に乗せ、颯爽と駆け去って行ったのであった。







「コンスタンス。ごめんなさい」


 銃士隊長代理トレヴィル邸があるヴィユー・コロンビエ街へと向かう道すがら、シャルルはコンスタンに謝った。まるで叱られた幼子のようにしゅんとしている。


 アンヌ王妃との謁見で、取り次ぎをしてくれたコンスタンスにシャルルが迷惑をかけたのは明らかだった。コンスタンスもきっと怒っているだろう。シャルルは彼女にどんな責めの言葉を言われても、仕方が無いと覚悟している。だが、コンスタンスから返ってきた言葉は予想外なものだった。


「過ぎたことで思い悩んでも、明日の薬にはならないわ」


 シャルルを見つめるまなざしはあくまでも優しく、我が母フランソワーズの慈悲深い瞳に似ているとシャルルは感じた。


 幼いころ、いたずらばかりしていたシャルルは、しょっちゅう父ベルドランにどやされたものである。頭にたんこぶをつくって逃げ込む先は、いつも母の部屋。フランソワーズは泣きじゃくるシャルルの頭や頬を優しく撫でて、


「男の子が、いつまでも一つのことでくよくよしていたらダメよ。何が悪かったか反省できたら、いつもの元気なシャルルに戻りなさい」


 と言い、最後に頬にキスをしてくれるのだ。


(コンスタンスは、母ちゃんに似ている)


 そう思うと、シャルルの胸の中で甘い感情が広がり、コンスタンスへの思慕の情はますます増していくのであった。


「パリに来たばかりの地方貴族の子が、いきなり王妃様と会うことになるなんて、例外中の例外なの。粗相があっても仕方が無いと思う。シャルルは反省しているだけ立派よ」

「そ、そうかな」

「本当にひどい人なんて、王妃様の許しも無く、手にキスをした無礼者もいるのだから」


 それは確かにひどいな、そいつの顔を見てみたい。シャルルは少し呆れながら思うのであった。


「さあ、もうすぐ私の家に着くわ。夕暮れも近いし、急ぎましょう」

「え? コンスタンスの家? トレヴィル殿の邸宅ではなく?」

「あれ? 私、言わなかったかしら」


 コンスタンスはにっこりと微笑み、


「トレヴィルは、私の父よ」


 と、言ったのである。


(コンスタンスは王妃様の侍女であり、銃士隊長代理の息女でもあったのか!)


 初恋の人の正体をここで初めて知り、驚きを隠せぬシャルルであった。

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